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2010年8月3日~8日まで、タイのバンコクで第14回SEAPAVAA会議が開催されました。
当ウェブサイトにも参加報告書が既にありますし、タイ国立フィルムアーカイブに関する情報は岡田秀則氏(東京国立近代美術館フィルムセンター)のレポートがありますから、私がここで何を書けばいいのか悩みましたが、それでも自分が所属している会社の報告書には書かなかったような、本当に取り留めのないこぼれ話を書いてみようかと思います。これを読んで何となく行った気分に浸り、来年行きたいなあと少しでも思っていただければ幸いです。
SEAPAVAA会議の最初の体験は、約2ヶ月の延期から始まりました。ご存知のように、反政府デモによるバンコク市内の治安の悪化です。航空チケットをキャンセルしてまた新たに購入し直したのですが、8月までに治安が回復しなければ今年は中止になるという噂もあり、始まる前からもう終わったような気分でいっぱいでした。それでもなんとか情勢も落ち着き、会議も無事開催されるとのことで(事務局から連絡がないので噂で判断)、無事、バンコクへと旅立つことができました。会議前日には警官に取り囲まれた数百人の反政府デモと個人的に遭遇しましたが、今回の会議では延期以外では特に問題はありませんでした。
SEAPAVAA会議初日、受付でFPSの会員が並んでいるのを発見しました。SEAPAVAAの受付はいつもこの人、と会員の言うその受付の女性はとてものんびりとしていて、会議開始時間の10時を過ぎてもまったく急ごうとしません。熱帯気候特有のとてもすがすがしい応対です。受付のすぐ後ではSEAPAVAAポロシャツがスタッフの素敵な笑顔とともに売られていました。ピンク色で襟と袖が茶色という独特の色合いで、私の隣にいた白人男性は三度も「No, Thank you.」とスタッフに言って購入を拒んでいました。会議中、これを買っている人を私は一人も見ていません…。そんなこんなでマレーシアから来た団体の横入りを阻止しつつ、何とか参加費(非会員の私は300USドル)を払うことができました。
そういえばなぜ私はSEAPAVAAに行こうと思ったのか。
それは2年前に関西で行われた「映画の復元と保存に関するワークショップ」でFPSによる「SEAPAVAAに日本人が行かない。」という問題提起(?)があったからでした。欧米に行く人は多くても、アジアのイベントに行く日本人がほとんどいないのは事実ですが、それはアジアに興味がないわけではなく、単純に情報がないからなのではないかと思います。私もそれは同じですので、東南アジアの動的映像アーカイブに関する情報が知りたいというのが今回参加した一番の理由ですが、それでも誰も行かないのであれば自分が行ってやろう、と思ったのがそもそものきっかけでした。しかし今年参加してみると、なんと自分を含めて日本人が5人もいましたので、私って一体…と私のような一番の若輩者はいてもいなくてもいいように思ったりもしましたが。
会議のオープニングはレイ・エドモンドソン先生のSEAPAVAAの歴史とコミュニティ構築に関するスピーチからでした。「私って一体…」という私の気持ちと、先生のスピーチのテーマ「Who are we? The archivist in community.」が(私の中で)重なり合い、もうこの人に会えたから満足と思いながら、初めてお会いしたレイに「You are my teacher.」と伝えられたことがこの旅の一番の思い出です。先生は素敵な笑顔でウィンクをしてくれたので、私は彼に弟子として認められたのだと勝手に解釈してこれからを生きることにしています。
先生のスピーチの後には2インチテープの保存・復元の話もありました。え?いきなりビデオの話??と思いましたが、それもそのはず、SEAPAVAAは「film archive (FA)」ではなく「audio visual archive (AVA)」をその名に冠していることに改めて気付かされます。フィルムだけ、ビデオだけ、という日本によくあるこの線引きが一切なく、現在問題になっていることをとにかく今話し合いましょう、という雰囲気がこの会議には満ちています。「え、2インチって何??」「どこで再生できるの?」という簡単な話から始まり、会場も含めた情報提供とディスカッションが広がっていきますが、結論を出す問題ではなく、やがて次の話題へと移っていきます。
会議の話はおいといて、取り留めもなくご飯の話をします。
現地の食生活は会議と同じくらいに重要です。ランチタイムに、「Basement. Basement.」とスタッフに促されて会場の地下へ下りると、すでにたくさんの料理が用意されていました。どこかのケータリングなのですが、ほんとうにSEAPAVAAのもてなしは素晴らしく、なんと会期期間中、毎日パーティのように昼食が用意されていたので驚きでした。もちろんアジア料理が満載ですが、飲んだことのないフルーツドリンクにデザートにものすごい辛いサラダに麺類など盛りだくさんです。とにかくテンションが上がりすぎて、あまりのおいしさに毎回全部食べることに私は必死でした。
会議の参加者は100人程度で、スタッフも交代で食べていますので、それなりの人数です。同じ円卓に座っていた、日本によく行くというPaul Jonesさんの話を聞きつ
つ、デザートのアイスクリームまで全ての料理を平らげました。タイ在住の彼は映像機器のセールスをされているそうで、なんと、勤めている会社内で勤務をしているわけではなく、プーケット!(だったと思います)の近くの自宅内で仕事をされているそうで、うらやましい!!の一言でした…。空き時間があるとすぐにメールチェックをしている彼が、海外を飛び回るビジネスマンとしてとても印象的でした。
お昼時間は参加者と親睦を深めるとてもいいチャンスです。さらに会議の話はおいといて、ホテルの話をします。
私はバンコクに来たのは2度目のため、安いホテルを探すのは結構簡単でしたので、会場のすぐ裏通りにある一泊600バーツ(約1600円)の格安ホテルにチェックインしました。寝る分にはまったく問題のないホテルでしたが、ホットシャワーは昼間の気温で暖まった水が出るという、バンコクによくある格安ホテルです。SEAPAVAA事務局は参加者に現地の超高級ホテル(一泊2800バーツ。約7500円。会議参加者はディスカウントされており、通常料金はその2倍ぐらいする。)を推薦していました。そのホテルの部屋も見せてもらいましたが、私の部屋はその高級ホテルのバスルームぐらいの大きさしかなく、言葉になりませんでした…。
なぜこのような話をするかというと、なんとSEAPAVAAの事務局長であるTan Bee Thiamも会場の近くにある700バーツ(約1900円)の宿に泊まっているというのです。東南アジアの動的映像アーカイブに従事する人たちはお金がないというのに、なぜSEAPAVAA事務局は参加者に超高級ホテルを推薦するのか、当初の私はまったく理解できなかったのですが、Bee Thiamの話を聞いて安心すると同時に、なんとも切ない気持ちにもなりました。よくよく聞いてみると、マレーシアやインドネシアの参加者も高級ホテルには泊まっておらず、推薦されたホテルに泊まっているのはお金のある一部の人だけのようでした。
ちなみに、Asian Film Archiveでも活躍しているBee Thiamは現在32歳ととても若く、大学ではエンジニアとしてプログラミングを専攻していたそうで、映画とはまったく無縁だったそうです。年齢が私と近いので、将来どうするの??と聞いてみたところ、「わからない」とうなだれながら、しかも毎日3時間しか睡眠時間がない、と笑顔で話してくれました。こんな努力家の若い動的映像アーキビストに出会うと、私もとても心強く思います。
2日目の夜には上映会がありました。
7本中、16ミリフィルムでの映写が1本のみで、残りはDVDでの上映でした。Archiveal Screenings と名付けられたこの上映会、DVD上映とはなんとも寂しい気持ちになりましたが、そんな気持ちも吹き飛ばす、素晴らしい映像と出会うことができました。それは1920年代にタイのある一家の子供たちを撮影したホームムービーです。配布資料によると、これは1983年にバンコクのお寺で発見されたそうで、誰が、どのようにしてそのお寺に置いたのか誰にもわからないということでした。数人の子供がただひたすらはしゃいで飛んだり跳ねたりしているだけなのですが、その天真爛漫さを見ていると、これこそ Archiveal Screenings に相応しい1本でした。いつか日本でも上映できれば と思っています。
3日目はワークショップの日でした。会場は前日までのバンコク・アート・カルチャー・センター(BACC)ではなく、市内の中心から少し外れたタイ政府広報局(PRD)の視聴覚アーカイブで行われました。PRDはタイ・フィルムアーカイブ(TFA)のようにフィルムをメインに扱う場所ではなく、AV史料全般の保存もしている大きな国立施設で、見学はできなかったのですが勝手に2階をうろうろすると、音声テープやレコードの他に古いAV機器が大量に保管されていました。また、その部屋の近くにはムスリムの方のお祈りの部屋もあり、日本では見慣れない景色でした。後で聞いてみると、PRDにも現像設備があるそうで、そうするとタイ国内には現像設備のある国立の施設がPRDとNFATの2つもあるということになります(PRDの規模はわからず、またNFATは現像所と呼ぶにはあまりにも少ない設備ですが)。
ちなみにマレーシアの国立の現像所 Filem Negara Malaysia で働いている Tan Kah Poh さんによれば、マレーシアでは現像所が国立で1つ、企業で2つあるそうです。もう50代と思われる彼に、なぜ現像所で働こうと思ったのかと思い切って聞いてみたところ、公務員として勝手に割り振られてラボで働くことになったから、と笑顔で答えてくれました。
まったく話が進みませんが、ワークショップのテーマは「デジタルアーカイブの方法」でした。
講師はオーストラリアの国立フィルム&サウンドアーカイブ(NFSA)のMick Newnhamさん。内容はAV素材をデジタル化するためのワークフローを、初心者にも分かりやすいように簡略化した講義と、そのワークフローを参考にしてグループで討論するというものでした。デジタル化のワークフローは文献やケーススタディがいくつかありますのでここで詳しく書きませんが「これだけは絶対に覚えて帰ってくれ!」と Mick さんが何度も繰り返した3つの単語は、「metadata」「disaster planning」「communication」でした。受講した人は8、9割タイの人で、全員で「メタデーター!」と何度も声を揃えて言わせるという、ユーモア溢れる講義はなかなか日本ではありません。デジタル化の問題はとてもペシミスティックに語りがちですので、「楽しいデジタル化」の側面も学ぶ必要があるように思いました。
会議4日目はエクスカーションです。まずタイの民放局 Channel 7 へ行き、午後にタイ・フィルムアーカイブ(TFA)を訪れました。まずは Channel 7 について。以下、帰国後に教えていただいた Channel 7 で保管しているという映像の本数(概算)です。
番組(U-matic: 17000本/BETACAM: 25000本)
ニュース(16mm: 10000本/U-matic: 8000本/BETACAM: 3000本)
すべて摂氏20~24度、湿度45~50%で保管されているそうです。保存庫は特別な部屋があるわけではなく、通常のテレビ番組の仕事をしている建物内の部屋を保存庫代わりに使用しており、大きなクーラーがフル稼働しているのが見えました。チーフ・フィルムアーキビスとの方が2インチテープを出して見せてくれましたので、上記の本数以外にも保管している映像素材は別の所にあるのだと思いますが、詳細はよくわかりません。(この放送局は英語のウェブサイトもありません)。保存している映像フィルムは主に16ミリで、丸や四角のリールケースにすべてきれいに収納されており、シナリオなどの紙資料もすぐ隣の部屋で保管されていました。その保存庫の通路を挟んだ向かいにあるインフォメーションセンターと呼ばれる部署では、映像素材のデータベースを作成しており、利用しやすいように映像の内容をキーワードとして抜き出す作業を3~4人でしていました。放送局の仕事をほんの少し経験したことのある私でも、保存された資料を当局の放送や、その他の商用利用をする場合、映っている内容のキーワードからアクセスすることが多いため、このキーワードを抜き出す作業が特に重要だと説明してくれた意味がよく理解できました。
インフォメーションセンターの隣の空きスペースがフィルム検査をする所らしいのですが、そこには誰もおらず、代わりに謎のクリーニング液がドンと置いてありました。どこのクリーニング液なのかチーフ・フィルムアーキビスとに聞いてもわからず、後日、輸入業者を紹介してもらい、その方に聞いてもわからず、いまだにあれが何なのか、現在も勝手にかつ地道に調査をしています…。とにかくテレビ局ですので美男美女が多く、目を奪われているとあっという間に見学時間が終わってしまいました。
午後はNFATを訪れました。車で市内から一時間ほどの郊外にあります。収蔵本数やミュージアムに関する情報は東京国立近代美術館フィルムセンター、岡田秀則氏のレポートがありますので参考にしてもらえればと思います。
個人的に興味を持ったのは、私と同じ業務内容であるフィルムの検査・修復セクションでした。そこでは20~30代の若い男女が3人、35ミリの音ネガ、スーパー8、そしてよれよれの両目の16ミリを検査しており、その光景はまったくうちの会社と同じようなものでした。調査をしていたシングル8は1984年のホームムービーとのことで、NFATでは8ミリをなんと約1000本も保存しているそうです。「日本では何本ホームムービーを保存しているの?」と検査をしていた好奇心いっぱいの若い女性に逆に質問されたのですが、「日本のナショナル・フィルムアーカイブでは基本的にホームムービーは保存していません」と返事をせざるを得ない自分が悲しくなりました。
この部屋の入り口では8ミリ映写機で簡易テレシネ(スクリーンプロセスではなく、ダイレクト撮影)をしており、お金のない国立の施設でもホームムービーの収集・保存の他にテレシネまでしているなんて、本当に素晴らしいと思いました。ここに居座って一緒に仕事がしたい!と思い、実際口に出してそう言いましたが、タイ語はできる?とスタッフに一蹴されました…。そんな話をしている間に時間が来てしまい、一緒に周っている見学グループは隣の建物へ移らなくてはならず、私は後ろ髪ひかれる思いで去りました。
隣の建物へ移ると、そこではフィルムのクリーニングと焼付けを行っており、中年の男性が一人で説明してくれました。他にスタッフは見当たらず、またフィルムのクリーニングマシンの裏にはあちこち蜘蛛の巣がはっており、これをこのまま使っているのかとびっくりもしました。現像室の隣の部屋にはスチール缶に入ったフィルムが山積みになっていくつもあり、一番上にはビネガーシンドロームでくねくねになった35ミリが、世界共通の問題としてちょこんと置かれていたりもしました。
フィルムを復元・複製する際、日本ではよく「真正性」ということが取り上げられますが、SEAPAVAA会議全体の流れとしては、そのような理論的な話はほとんどなく、実際にどれだけの量を復元・保存できるのか、また現在どういうシステムで行っているのか等、現実的に直面している議題・提案が多かったように思いました。それはNFATのラボを見ても分かるように、理論や小さい事にこだわらず、蜘蛛の巣がはっていようが、少人数だろうが、お金がなかろうが、とにかく今やれることをやろうという気持ちで実践していることに表れているように思います。
ひと通りフィルムアーカイブ施設の見学が終わり、すぐ隣にあるミュージアムへ行こうと外へ出ると、突然のスコールで足止めです。一日中、気持ちの良い晴天だったのですが、今度は気持ちが良いほどの大粒の雨が降り、やはり熱帯気候の雨季はおもしろいなとわくわくしました。でもよく考えてみればフィルムにとっては最悪の気候ですので、わくわくなんてしていられないと一人意味もなく気持ちを引き締めたりもしました。
雨が降って気付いたことですが、NFATの建物はそれぞれ少し離れて分散されており、かつ建物同士は屋根で繋がっていないため、フィルムを持って行き来するのは大変だろうなと思いました。ましてや建物内の入り口はどこも段差だらけですから、一体どうやってフィルムを運んでいるのか、考えただけでも疲れてきます。とにかく雨宿りのために前の建物へ戻ることになったのですが、これ幸いとばかりにまた検査・修復セクションへ一人で上がって、雨が止むまでそこに居座りました。若いスタッフにどこでフィルム修復を学んだのかと聞いてみたところ、フィルムという物自体をここへ来て初めて見た、と屈託のない笑顔で答えてくれました。検査スタッフはあまり英語ができないのですが(私も同じ程度ですが)、同じ仕事を私もしていると伝えると、言葉が通じなくても何だか通じ合えたような気持ちがして、とてもうれしく思いました。理屈抜きで、フィルムの事が本当に好きで触っている人を見ると、とても幸せな気分になります。
雨がやみ、すべての見学が終わると広場ではお茶とお菓子が用意されており、心優しいスタッフから食べた?食べた?と何度も聞かれたため、余っていたので結局3人分食べました。まるで親戚の家に遊びに来た気分です。きらきら光る水溜りと、晴れた青空と、静かな草原を眺めながら、とにかくぼーっと、自分が何故ここへ来たのかなんて考えたりもしました。
「Who Are We?」会議初日に問いかけられた、レイ・エドモンドソン先生のあの問題に、家族でも友人でもなく「親戚」という答えはどうだろう、と思ったところで私の取り留めのない話を終わりたいと思います。
【メルマガFPS Vol. 62(2010.8.31)、 Vol. 63(2010.9.30)、Vol.64(2010.10.30)より】
《タイ・フィルムアーカイブ》(タイ語)
http://www.fapot.org/
《文中にある岡田秀則氏のレポートは以下からご覧いただけます》
観衆の歴史に寄り添う場所─タイ国立フィルムアーカイブの新しい博物館
http://users.ejnet.ne.jp/~manuke/zatsu/eiga/thai.html
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