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1984年創刊の地域雑誌「谷中・根津・千駄木(略して谷根千)」を発行する谷根千工房が守り、残し、育む様々な東京下町の文化の中には、「映画フィルム」も含まれます。谷根千散歩の道すがら、どこからともなく映写機のカタカタという音が聞こえきたら、そこで映写技師をつとめるは編集者のお一人、山崎範子さんかもしれません。今回は映画フィルムにまつわる出来事を中心に山崎さんにお話をうかがいました。
FPS:「谷中・根津・千駄木」という地域雑誌は、山崎範子さん、森まゆみさん、仰木ひろみさんという3人の女性がはじめられたわけですが、森さんと仰木さんは地元の動坂ご出身ですよね。山崎さんも谷根千のご出身なのでしょうか。
私は埼玉県川口の出身です。結婚以来、谷根千に暮らして30年になります。この地で7回引っ越しました。
以前、山崎さんの息子さんが「うちの母はテレビ買う前に16ミリ映写機買っちゃいましたから」とおっしゃっていました。テレビがみたいときはお友だちの家でご覧になっていたとのこと、お若いのに、なんだか昭和を感じるようなエピソードだなと……
一番上の息子は昭和56年生まれだから平成の話なんですけれどね。テレビを持たないというのは私ではなく夫の方針でした。私はどちらでもいいかという程度です。夫は本の装丁を仕事にしていて、事務所をもっていませんでした。自宅が仕事場、食卓が仕事机を兼ねているような状況だったので、あるとみちゃって仕事にならないと思ったんじゃないかしら。決して嫌いというわけではなかったんです。旅先や実家などでは、かじりついてみていました。
谷根千工房の中でも山崎さんはとくに映画がお好きで、映像といえば山崎さんがご担当という印象があります。
うちにたまたまテレビがなかっただけですよ。谷根千の仕事の中では、映像に関することはほんの一部に過ぎません。
そんな中で、映写機を購入されたきっかけというのは何かあったのでしょうか。
息子が保育園に入ってすぐに催された映画会で16ミリフィルムが上映されて、はじめて映写機というものを身近で見ました。今思えば学校のようなところで映写機を使って上映をするなんて、あの頃が最期だったかもしれないですね。作品は虫プロの『やさしいライオン』(1970年)で、映画にも映写にも本当に感激してね、これはいいなあと思いました。
映写に感動されたんですか?
映写技師が呼ばれていたのでなくて、いつもの担任の保母さんが映写機を操作していました。子どもは前のほうで喰いいるようにスクリーンをみていて、保護者は後ろにいましたから、自ずと映写機に目がいって、その場で「映写って誰にもできるんですか?」と尋ねました。保母さんに文京区の映写機操作講習会を教えてもらい、すぐに受講しました。当時はまだ文京区も講習会を催していたんです。
4月に保育園の映画会、6月に講習会、その夏に父母会の夕涼み会を公園でやりましょうとなったときに、早速私が映写を担当して「くまのプーさん」を野外上映しました。順調にぱっぱっと進んだんです。雑誌「谷根千」の創刊(1984年)の翌年くらいです。楽しくて、あちこちで映写をするようになりました。
現在谷根千工房の事務所が1階に入っているこの団子坂マンションの3階に、当時の私の住まいがあったので、そこを会場にしてはじめたのが「D坂シネマ」です。これは金曜日の定期上映会でした。
毎週ですか!?
はい。今でこそこのマンションに子どもはほとんどいませんけれど、当時はフルタイムで働いている同世代のお母さんたちがたくさん暮らしていて、皆で食料品を共同購入していたんです。0~4歳くらいの子どもたちが10人近くいたかしら。私の家に子どもを集めて映画に引きつけておけば、その隙にお母さんたちはゆっくり品物を仕分けして、夕食の支度もできてしまう。この上映会は、すいぶん長く続いて、当時の雑誌でも取り上げられました。「D坂シネマ」の名称は今も残っています。芸工展(旧名:谷中芸工展)の期間中、老若男女向けに開催されています。
参加費はどうのように設定されていましたか?
フィルムは最初、文京区の視聴覚ライブラリー、そのうち都立日比谷図書館のライブラリーから借りるようになりました。家では当然無料ですが、野外や会場を借りるときは、子どもからでも50円か100円は入場料をとるんです。それは結局、お菓子代になるんですが、子どもたちはおこづかいを握りしめて、映画をみに来る。料金を払ったとなると、損しないように一所懸命みるでしょ。これは大人も子どもも同じです。だから、私は何にしても無料というのはあまり好きじゃないの。
子ども向けということは、アニメが中心ですか?
アニメといっても、テレビでやっているようなのとは全然違ってペースが実にゆったりしているんです。例えば『おやゆび姫』は、何秒もかけてゆーっくり振り向くの『くまの子ウーフ』のセリフだって「ぼくは、なにからできているのー?」なんてね、実にのーんびりしていて。春休み恒例の”ドラえもん”のような映画に子どもを連れて行くと、その展開の速さにびっくりしたものでした。
今度リバイバルされる『赤い風船』や『白い馬』なども、最初の頃に子どもたちとみた作品です。カナダやチェコで作られた作品も日比谷のライブラリーにはあって、とても人気でした。
たまには大人もみたいというので、それこそビールを持ち寄ってみる映画会も、時々やっていました。子どもが小学校にあがると、学童保育(千駄木育成室)に通うようになり、そこの先生が「育成室も上映会場にしてください」とおっしゃってくださって、新たに始まったのが月一回の「千駄木シネマ」です。こちらは3〜40人集まる映画会になりました。夜間に外出して友だちと会えるというのが子どもにとっては楽しかったみたいです。親が迎えに来て8時半か9時くらいに一緒に帰っていました。
この頃映画をみていた子どもたちは既に社会人ですが、当時のことはどう記憶されているのでしょうね。
覚えていてくれるかな?不思議とちいさければちいさいほど一生懸命みるんです。お姉ちゃんやお兄ちゃんと来た0歳児や1歳児が飽きずにみているというのは、親も不思議がっていましたけれども。後ろを振り向いて映写機からちらちら出ている光をじーっとみつめているような子もいましたね。
映写機は、はじめて1年くらいは文京区から借りていたんです。でも運ぶのが重くて重くて嫌になってしまってね。それで買うことにしました。文京区の方に紹介していただいた映写機の代理店に頼んで、中古を探してもらって。
当時おいくらだったかご記憶でしょうか。
おぼえていますよ。スクリーンなどとセットで24万円でした。今から22〜3年前でしょうか。定価は40万円以上のものだと聞きました。それが北辰の「SC-10」。回転アームによる自動装填のものでしたね。ずいぶん長いこと使いましたが、ゴムベルトが切れてしまったので下取りしていただいて、新たに中古を探してもらいました。それが現在も使っている「SC-210」です。ズームレンズは仕事仲間の仰木がプレゼントしてくれました。当時で2万したそうです。
映画保存協会にお貸ししているエルモの映写機は、月刊「金属」という雑誌を出している株式会社アグネ技術センター(東京都港区)が手放すときに譲っていただいたものです。
自前の映写機があると、搬入の手間が省けて助かりますよね。
でもね、当時は購入しても、車検みたいに年に一度は検定のために区役所まで持参しないといけなかったので、それはそれはたいへんでしたよ。フィルムを借りに行くだけでも一苦労なのですから、毎年、映写機の検定がある度に区長宛に公聴ハガキを書きました。本を最寄りの図書館で取り寄せて貸してくれるように、フィルムの受け渡しを図書館でできるようにしてください、たとえ日にちが余分にかかってもいいですから、と。
嘱託職員の原口修さん(財団法人文京アカデミー)が検定を担当されるようになってからは、出張してくださるようになって、大助かりです。当時は検定に持っていくと映写機がずらっと並んでいて、ずいぶん持っている人が多いんだなと思ったものです。でもほとんど学校や児童館など施設のものだったんですね。出張検定が可能になったのは、持っている人があっという間に減ってしまったという実情もあるのかもしれません。
今でこそ私たち映画保存協会の活動は、谷根千地域だからこそできるという実感がありますが、谷根千工房さんが地域雑誌をはじめる前から、そういった活動に取り組みやすい雰囲気があったのでしょうか。
当時の東京にはほかにも似たような環境があったんじゃないかしら。同世代が集まっている団地とか……
でもそうですね、この辺りは働く女性にとってはとても暮らしやすいところでしたよ。どこで働いているにしても通勤がラクで、保育園や小学校、図書館に公園も近所にあるし、ですから気持ちよく暮らせるんです。当時は子どもを外に出して危ないなんてこと、一切考えませんでしたね。家の中が狭くてもまったく問題ありませんでした。当時住んでいた部屋は10坪もなかったんですよ。全体で30平米ちょっとの1DKに5人暮らしでした。
フィルムに関しては私たちが知っているだけでも、鉄道省の技術者が撮影した『欧州旅行』(1931年/16ミリ/15分)、『わたくしたちの町 ―1955年の池之端七軒町』(パチリ会映画部/1955年/16ミリ/15分)、故・熊沢半蔵さんの手作りアニメーションなどのお宝映像が発見されています。
熊沢さんのお宅はね、浅草に今もある蛸松月菓子舗という美味しい和菓子屋さんの分家だったんです。団子坂にお店があって、谷根千の和菓子屋さん特集号の取材をきっかけに出会いました。お話をうかがう中で「実はアニメを撮ってんですよ」っておっしゃって、実際に映画を拝見したらこれがあんまり面白いので、何度も上映会を企画しました。当時、フィルムを貸し出すことはされなかったので、ご自身による出張上映でした。
熊沢さんは毎年、同好会の方たちとの8ミリフィルムの上映会を明治安田生命ホール(新宿)でやっていらしたんです。そこに参加していた素晴らしい作品を撮る方がいて、中根さんといいますが、その方の上映会も企画しました。
「谷根千」の取材をする中で、こんなのがありますよ、って教えていただいたのが『わたくしたちの町 ―1955年の池之端七軒町』です。早速、パチリ会のメンバーであった志田カメラさん(台東区池之端)のところにお話を聞きにいきました。『わたくしたちの町』は完成度が高くて、不忍通りふれあい館(文京区根津)で上映会をしようと決めると、都内版の新聞記者も興味を持ってくれました。ずいぶん話題になって、上映会には100名以上もお客さんが集まったんですよ。1998年のことです。
パチリ会というのは町会青年部の中の映画部会といったものです。ご近所同士の活動としては、異色ですごいと思いました。
はじめて《ホームムービーの日》に参加されたとき(会場:不忍通りふれあい館)の印象をお聞かせください。図書館司書のSさんのご紹介で、谷根千工房さんとFPSが出会うきっかけとなったイベントでもあります。
面白かったですよ。『わたくしたちの町』にしても、皆にみてもらおうという意図があって制作された映画ですよね。でもそうじゃない、まったくの個人的な映像でも面白いっていうのは不思議ですよね。2004年から毎年参加してみて、面白いものとそうでないものがはっきり分かれるなあということはわかってきました。よく知っているお宅のものであってもビデオなんか見せられると、例えば子どものピアノの発表会の映像とかって、あんまりみたいとは思わないでしょう?
うんざりしてしまうし、苦痛ですよね。
苦痛であるはずのことが苦痛でなくなる、その境界線がどこにあるのか……
わざわざ足を運んで他人の映像をみて、なぜ楽しいかっていうところは、うまく説明できないですね。
持ち主の方がその場にいらして何か一言おっしゃると、それだけでぐっと面白くなることがあります。
そうですね。2006年のHMD谷根千(根津教会)でみた『マサオの自転車』は、映像だけでも素晴らしいものだけれども、あの場に「マサオ君」がいたことによって面白さが倍増したでしょう。不思議でしたよね。
(『マサオの自転車』とは:昭和30年代の東京都北区、都内とはにわかに信じ難い程の長閑な風景の中、マサオ君が姉や友達らと自転車に乗る練習を繰り返し、ついに乗れるようになる瞬間までを父親が撮影したモノクロの8ミリフィルム)
私は子どもをビデオに撮ったり、写真を撮ったりすることがなくて、撮影はまずしないのだけれど、取材で聞き書きをさせていただいた後には、ご家族の古いアルバムを見せていただくことがあるんです。古い街並や、当時の衣装が珍しかったり、そういうの、とても面白いですよ。出征のときの家族写真などからも、その時の雰囲気がよく伝わってきます。つい最近も根津にあるオトメさんという中華料理店を取材させていただきました。オトメさん、実は以前「オトメパン」というパン屋さんだったのね。終戦後、近隣の学校給食はぜんぶオトメパンだったそうです。そのパン工場の写真をみせていただいたのだけれど、これが本当に面白い。ご家族のこと何も知らない人にとっても、その良さは変わらないと思います。
ほかにも何か印象に残る発見があれば教えてください。映像にまつわることで。
東京都都市計画課が企画した『20年後の東京』(1946年)ですね。この映画のフィルムを救済した宮崎(旧姓:渡辺)静江さんという都の職員の方に上映会でお話をうかがえたことが何より嬉しかったです。宮崎さんが映像にとくに興味をお持ちではない方であるにもかかわらず、フィルムを復元されたいうエピソードが、強く心に残っています。
もう一つ、台東区の根岸小学校の戦時中の運動会の8ミリフィルムもすごいんです。バトンを砲弾にした砲弾運び競争、落下傘ダンス…… 根岸のお医者さまの撮影でした。つい笑って見てしまうのだけれど、実にいたたまれない映像です。障害物競走も、子どもが皆、負傷した兵隊さんの格好をしてね、包帯を巻いたり松葉杖をついたりしながら網をくぐって。フィルムは傷むから貸し出したり上映したりはしないということで、拝見したのは一度きりです。
ほかには…… そうですね、ベンジャミン・ブロツキーというユダヤ人が1910年代に日本国内各地で撮影した『ビューティフル・ジャパン』というのもありました。浅野セメントの浅野総一郎も関わりがあるようです。2時間以上の映像が残っていて、今から15年くらい前、東京シネマ新社(東京都文京区白山)の岡田正子さんが調査される際に、お声を掛けてくださいました。何しろ古い映像なので、建築史家の藤島亥治郎さん(1899-2002)に同席していただいて、知っている場所があったらお教えしますということで拝見しました。私たちが地図上で確定できたのは不忍池の出初め式くらいで、結局はあまりお役には立てませんでしたけれど。
映画館のことについてもお尋ねしたいと思います。三百人劇場がなくなって、谷根千一帯にはついに映画館がなくなってしまいましたね。
三百人劇場は常設館ではなかったけれど、とても好きな映画館だったので、残念でした。常設館として一番後まで残っていたのは、文京区では後楽園シネマです。
映画特集の号(品切れの30号「映画と映画館」)に調べて書いた通り、動坂シネマというのもあったし、千駄木なのに名前はなぜか根津アカデミーというのもあったし。でもすべて昭和40年代に閉館しています。谷根千にコミュニティ・シネマみたいなものが一館くらいあってもいいのにね。
残念ながら30号はFPSの映画保存資料室にも所蔵がありません。
最後に、谷根千さんの本業である雑誌づくりについてお尋ねします。最近また、いかにも手作りといった風な雑誌が若い人のあいだで盛り上がっていますが、商売として考えると、紙媒体に憧れこそあれど踏み出せないケースも少なくないように思います。HPはあっても出版はできないという意味では、私たちもまさにそうです。
出版の流通ルートに問題があるんですね。谷根千もそうだけれど、個人で出しているミニコミの人たちにはあんなシステムはまったく必要ないんですよ。どうやって欲しい人に届けるかということになると、今はもうネットに頼るほかないでしょう。
一時期、この編集室を尋ねてくる方で一番多いのは雑誌を作りたい人たち、ということがありました。本当にたくさんの方から相談を受けました。沖縄からはボーダーインクの「ワンダー」創刊時と、まちなか研究所わくわくの「みーきゅるきゅる」と2件もあったんです。「ワンダー」はもうずいぶん前になりますね。「みーきゅるきゅる」は2004年夏創刊だから、その年のはじめか前年のことでした。創刊にあたってここまで足を運んでくださるっていうのもすごいけれど、数ヶ月後に「できました」って送ってきてくれて、それを今も出し続けているのだから、感心してしまいます。
今後、この地域に谷根千のような雑誌が生まれることはないかもしれませんが、何か構想がある人たちは、ここに来たらノウハウを教えていただけるんですね。
私と森は出版社勤めの経験がありました。私はフリーでも編集をやっていたし、森はフリーのライターでしたから、まったくの初心者だったわけではありません。とはいえ、制作の一工程を知っていたに過ぎないので、谷根千をはじめてから学んだことが多いです。確かに私たちは糊と定規があれば手作業でできます。でもそんなノウハウはもう古いんじゃないでしょうか。パソコンを駆使してつくっているわけではないので、印刷費も割高になっているような気がします。私たちが基本的な工程と思っている流れの中には、もはや必要ないものもあるのかもしれません。
何らかの地域活動をはじめるときに、家賃が安いというだけでできることって本当に多いと思います。ここも安いけれど、もっと安い映画保存協会の事務所に、わたしたちが入れば良かったねって、話をしていたんですよ。
ぜひシェアさせていただきたいです!これからもどうぞよろしくお願いします。
(2008年3月13日、谷根千工房にて 聞き手:石原香絵)
谷根千工房について、詳しくは谷根千ねっとをご覧下さい。
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