夏の京都は暑かった。白い雲、青い空、紫外線!「夏に京都ねぇ……暑いよ絶対」といった周囲の言葉を軽く恨みつつ、私は汗をかきかき、四条大宮駅を目指した。
京都の西を走る京福電鉄嵐山線・北野線は、1両編成の小さな路面電車である。車両の形式は「モボ○○○型」という。“モボ”といっても「モダンボーイ」の略ではない。「モーター付ボギー車」の略。だが、この“モボ”の両路線、もしかしたら「モダン」でとらえてもいいのかも。なぜなら、嵐山線・北野線は、「輝く日本映画の路線」といっても過言ではないからだ。 四条大宮駅から嵐山までの「嵐山線」は、途中の帷子ノ辻駅で「北野線」に分岐する。
この路線沿いには、映画村で有名な太秦があるのだが、まず私は、嵐山を目指すことにした。目的地は往年の大スター、大河内伝次郎(1898~1962)の別荘、「大河内山荘」! 映画村で有名な太秦駅を通過し、嵐山駅で下車。野々宮神社を目印に静かな竹林の道を歩く。太陽がガンガン照りつける中でも、緑のトンネルといった感じの竹林はほの暗く、涼しい。その道の奥に、大河内山荘はある。
大河内山荘は、大河内伝次郎が約30年をかけて創り上げた日本庭園である。入り口を進むと、眼下には京都市街、裏に回れば嵐山の青々とした山が迫る。信仰の篤い大河内は、まず最初に持仏堂を建て、ここで座禅を組んだり、台本を読んだりしたそうだ。そして、ここで生涯の幕を下ろした。 庭師と熱心に相談しながら創り上げた庭園は、嵐山の自然に溶け込むように、無理をせず、周りの風景と調和していた。スクリーンにぱぁっとひろがる、丹下左膳に扮した大河内の笑顔が脳裏に浮かぶ。
嵐山駅に戻り、帷子ノ辻駅で北野線に乗車。ゴトゴトと、列車はゆっくりと家の塀をかすめて進む。まずは「鳴滝」駅。映画がサイレントからトーキーへと移り変わる変動期に、時代劇の台詞を現代語で書き、時代劇の新境地を開いた「鳴滝組」なるシナリオ集団が住んでいた地域だ。駅から降りてすぐ、山中貞雄(1909~1938)らが住んだ家があるというが、今は静かな住宅街だった。
次に「御室」駅。この駅の南側に日本キネマ双ヶ丘撮影所が1928年に立てられた。撮影所自体は変遷をとげるが、この地で片岡千恵蔵も嵐寛寿郎も入江たか子も映画を作った。お隣の「妙心寺」駅は、マキノプロダクションの御室撮影所が1925年に立った場所。ここも今は住宅街の小さな駅。おばぁちゃんが一人、ポツリと降りる。
そして、立命館大学がある「等持院」駅。大きな家が多く、静かで住みやすそうな所だ。等持院には、1921年に“日本映画の父”ともいわれるマキノ省三が、等持院の境内に牧野教育映画製作所を設立。以後、マキノキネマ株式会社へと名を変え、次々と日本映画の新風を送り出した、日本映画史の上で重要な場所だ。今は、等持院の中にマキノ省三の銅像がすっくと立っている。こんなところで、エイヤァとチャンバラ時代劇が撮られていたのか。何だか、にわかには信じ難い。
嵐山線、北野線の両路線は、今も京都の人々の重要な交通手段だ。買い物袋を抱えたおばあちゃん達が、京言葉でお喋りするのを聞いていると、そうか、このおばあちゃん達の中には、きっと嵐寛や阪東妻三郎をナマで見ている人だっているのかもなぁ、と思う。すると、急に車窓の風景が美しいモノクロームになる。京都の街中を走りまわった映画人たちの息遣いが、何だかこの線路から伝わってくるような、そんなセンチメンタルな気分になる。
いやいや。それはともかく。この鉄道は、当時、最先端の映像を生み出した“モダン路線”であったことを忘れてはいけないだろう。新しい技術、新しい演技、新しい脚本、そして、新しい映像が、この路線沿いの土地から、次々と生み出され、日本映画の黄金期を築いたことは確かなのだから。その新しさが色あせることなく、今でも残っている鉄道。それが京福電鉄嵐山線・北野線である。京都は確かに、食べ物や町並みもいい。けれど、日本映画の時代に、思いをはせるのもまた、京都の楽しい過ごし方なのではないだろうか。(A)
2011年9月
≪大河内山荘≫
京都府京都市右京区嵯峨小倉山田淵山町8(京福電鉄嵐山線「嵐山」駅徒歩15分)
開場時間:午前9時~午後5時 入場料:大人1000円、子供500円(ポストカード、お抹茶付き)
≪京福電鉄ホームページ≫ http://www.keifuku.co.jp/
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