追悼 はたあきおさん

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映画史家・はたあきおさんが2021年1月28日に心不全でお亡くなりになってはや2年になろうとしています。2022年のメルマガFPSに掲載した追悼文をこちらにまとめてご紹介します。イラストはkameさん(https://kameillust.com/)にお願いしました。
*皆さまからのメッセージは随時受け付けています。

畑暉男さんとの思い出:
私が初めてお会いしたのは2004年の秋、丁度今から18年も前の事になる。畑さんは(東京国立近代美術館フィルムセンターの)私の席の斜め後ろの席でスチル写真を担当しておられた。隣の「映画係」の私の席は離れ小島のような場所にあったので、すぐ後ろを向くといつもいらっしゃるカタロガーの大先輩は心強く、大変お世話になった。

そんな畑さんは、映画以上に鉄道が大好きな方であった。時折話す鉄道談義はどんな冒険活劇よりも面白くてワクワクするものだった。あんなに分厚いアメリカ映画の本をお書きになりながら、アメリカにはついに上陸することはかなわなかったそうで、「行こうとしたことも、行く機会も沢山あったがどうしても行くことが出来なかった。西廻りで行こうともしたが駄目だった。」とおっしゃっていた。そんな畑さんの為に、私がアメリカに行った時にアムトラックの時刻表と「ロッキー山脈とアムトラックの車両のスライド」をお土産に買って来たら喜んでおられた。

また、自分で主催して上映をする楽しみを教えて頂いた。ご自分の誕生日近辺に合わせて「はたあきお映画祭」と銘打って高円寺の「円盤」で上映会を開催しておられた。ある時は「蒸気機関車のにおいはどんなんだろうね。」というリクエストに応えて炭団(石炭を粉末状にして固めたもの)と七輪を用意。香り付き上映会を開催したものの、危うく観客もろとも一酸化炭素中毒であの世に行ってしまいそうなことになったのも今になっては楽しい思い出話だ。LOFTで上映された時はロックバンドと対バンで喝采を浴び、地方にも遠征して上映会を開いた話もお聞きした。私が世話人を務める「ホームムービーの日in京橋」にも毎回貸して下さった。

フィルムセンター退職後も、本屋でバイトをしながら足繁く通って来られ、かつての同僚と一緒にお昼を食べに行き、映画を見ては図書室で資料を調べ 、有楽町のビックカメラで最新鋭の映像周辺機材を見て帰られるというルーティーンをこなしていた。時にはかわいらしいペット(ハムスター?)も同伴して来られた。

畑さんは自分の撮影した作品をDVDで多数出しておられ、私もそのお手伝いをさせて頂いた。「ヨーロッパの蒸気機関車1970-2015」は、畑さんが持って来られた原稿やBlu-rayをを二年ほどかけて家内制手工業で地道に作り上げ、64作品分、合計で1,050分ある大作に仕上がった。最期はご自身の終活の為に昔からの友人に配っておられた。

そんな畑さんと、めっきり会う機会が減ったのはコロナが流行り始めてからである。ワクチンが普及し流行も小康状態になると、時折訪ねて来られる感じではあった。その頃は、東京国際フォーラムさんとフィルムセンターの共催事業で鉄道の記録映画の特集を開催しており、ちょうど蒸気機関車の上映があった為、畑さんの為に予約を取った。だが、電話をしても繋がらず、それっきりになってしまっていた。コロナが心配で家に閉じこもっているのだろうか?そのうち、また来るだろうと思っていたが気が付いた時には既に、お別れの言葉もないまま人生の最終列車に乗りこまれ虹の橋を渡った後だった。鉄道映画の特集の最後の方で、かつて一緒にキネ旬の雑誌「蒸気機関車」で編集もなされていた国鉄の新幹線運転士の大石和太郎さんの製作した映画も上映されたが、それも見ることはかなわなかった。「機関車の音源があるからきちんとまとめたいね。」などとおっしゃっていたのも、それっきりになってしまった。あまりにも日常的に顔を出して下さっていたので、いつでもお会いできるものだと思っていた。

今になって数々の仕事を振り返ってみると、その専門性と仕事の丁寧さに圧倒させられる。畑さんの追悼上映会を行う事が決まり、畑さんの手掛けた出版物を探し出すために古書店を廻った。鉄道関連の古書店でキネマ旬報の雑誌「蒸気機関車」を発見し、目次の編集に畑さんの名前が載っていた時の感動。その鉄道関係の雑誌の数々…… お財布と相談で購入するか迷い店内をぐるぐる廻っていたところ、さっきまで隣に並んで立ち読みをしていた一見関係なさそうな鉄道ファンに貴重なバックナンバーを取られた…悔しくてならない。
(2022年10月、宮澤愛)
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畑暉男さんのこと:
2022年3月某日、文京区小石川の伝通院近くの「真珠院」にある畑暉男さんのお墓にお参りに行ってきた。ご挨拶が1年ちょっと遅れたが、畑さんは「そんなことだろうと思ったよ」と笑って許してくださるだろうか。

2001年秋、畑さんに初めてお会いした日のことはいまでも忘れない。私が米国の映画保存学校を卒業し、映画保存協会の前身となるグループを立ち上げた直後のタイミングだった。銀座の舗道をランチに向かう途中で、「あなたみたいなひとがはやく来てくれたら良かったのに。ちょっと遅かったね」と畑さんはおっしゃった。

後に、畑さんが1970年に執筆された美術手帖の記事(「フィルムセンターの開館 発足はしたけれど…… 早急に望まれる運営の具体策」)を仲間が見つけて見せてくれたとき、その意図が少しわかったような気がした。当時、設立まもない国立近代美術館フィルムセンターで、畑さんは「映画保存の仕事を手伝ってくれる誰か」を待っておられたのかもしれない。

2001年の畑さんはとっくに頭を切り替え、国内外のSLを追いかけて充実した日々を過ごしておられた。毎朝早起きして自宅で『20世紀アメリカ映画事典』の編集作業を進め、職場には誰より早く出勤してパソコンのキーを勢いよく叩き、最新の撮影機材を買い揃えていつもニコニコ笑顔だった。小柄な畑さんに灰色の事務机のサイズはちょっと大き過ぎたけれど、そのアンバランスさが、やけに格好良く決まっていた。

映画関連の仕事を引退された後も、畑さんは「生涯フリーターだよ!」と楽しげに書店勤務を続け、いつも本当にお元気だった。映画上映にご一緒すると、ときに高名な評論家の先生から「やあ畑くん」と声をかけられることもあったが、そんなとき畑さんが私を「今日は友だちと一緒に来てんだ」と紹介してくださるのが嬉しかったものだ。

畑さんに教わった面白いエピソードは数かぎりなくある。例えば、田園調布育ちの畑さんのご近所だった上山草人の葬儀の弔問客の車が列をなしていた様子。日活の『特急三百哩』を監修した鉄道省の村尾薫のこと――村尾の出身地である瀬戸内海放送のディレクター氏の取材で、畑さんが生前の村尾と帝国ホテルのラウンジで会合を繰り返し、映画にまつわるエピソードを聞き出そうと苦心されていたことを知った。

戦前、米国ハーバード歯科医学校で学んだ父上の思い出話も印象的だった。ポンティアックを乗り回していたというエルパソでの生活についてもっと詳しく聞いておけばよかった、と悔やんでおられたが、不思議なことに畑さんの渡航先はいつもアジアや欧州で、渡米されたことはなかったはずだ。

少年時代(1950年代)、連載の遅れていた若き手塚治虫氏に「はやくしてくれないと困るよ」と手紙を出したら届いた、というジャングル大帝レオのイラスト入りハガキを、畑さんはケースに入れて大切にされていた。そう、畑さんはせっかちなのだ。小会の活動の進行がもたついているときなど、「はやくしてくれないと困るよ」と叱られたことは一度ではなかった。

せっかちな畑さんが旅立ってしまわれたので映画保存協会は置いてけぼりだが、考えてみるとメンバーそれぞれが畑さんのスピリットを少しずつ受け継いでいるような気もする。もし伝えられるなら、「そのことがいまとても誇らしいです」と天国の畑さんに伝えたい。
(2022年5月、石原香絵)
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何と言うか、なかなか言葉がでず、思い出すとため息をついています。もっとお会いできる機会があったのではないか、お電話すればよかったのかな、と考えて、後悔ばかりがあります。
最後にお会いしたのは、2018年の今頃で、国立映画アーカイブ近くの喫茶店に行ったと思います。はたさんは、その少し前にアーカイブでご覧になった東欧の映画の感想をお話しされていました。私はもうその頃は仕事ばかりしていて、映画を見る機会が極端に減っていたので、きっと話しがいがなかっただろうなと思うのですが、いつも映画に対してまっすぐな方だった、と懐かしく思い返しています。
お礼を申し上げてしまうと、お別れが本当のことのになってしまうようで、辛いですが、でも、心からありがとうございました。たくさんのことを教えてもらって、楽しい時間を共有できたことがうれしいです。思い出はこれからも大切に胸においていきたいと思います。
(2022年3月、中川望)
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畑暉男さんとは映画保存協会(FPS)やその中の小型映画部として活動していた頃、映画や8ミリを通してさまざまな繋がりがあり、FPS主催のイベントにもよく参加していただき、ホームムービーの日では鉄道を撮影された、しかも非常によくできた作品を持って参加いただいたものでした。とくに8ミリの技術的なことに詳しく、カラーの撮影はコダックにこだわったり、スーパー8でアナモフィックレンズ(シネマスコープ方式)の撮影を試みたこともあるとか、いろいろなことを伺いました。

印象に残っているなかでは、ホームムービーの日の谷根千会場で、9.5ミリで撮影された作品を上映した際に、映画史家としてどの作品から影響された作品と、コメントされたことを覚えています。かつて畑さんの所属していた鉄道8ミリクラブに同じく鉄道愛好家で小型映画も撮影していた花森安治の参加を打診したそうですが、それは叶わなかったそうです。
アマチュア映画年鑑(日本小型映画連盟、1976年)のアマチュア映画作家の人名録に、畑さんのお名前もあり、そのコメント欄には「あらゆる記録として、映画は最高の文化財と考えたから…」とありました。記録そして文化財としてフィルムに関わった畑さんらしい言葉だと思います。
(2022年2月、飯田定信)
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はたあきおさんと「ホームムービーの日」:
はたあきおさんの訃報を聞いたのは、年が明けて少し経った日曜日だった。昨年(2021年)の1月28日に心不全で84歳でお亡くなりになったとのことなので、もう1年経つことになる。

ちいさなフィルムのためのちいさな祭典「ホームムービーの日」には、家庭に眠るフィルムを発掘し、調査・修復を行った上で、メンテナンスした映写機を使った上映会が世界各地の会場で開催される。東京上野からほど近い谷根千会場では、まだ東京会場と言っていた2006年から14年まで、ほぼ毎年、はたさんにフィルムをお借りして上映した。はたさんの鉄道のフィルムは、写っているものが貴重なだけでなく、映像もきれい、加えて撮影した背景や撮影の苦労話もたっぷり聞けるので、楽しみにしている人が多かった。3回目くらいから「鉄道のフィルムは今回も上映するの」「何時ぐらいに掛けるの」といった問い合わせがパラパラ来るようになり、その時間だけ上映会に顔を出すお客さんもいた。

「ホームムービーの日」で上映するフィルムは事前にインスペクション(検査)を行い、映写できる状態か確認し、必要があれば補修を行った上で上映する。私は2006年、初めて世話人(主催者)として「ホームムービーの日」に参加した。はたさん以外の方のフィルムは事前にお預かりしてチェック・試写をしたのだが、はたさんだけは事前の郵送はNGで、当日持ってくるとのこと。また映写も自分でやるという。随分と気難しい人が来るのかなと思っていたが、やってきたのは、刈り込んだ白髪の、小柄で気さくな感じのおじさんだった。

上映会が始まるとはたさんは、自分のフィルムの解説だけでなく、他の人のフィルムについてお客さん同士が会話しながら楽しむきっかけを作ってくれていた。場を盛り上げようとか、繋ごうとか、そういう感じではなく、知りたいことや気付いたことに対して素直に声に上
げていた感じだった。そのおかげて、他の人も構えずに答えたり、自分の気づいたことを声に出したりするようになった気がする。

家庭に眠っていたフィルムたちは、きちんと編集されているとは限らず、やや冗長なものもある。また撮影した方は既におらず、何のフィルムか分からない、というケースもままある。谷根千会場では修復は行うが、基本的には編集はせずお預かりしたものをそのまま上映する。ほとんどのフィルムがサイレントということもあり、初めての世話人で司会だったこの年、果たして場が最後まで持つのか正直ちょっと心配だったが、杞憂だった。上映したフィルムの魅力もあるが、上映会をお客さん同士での会話や発見を楽しむ場にできたことが大きい。上映前には冗長に感じたフィルムも、乗り物の型や広告などから撮影時期を推測したり、意図せずに写っている家具や服装、遊具から、撮影者と同世代には懐かしく、下の世代には新鮮に感じるギャップを楽しんでいるうちに、あっという間に時間が過ぎた。会場だった根津教会の集会室は途中帰る人もほとんどおらず、立ち見が出るほど盛況で終わった(こんなに人が来るのならと、根津教会の鍋谷牧師(当時)が翌年から礼拝堂の方を貸してくれるというおまけもついた)。

はたさんは、上映されているフィルムから引き出すものが多かった。写っている鉄道や建物など映像の内容に関連するものだけでなく、「どうやって撮ったの」「フィルムは何使ったの」「この色を出すのは難しかったのでは」など、撮影者の観点での質問や気付きも多く(マニアックな方向に行くこともあったが)、思いがけない撮影の苦労話や、何気ない映像に込められた工夫などが撮影者から飛び出すこともままあった。この文を書きながら「これを撮影するのは大変だったでしょ」とはたさんから振られて撮影の苦労話をされた方が、「撮影の苦労を会場の人にわかってもらえて今日は本当に嬉しかった」と、嬉しそうな顔をして帰っていたことを思い出した。

「ホームムービーの日」谷根千会場で上映したはたさんの作品は8本。1本を除いて鉄道のフィルムで、SLが3本、海外の鉄道が3本、廃線ものが1本。最初から変わらず、少し早めに会場に来られて、資料と一緒にフィルムを持ち込まれた。最初に資料が配られ、撮影の背景などを聞いた後、フィルムを楽しむのが恒例だった。他のフィルムは基本的に事前に試写を行っているので、上映の時には1回観たフィルムだが、はたさんのだけは上映会で初めて観るフィルムだった。解説もご自身でやってくれるので、基本的に一観客としてフィルムを楽しんだ。ロケーション探しの苦労から、数少ない撮影チャンスを捉えるためのドタバタ、十分な情報も無い中で海外まで撮影に行ってしまう無鉄砲さなど、映像自体の美しさや珍しさに加えて、はたさんの饒舌な語りを聞きながらの上映は、楽しかった。

お客さんも楽しんでいたようで、上映会後のアンケートでも、印象に残ったフィルムとして、かなりの人がはたさんのフィルムを上げていた。上映した最後のフィルムは列車ではなく、明治座で行なわれた自主公演のフィルムだった。頼まれて撮影した物だが、芸能界に詳しく無いので誰が映ってるかよくわからないとの事。スクリーンに映してみれば何か分かるのではないか、ということで上映した。上映した際には、お客さんが多くなかったこともあり、あまり声が上がらずちょっとがっかりしたが、上映会後のアンケートに「あれは〇〇〇でないか」と書かれていたり、お客さんから、自分の知人で詳しい人がいるので、その人に見せれば何かわかるはず、という話が来たりして、もう一度みんなで見る会をしたいね、という話になった。

はたさんは横浜にお住まいで、谷根千会場のある根津までは乗り換えもあり、結構遠い。はたさんのお近くでとなると場所を探す必要がある。翌年のホームムービーの日のプレイベントにしましょうか?などと話をしていたが、結局実現はできなかったのが悔やまれる。

先ほどはたさんのフィルムを「一観客として楽しんだ」と書いたが、少し正確ではない。はたさんの話は面白いのだが、時々止まらなくなるのだ。なので、司会者の仕事のうち、タイムキーパーとしての役割だけは忘れないようにした。「はたさん、そろそろフィルムを観ながらお話を……」ちょっと高い早口で話すはたさんの声をいま思い出している。きちんとお礼を言えなかったのが心残りだ。
はたさん、お世話になりました。ありがとうごさいました。

最後に「ホームムービーの日」谷根千会場で上映したはたさんのフィルムの一覧を。

・2006年 『岡山下津井鉄道』
廃線になる倉敷の鉄道のフィルム。路面電車だった気がしたが、改めて確認したら電車だった。
・2007年 『オランダの路面電車』
海外シリーズ。製糖列車は不確かな情報をもとにはるばるフィリピンまで行ってしまったエピソードが面白かった。
・2009年 『水鏡』
・2011年 『オ召機C57-1』
・2012年 『雪の重連』
SLシリーズ。水鏡は川や湖にかかる鉄橋を走るSLと煙の鏡像が、雪の重連は真っ白な山里を煙を吐いて走る機関車が印象的。この翌年から「電車のおじさんのフィルムは何時ごろ掛けるの」と言う問い合わせを何本かいただくようになった。
・2013年 『ベルギー鉄道150年祭』
久しぶりの海外へ。
・2014年 『昭和40年代の明治座の自主公演』
とても自主公演とは思えない豪華なステージ。芸能人に詳しくないと言っていたはたさんが撮っていたというのが、なんとなく楽しい。
(2022年2月、島啓一)
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SLと8ミリとお肉が大好きな畑さん。お会いする度、いつも楽しい撮影旅行のお話をたくさんお伺いし、笑顔と元気をもらいました。
職場の大先輩の畑さん。畑さんのお仕事を礎に、国立映画アーカイブの日々の業務が今日も続いています。
畑さん、本当にお疲れ様でした。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
(2022年1月、三浦和己)

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