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アイリーン・バウザーが語る「専門職としてのフィルムアーカイブ活動」

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アイリーン・バウザーが語る「専門職としてのフィルムアーカイブ活動」

聞き手:ロナルド・S・マリオッツィ

はじめに

フィルムアーキビストとしての、また国際的なフィルムアーカイブ運動の旗手としてのアイリーン・バウザーの経歴は、ちょうど20世紀後半の50年間に重なる。ニューヨーク近代美術館(MoMA)フィルムアーカイブといえば、国際的にも多大な影響力をもつフィルム・コレクションだが、その責任者の地位についたバウザーは、美術館の内部組織としてアーカイブを運営するという特異な経験を積んだ。折しも、国際フィルムアーカイブ連盟(FIAF)がその委任事項や出版方針についての基礎を固めつつあった時期に、FIAF実行委員を務めただけでなく、映画史家としての一面も持つ彼女は、フィルムアーキビストと映画研究者の相互協力を促した。その動きは1970年代以降、古典映画史の再構築の一助となる。今回のインタビューでバウザーは、専門職としてのフィルムアーカイブの成熟過程を証言してくれた。

アイリーン・バウザーがオハイオ州コロンビア・ステーションにアイリーン・パットとして生まれたのは1928年1月18日のことだった。マリエッタ・カレッジで英語と芸術学を学び、チャペル・ヒルにあるノース・カロライナ大学大学院で、ティントレット*の「サン・ロッコ同信会館聖堂内および建物の連作装飾画」を扱った論文で美術史の修士号を取得した後、1954年、バウザーはリチャード・グリフィスの秘書としてMoMAフィルムライブラリーの一員となった。フィルムライブラリーを創設したアーキビストであるアイリス・バリーに次いで、リチャード・グリフィスは二代目のフィルム・キュレーターだった。1966年にフィルムライブラリーがフィルム部門(Department of Film)と改称してほどなく、彼女はアソシエート・キュレーターとなった(※1)。おもな著作に、アイリス・バリー(著)「D.W. Griffith, American Film master」(1965年 MoMA)の改訂版**、ジョン・カイパーとの共同編集である「A Handbook for Film Archives」(1980年 FIAF)、そして「The Transformation of Cinema, 1907-1915(History of American Cinema vol.2)」(1990年 Scribner)がある。

(本文中の*は原注、は訳注を示す。)

* ティントレットはルネッサンス盛期の画家。www.salvastyle.comに紹介あり。

** D.W. Griffith, American Film master」(1965年 MoMA)の改訂版。アイリーン・バウザーは映画題名リストの注釈を担当した。

【人物紹介】リチャード・グリフィス(1912-1969):映画史家、評論家。1951‐1965年:MoMAフィルムライブラリー キュレーター。アイリス・バリー:(1895-1969)1932-1935年=MoMA図書館司書、1935-1946年=フィルムライブラリー キュレーター、1946-1950年=フィルム・ライブラリー ディレクター。彼女の夫であるジョン・エヴァンズ・アボット(1908-1952)はフィルム・イブラリーの初代ディレクターを勤めた(1935-1946)。

※1 アイリーン・バウザーは1967年にフィルムライブラリーのアソシエート・キュレーターになり、1976年にフル・キュレーターになった。1970-1973年までフル・キュレーターを勤めたのはドナルド・リチーだった。したがって彼は4代目のキュレーターであるが、フル・キュレーターとしては3代目である。

関連サイト

ニューヨーク近代美術館, MoMA
森美術館:MoMAの歴史

Oral History Project; interview with Eileen Bowser, 2000.
© The Museum of Modern Art Archives, New York.

美術史研究から映画保存へ

ロナルド・S・マリオッツィ(RM):映画への興味関心からMoMAに就職したわけではないとお聞きしましたが。

アイリーン・バウザー(EB):映画について特別な知識や経験があったわけではありません。青春時代が大恐慌に重なって、映画館に通うようなこともありませんでした。私は郊外に暮らす大家族の出身です。映画に行くとなったら家族総出ですから、そんなことはせいぜい年に一度くらいでした。例外は、まだ幼かった頃、夏休みに公園で開催された無料上映会でしょうか。記憶にあるのはジャンク寸前のB級ウエスタン、思い出すのは馬やカウボーイのことばかりです。

RM:リチャード・グリフィスがあなたを採用するにあたって、映画に関する専門性をまるで求めなかったということは、当時まだ映画の専門家といえる人材がほとんどいなかったということでしょうか。

EB:ええ、それは間違いありません。大学に映画の学部はなく、ましてや映画に関する講義を受けて単位を取るなんてことは考えられない時代でしたから、人材は他分野から集まってきました。もちろん、ほとんどが大の映画ファンであったわけですが。ディック・グリフィスの場合、大学を卒業してすぐMoMAに就職しています。学生時代から既にアイリス・バリーと連絡を取り合って、はやくもハヴァーフォードでMoMAの最初期の上映プログラムを組んでいたので、それをきっかけにバリーのアシスタントになったのです。

RM:初めてMoMAに就職した当時の同僚というと、どのような面々になりますか?職場で映画のエキスパートとの出会いなどありましたか?

EB:この頃出会った人物といえば何といっても『メキシコ万歳』*のプロジェクトに携わっていたジェイ・レイダでしょう。チャールズ・ロートンが『狩人の夜』の製作準備のために映画をみにやってきたり、ギッシュ姉妹に加えて、ハーマン・ウェインバーグも顔を出したり。リチャード・グリフィスのアシスタントをしていたジョン・アダムスを通して出会った映画人も大勢います。それから、マルガレータ・アケルマークの部下で、フィルムの貸出しを担当していたクリス・ビショップ。彼は詩人のジョン・ピール・ビショップの息子で、ジョン・アダムスの親友でもありました。そんな仲間が集まって、我々が今まさに取り組むべきは所蔵フィルムを知り尽くすことである、と意気投合したのです。まずは本格的な目録の作成に取りかかるつもりでした。私が就職した当時は3×5インチほどの小さなカードに映画題名、監督名、数名の出演者名などを記入したものがあるばかりで、フィルム収蔵庫でおこなうインベントリーのシステムこそ確立されていましたが、本格的な目録は未だ存在していなかったのです。さて、すべての所蔵フィルムを鑑賞する計画を実行に移そうというわけですが、どのようにしてそのような時間を捻出したと思います?実は、勤務時間外にみてしまおうと企んで、毎週土曜日の朝を選んだのです。これはボランティア活動でしたし、土曜日に映写技師を呼ぶわけですから、グループを結成して、映写技師のギャラを賄えるだけの小額の会費も徴収しました。この上映会を「土曜の朝のフィルムシリーズ」と命名し、会場にはMoMAの大劇場ではなく、4階の小さな試写室を活用しました。

RM:そのグループに誰が参加していたかご記憶ですか?

EB:ええ。後にとても有名になった人もいます。その当時はまったく無名だったエドワード・ゴレイやスーザン・ソンタグもメンバーでしたよ。スーザン・ソンタグは小さな息子を連れていました。彼女は息子をおとなしくさせてはいましたが、あまりに幼い子だったので疎ましく思うメンバーもいたようです。ほかのメンバーも後に映画の世界で働くようになった人たちばかりです。あなたがチャーリー・ターナーについて書いた記事(※2)に名前が出てくるので、あなたはすべてのメンバーをご存知なのではないかしら。

RM:メンバーとは、どのように知り合ったのですか? ニューヨークには映画ファンのコミュニティーがあったのでしょうか。

EB:毎日のようにMoMAの劇場の前列のほうに陣取る熱狂的な映画ファンというのは、いつの時代もいるものです。後に定着した呼び名ですが、クリス・ビショップは彼らを「古典映画の友」「フーフズ」と名付けました。私たちはその呼び名を冠したバッジまで作ったほどです。次第にマスコミのあいだでも使われるようになって、その呼び名が世間に定着していきました。「土曜の朝のフィルムシリーズ」は1955年から65年くらいまで、ほぼ10年続き、そのあいだに所蔵フィルムの中から上映可能なすべての作品を鑑賞しました。今日とくらべれば、さほど大規模なコレクションではなかったのですが、こうしてMoMAのコレクションのなんたるかを目の当たりにしたことは、後の私にとってかけがえのない蓄えとなりました。しかしカタログ化の仕事はというと、そう簡単にはいきませんでした。必要な情報すべてを書き込むために大きなカードを採択することから着手しましたが、目録作業というのは決して完結することがなく、常に変化していくものです。フレキシビリティの高いシステムの必要性を実感した私が思いついたのは、情報を3枚のカードに分けるシステムでした。クレジットを1枚に、解説をもう1枚に、そして最後の1枚に技術情報を記したのです。コンピュータがまだなかった当時、このシステムはちょっとした発明でした。

*『メキシコ万歳』(1932)=監督:セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン。www.quevivamexico.comを参照のこと。

【人物紹介】ジェイ・レイダ(1910-1988)は映画史家、作家、教育者。1936-1940年にMoMAに勤務。1950年代初頭から、彼はMoMAの上映プログラムのために「エイゼンシュタインのメキシコ映画:Episodes for Study(1955)」を制作した。チャールズ・ロートン (1899-1962)は俳優、監督。アイリス・バリーと個人的に親しかった。リリアン・ギッシュ(1895-1993)/ドロシー・ギッシュ(1898-1968)はフィルム部門のサポーターだった。ハーマン・ウェインバーグ(1908-1983)は映画史家、翻訳者、タイトル・ライター、映像作家。マルガレータ・アケルマーク(1913-1983)はフィルムの巡回プログラムが開始された40年代から60年代半ばまでの責任者。60年代半ばにフィルムライブラリーのアソシエート・ディレクターとなり、1978年の引退までそのポストを任された。クリストファー・ビショップ、ジョン・アダムスは50年代中期から後期にかけて、MoMAにて事務系の様々な職についた。エドワード・ゴレイ(1925-2000)は芸術家。作家。デザイナー。彼の著作には無声映画、中でもD. W.グリフィスに触発されて生まれたものが多い。スーザン・ソンタグ(1933-2004)は作家、戯曲家、映像作家。息子のデイヴィッドは1952年生まれ。

※2 “Witnessing the Development of Independent Film Culture in New York: An Interview with Charles Turner” Film History 12 no.1(2000)

MoMAフィルムライブラリーの日常

RM:MoMAで仕事をはじめられた当時の、職場の日常を細かく描写していただけませんか?スタッフに誰がいて、何をしていたかについて知りたいのです。

EB:コンパクトな職場でした。フィルムを収集したり上映プログラムを組んだり、キュレーターがやるべき仕事においても事務的な仕事においても、ディック・グリフィスの存在は絶対的でしたね。フィルムの貸出しを担当していたマルゲレータ・アケルマークには大勢の部下がいました。まだMoMAに現像所があった時代で、フィルムの送付や検査、補修など、後に外注になったような仕事がまだ含まれていたのです。

RM:50年代には35ミリの貸出しがおこなわれていましたか?

EB:いえ、16ミリだけだったはずです。35ミリはコストがかかりすぎますから。

RM:映画保存の責任者はいましたか?

EB:いませんでしたね。でも技術者はいました。長い間オルガ・グラマグリアが担当していて、それを引き継いだのがエドワード・カーンズです。フィルムの検査と補修はオフィスの中ではなく、地下にある作業場でおこないました。フィルムはロングアイランドにあるボンデッド社の倉庫に保管していましたが、これが劣悪な倉庫で、在中する職員がたった1人しかいなかったのです。もっとも私にも技術的な知識は一切ありませんでした。技術的なことは後に時間をかけて少しずつ学んだのです。

RM:多様な仕事を少しずつ経験するチャンスがあったわけですね。フィルムシリーズと同時に目録作業も担当されていたとは。グリフィスが協力的だったことはもちろんのことと思いますが。

EB:本当に素晴らしい上司でした。やりたいことは何でもやらせくれましたし、口が裂けても「それはおまえの仕事ではない、おまえにできるわけがない」などと言うことはありませんでした。事務的な仕事は得意ではなかったかもしれませんが、彼が私の人生の中でもっとも優れた上司であったことには間違いありません。どう表現したらいいのか、ただ励ましてくれるだけではなく、私にその仕事をやりとげる十分な能力がある、と認めてくれるのです。グリフィスの秘書になってはじめてオフィスに顔を出したとき、「何か用か?」と尋ねられたので、「仕事を与えてください」と願い出ると、返事は「そうだね、カレンダーに私のスケジュールでも書き込んでくれるかな」というものでした。その年はそのようにはじまって、しばらくすると、彼はどこかに短期の出張に出てしまいました。いよいよ何もすることがなくなった私は自席で、オフィスにあるファイルなどに黙々と目を通しはじめました。そうすることで、この仕事のすべてを学んだのです。手紙のやり取りのファイルなどは片端からすべて読みました。出張から戻ってきてサム・ゴールドウィンの企画(※3)にとりかかったグリフィスは、「Moving Picture World」(※4)を読むようにとの指示を私に出しました。ゴールドウィンのキャリアに関するありとあらゆる資料を私がどの程度収集できるか、試されたようです。

RM:当時、アイリス・バリーは既にMoMAを退職してヨーロッパに暮らしていたわけですが、それでもまだ影響力を保っていたようですね。彼女とは何か一緒に仕事をされましたか?

EB:グリフィスはアイリス・バリーやポール・ローサと連絡を取り続けていて、フィルムの購入や上映プログラムなどについて、あれやこれや相談を持ちかけていました。彼は旅行嫌いだったので、めったにFIAF(※5)には参加しませんでした。ですからFIAFに関する新しい情報は常にアイリス・バリーが提供していました。グリフィスにとってバリーは現役も同然だったと思います。

RM:実際にお会いになったことは?

EB:一度だけあります。グリフィスに関する彼女の著作(D. W. Griffith, American Film Master)の改訂作業を手伝わせていただいたこともありましたが、でもそれはご本人との共同作業ではありませんでした。お会いしたのは、彼女がパスポート書きかえのために米国に戻り、NYに短期滞在されたときのことで、フィルム部門にいらっしゃった3日間、私がお世話をしたのです。すべて彼女のお望み次第でした。滞在3日目、私の電話が鳴ったとき、私はほかの2、3人とマルガレータの机のまわりに集まっておしゃべりしていたのですが、私の机を使っていたバリーが自動的に受話器をとってしまう、ということがありました。オフィス中の視線が彼女に集まりました。すると彼女は私を通り越してどこか遠くを見ながら、こう言ったのです。「アイリーン・バウザーという人にお電話ですよ」。3日過ぎても私の名前すら覚えていてくれなかったのですから、知り合いか、と問われれば答えはノーです。

【人物紹介】オルガ・グラマグリアはテクニカル・アシスタント、後にテクニカル・スーパーバイザーとして1940年代半ばから50年代半ばまでフィルム・ライブラリーに勤務。エドワード・F・カーンズはグラマグリアに先立って1930年代後半からテクニカル・ディレクターの地位にあった。

※3 “A Producer’s Work: The Film s of Samuel Goldwyn”のこと。開期は1956年2月13日~7月22日。

※4「Moving Picture World」(1907-1927)。アメリカを代表する定期刊行物で、古典映画の研究者に好まれる。

※5 FIAF 国際フィルム・アーカイヴ連盟 – The International Federation of Film Archivesは映画フィルムを収集し保存するアーカイヴの組織として1938年にパリで設立された。設立総会に参加したのはフィルム・ライブラリー(NY)のアイリス・バリーとジョン・アボット、ライヒスフィルムアルヒーフ(ベルリン)のフランク・ヘンゼル、シネマテーク・フランセ―ズ(パリ)のアンリ・ラングロワ、国立フィルム・ライブラリー(ロンドン)のオルウェン・ヴォーン。

フィルム・コレクションの構築と上映活動

RM:MoMAの所蔵する映画についてはどのようにお考えでしたか?その全貌を把握されるまでには、ずいぶんと長い時間がかかったわけですが。

EB:私はMoMAのコレクションから映画教育を受けました。大学でそれ以上の教育が受けられたとは思いません。今と比べれば小規模ではありましたが、すでに素晴らしいコレクションでした。当時、MoMAの一般上映には欠かさず足を運んだものです。今日のようにめまぐるしく変わるプログラムではなく、スケジュールとしてはまったく別物といってもいいほどで、同じ作品を数週間上映し、1日の上映回数も多く設定されていました。ジャンルや会社、監督などのくくりでプログラムを組み、たいていの場合は解説書がつきました。重要な企画上映には、美術館の出版局が解説書をあたりまえのように制作したものです。同じ企画が半年以上続くこともありましたから、かなり本格的な解説書が用意されました。前回のFIAF総会の議事録に目を通すと、どうやらこのような考え方が返り咲きつつあるようです。リチャード・グリフィスがMoMAを去って以来、上映プログラムはあっという間に当時アンリ・ラングロワがやっていたようなスタイルに変わり果ててしまいました。つまり、やたら作品数を重視して、次から次へと上映作品を変えていくというやり方です。それはそれでもちろん利点もあるでしょうけれど、私としてはそうではないスタイル、つまり、後に主流になるプログラミングとは違って、より選別され、熟考され、知性に支えられたスタイルが好みです。どちらのやりかたも悪くはないでしょう。MoMAは教育機関として、MoMA独自の視点や映画史への態度を示しています。ラングロワ的な上映方法では、どれが重要でどれが重要でないかはあえて提示されず、観客自身に発見を促します。いずれのプログラミングのスタイルにも利点があります。

勤務中に映画をみにいくことは許されませんでしたが、勤務時間後には通い詰めたものです。1週間で2作品程度しか当時は上映していませんでしたから、MoMAが一般向けに上映する作品のすべてを制覇することができました。プログラムが日替わりになって以来、すべての映画をみることは無理だと悟りましたが、その現実を受け入れるまでには時間がかかりました。それまでは、上映される映画をすべてみることに固執していたのです。

RM: MoMAが1935年にフィルムライブラリーを設立した際の資金は、本来、MoMAの教育的サービスに向けられたものだったわけですから、間違いなくフィルムの上映活動がその目的を果たしたはずです。解説書の出版は教育的サービスの一環だったのでしょう。

EB:フィルムを教育機関や他の美術館に貸し出すことこそ、上映活動の第一段階でした。なぜならMoMAは53丁目の建物(※6)ができるまで、劇場を所有していなかったからです。

RM:MoMAにいらっしゃった当時は映画の上映と貸出しのプログラムが二つの主要な柱として、とても活発だったわけですね。映画保存や収蔵作品の目録化など、アーカイブ的な仕事はまだはじまっていなかったのでしょうか。

EB:アーカイブ活動というのは、美術館の仕事の中で常に日陰の存在です。それは美術館の伝統のようなもので、MoMAだけの問題ではありません。ほとんどの美術館では企画展示がもっとも大切な仕事と見なされています。美術館は展示のためにあり、それは特権的な仕事で、かつ、マスコミから注目を浴び、ゆえにお金も集まりやすい分野なのです。しかしもちろん、アーカイブ活動、つまり裏方の尽力なくして企画展は成立しません。その事実は、裏方として働いてきたからこそ、私にはよくわかっています。

RM: MoMAフィルムライブラリーの初期の歴史をここでまとめさせてください。その設立に際して、広報活動の行き届いたフィルム収集のキャンペーンが、かなり派手に展開され、収蔵品は1933から41年という短期間に急激に成長します。第二次大戦後、多量のフィルムの保存収蔵の費用のため、アイリス・バリーは深刻な資金難に喘ぎます。アーカイブ活動は低迷期に入り、収蔵品の一部を手放してしまいます。ナイトレート劣化によって失われた作品もありました。1950年にバリーがMoMAを去り、結果として、所蔵品の総数は1940年代の後半から50年代までの長期に渡ってほとんど変化しません。ここまでの私の説についてどうお考えですか。

EB:1950年代は確かに低迷期です。当時はコレクションが厳しく選別されるようなルールがあって、そのルールに縛られていました。後に私がもっと発言力をもつようになってからルールを変えていきましたから、私の時代になって、フィルムの獲得枠はかなり広がりました。でも確かに当時は、かなり狭量な方針でもってフィルムが取得されていました。コレクションは膨大なものにする必要はないが、しかし、最高のものにするべきだ、という考えが根強かったのです。当時はナイトレートの安定性についても不安が募りはじめた頃でした。すべてが劣化してしまうと考える人もいたほどです。ディック・グリフィスならこう表現するでしょう。自分が保存しているコレクションが指の隙間からこぼれ落ちていくような気分だ、と。それが原因でグリフィスは不眠に悩まされていたといいます。彼は資金集めに躍起でしたが、保存への理解を得るには随分と時間がかかりました。1970年代になってNEA(全米芸術基金)が設立されるまで、まとまった額の助成金を受けることはありませんでした。ウィラード・ヴァン・ダイクがフィルム部門のディレクターになったとき、65万ドルだったか、所蔵フィルムの保存のための資金がはじめて提供されたのです。当時としては、かなり達成感ある出来事でした。

RM:それ以前にはロックフェラー財団(※7)やホイットニー財団から資金を得ていたのですか?

EB:そうです。ホイットニー財団が資金を提供してくれました。映画保存活動から利益も生まれてはいましたが、利益といっても、フィルムの救済に必要な全体のコストに比べたら微々たるたるものです。十分な資金とはとてもいえません。年に1、2本の映画を救うのがやっとというレベルでは、まったく追いつかないのです。私がアーカイブの代表の座についた時期は、偶然にもお金が集まりはじめた時期に重なったので幸運でした。私が考えるべきは、その集まった資金をいかに所蔵品に適用していくかという問題でした。最初に取りかかった仕事は最も重要な作品、つまりグリフィスとバイオグラフ社の作品の復元でした(※8)。当初は所蔵するすべてのフィルムを救うことができるなんて、夢にも思いませんでしたから、まずは重要な作品からはじめたのです。アーキビストならおそらく誰もがそうするでしょう。ただ問題はいかに保存していくか、その手段を我々はその頃ようやく学びつつあったに過ぎない、ということです。経験を積むと、時には過去に戻って復元をやりなおさなくてはならないこともあります。

【人物紹介】アンリ・ラングロワ(1914-1977)はフィルムコレクター、アーキビスト、プログラマー。1936年にシネマテークフランセを創設。FIAFの設立メンバー。リチャード・グリフィス退任の翌1966年に、MoMAはよりフレキシブルな上映プログラムへの路線変更を発表した。ウィラード・ヴァン・ダイク (1906-1986)は撮影監督、ドキュメンタリー作家。1965年から1974年までMoMAフィルム部門のディレクターを務める

※6 53丁目西11番地にMoMAが開館したのは1939年。1934年から39年までは教育機関へのフィルムの貸出しのほかに、例えば、マンハッタンのグランド・セントラル・パレスや、コネチカット州ハートフォードのワズワース・アシニアム美術館、ペンシルベニア州ハヴァーフォードのハヴァーフォード・カレッジなど、外部の上映施設を借りて上映をすることも度々あった。

※7 MoMAフィルム・ライブラリーはロックフェラー財団と一般からの寄付によって1935年の5月に創設された。篤志家/セルズニック映画社会長のジョン・ヘイ・ホイットニー(1904-1982)がフィルムライブラリーの初代理事長に就任し、ハリウッドへの影響力を利用してアイリス・バリーやジョン・アボットのフィルム収集活動を支援した。

※8 D. W. グリフィスとバイオグラフ社の復元に関して、詳しくはセルジオ・アレグレの「Interview with Eileen Bowser (1992)」Film Historia 2 no. 3 p245-57を参照のこと。

アーカイブの機能とアーキビストの使命

RM:保存手段についてご説明いただけますか?それから、アーカイヴの機能に資金不足はどのように影響したのでしょう。フィルムライブラリーのネガティブな歴史をことさらに取り上げたいわけではないのですが、バリーとディック・グリフィスはラングロワがらみの後味悪いエピソードを少なからず経験していますね。グロリア・スワンソンについても耳を疑うような事件があったと聞いていますが。

EB:アーカイブが唯一無二の貴重なオリジナル・プリントを誤って外部に貸し出すことがあるとすれば、MoMAの場合、『結婚行進曲』(1928)のハネムーンの場面がまさにそのようなケースで、結果的にこのフィルムはその後、行方知れずになっています。ディックの人が良すぎたのがいけないのです。パリからこのフィルムを要求したのは、作品をすべて元通りにすることを望んでいたエリッヒ・フォン・シュトロハイム本人でした。監督の依頼を断るというのは、なかなかどうして難しいことで、MoMAはその唯一現存するオリジナル素材を、複製もとることなくパリに送ってしまったのです。私に限っていえば、そのような間違いは一度も犯したことはありません。誓っても、複製をとる前にオリジナルを手放すなどということは、私のキャリアを通して一度もありませんでした。このハネムーンの場面はユニバーサルからMoMAに寄贈されたもので、残りの場面はラングロワが所有していました。ラングロワとミラノのアーカイヴ(※9)とのつながりを考えると、一時的にミラノにすべてのフィルムが届けられたことは間違いありません。しかし結果として、ラングロワの起こした火事騒ぎのいずれかで、このフィルムは燃えてしまったといわれています。ラングロワを偉大なるアーキビストとして記憶する人がいることは私も知っています。確かに偉大なコレクターであり、プログラマーであり、そして古典映画やアーカイブを宣伝するための広告塔の役割は十分果たしたでしょう。しかし、彼はアーキビストではありませんでした。ラングロワのとった方針のために、永久に失われてしまった作品が数限りなくあります。彼はフィルムをとてもいいかげんに管理していました。お世辞にも正しい保管方法とはいえないものでしたし、その上、何度も火災を起こしましたよね。しかも当時はまだ、アーカイブ同士がオリジナルをシェアしている時代でした。ですから私はラングロワが偉大なアーキビストであるとは思いません。

グロリア・スワンソンの件はディック・グリフィスからだいたいのことを教わりました。かつてMoMAはスワンソンのフィルム・コレクションを保管していました。中には劣化の兆候をみせているホームムービーもあったそうです。ディックはスワンソンに劣化のことを伝えてはいましたが、二人ともすっかりそんなことを忘れてしまったのです。しばらくしてMoMAを訪れたスワンソンが、彼女の赤ちゃんの映像が見当たらないことに気づいて蒼然としました。怒り心頭、スワンソンはすべてのフィルムを持ち帰ってしまったのです。結局、彼女のコレクションはジョージ・イーストマン・ハウスに寄贈されることになりました。これはまあ、損失というわけではありません。コレクションは自宅に封印されてしまったのではなく、別のアーカイブに預けられたわけですから。

RM:グリフィスはスワンソンが保存に必要な資金を提供してくれることを期待して、ホームムービーの劣化について説明したとは思うのですが、それを彼女が無視したと?

EB:当時の資金不足は深刻でした。『国民の創生』や『イントレランス』がようやく復元されようとしている時期に、そう簡単に赤ちゃんを撮影したようなホームムービーに目を向けるわけにはいかなかったのでしょう。いくら残したいという思いがあっても。

RM:あなたが就職された当時、フィルム部門のフィルムの取得はどれほど活発におこなわれていましたか?

EB:毎年新しい収蔵作品はありました。ただ数的にそれほど多くはなく、というのも、購入資金というものがなかったのです。しばらくして1970年代入り、ウィラードがフィルム部門のトップになって以降、「今年はフィルムに使えるお金がこんなにあるよ」と言える年もありました。彼は資金繰りに長けていたのです。決められた購入資金というのが用意されていたわけではありませんが、たいていディレクターがどうにか資金を調達してきたものです。独立系の映画の購入には助成金を充てました。資金を獲得する道は様々あったので、とにかく片端から挑戦したものです。

1980年になるまで、大手映画会社からナイトレート寄贈を受けるということはありませんでした。それまでは条件がなかなか折り合わなかったのです。誰の失敗というわけでもありません。状況が一変したのは、テレビ局があらゆる映画作品のビデオを制作したいと言い出したときです。ビデオ化によって映画会社はナイトレートをお払い箱にしようとしていましたが、環境問題の高まりで廃棄にもそれなりにお金がかかり、処分も困難になっていきました。そのような時代の移り変わりによって、ついに大手も、アーカイブにナイトレートの面倒をみてもらおうと考えるようになったわけです。

RM:フィルムに関わる中で、いつ頃ご自身の使命たるものを確信されたのでしょうか?MoMAにおいてアーキビストとしてのキャリアを築けるであろうと意識されたのはいつ頃でしたか?

EB:国際フィルムアーカイブ連盟(FIAF)に参加してからです。私は1960年代半ばにFIAFの実行委員に選出され、引退するまでその任務を続けました。ほかのアーカイブとの出会いが、私に職業としてのアーカイブ活動のセンスを与えてくれたのだと思います。ご存知のように、私の時代になるまでは、ほとんどのアーキビストがまだアマチュア・レベルでした。教育環境も整っていなかったし、たいていの人は、映画ファンではあっても、技術的な知識を備えていたわけではなく、ただフィルムへの愛からこの分野に辿り着いたに過ぎませんでした。FIAFは共通の目的に向うフィルムアーカイブの組織です。この組織を通して、フィルムアーカイヴ活動はプロの職業であるという認識が広まり、さらに、この仕事はより本格的に遂行されるべきものだと皆が理解しはじめたわけです。本当の意味での映画保存、本格的な目録作成やドキュメンテーションの芽生え。これがはじまったのがまさに、私がはじめてFIAF総会に参加した年、1968年のロンドンにおいてでした。総会の初日に、目録とドキュメンテーションの委員会の設立が発表され、参加者たちから私がそのメンバーにどうかとの声があがりました。私は厳密には会議に参加したとはいえません。なぜならすぐに別室に移動して仕事をはじめたからです。保存委員会はその1、2年前に生まれたばかりでした。当時は、保存、目録作成、ドキュメンテーションという仕事が本格化する胎動期で、アーカイブ間で活動内容を把握し、組織を整え、皆が等しく従うことのできるルールが編まれていた時期でした。ピリオディカル・インデクシング・プロジェクト(※10)もその年に生まれました。FIAFを通して、世界中の国々で似たような作業が展開されていることに気付いた我々は、そういった共通項のある作業において協力関係を築き、それぞれのアーカイブの手間を省くことにしたのです。FAIFによって私の仕事はがらりと様相を変えました。

RM:1960年代にはじまったFIAFのエンブリョ・プロジェクト、つまり、国際的なフィルムアーカイブの所蔵カタログを作ろうという試みについて、何かご意見はありますか?

EB:FIAFには所蔵作品をきちんと目録化しようという動きが常にありました。そして、ほかのアーカイブがどのような作品を所蔵しているのか誰もが知ることができるように、データをアーカイブ間で共有しようという動きもありました。映画を本気で保存するなら、このようなカタログは実用性の面からも不可欠ですし、また、調査や学術研究の意味でも有用です。しかし当然ながら、これに反対する要素も多々あり、実に長く困難な論争を、おもにジャック・ルドゥーが巻き起こしました。この議論には私も首をつっこんできましたが、共通目録の構築に向けてアーキビストを説得するのは並大抵のことではありませんでした。問題はつまるところ、著作権所有者のエゴにあるのです。意地の悪い権利者がアーカイブからフィルムを持ち去ってしまうのではないか、という脅威がありましたから、アーカイブに協力を要請するのには本当に時間がかかりました。アイリス・バリーは目録の公開に賛成していましたし、私自身、誰がフィルムを奪おうとしても、アーカイブ側がそれを断固阻止できるようなやり方でアーカイブを運営していました。しかし、ディック・グリフィスはそのようには考えていませんでした。彼が責任者の地位にあったとき、MGMがMoMAからフィルムを奪還していきましたが、そのときディックは「MoMAのフィルムに手を出すな」とは言いませんでした。おそらくMGMがその件を裁判沙汰にすることを恐れたのでしょう。裁判はやっかいです。私にはアーカイブの恐怖心も秘密主義もよく理解できます。当時はそのような雰囲気があったのです。実際にそこにある恐怖だったわけですから、決して取り越し苦労だったとは思いません。いくら時代が変わって大手映画会社がアーカイブを信頼するようになってきても、未だにその変化が本物であるとは確信できないアーカイブもあるでしょう。疑心暗鬼のアーカイブは、レイモンド・ロハウアーが権利をすべて買い取ってフィルムの返還を要求するのではないか、というようなことを、ひたすら心配するわけです。MoMAは何があろうと「断固お断り」の姿勢を貫くでしょうが、訴えられることを恐れるアーカイブも中にはあります。弁護士を雇うお金もありません。それでも、外部からの攻撃に「ノー」を貫く姿勢を私は学び取りました。失敗なんて有り得ません。私にできるのですから他のアーキビストにもできるはずです。アーカイブ側の恐怖心は未だ消えずに残っていますが、以前に比べたらずっと薄らいでいるはずです。

EB:私の時代の話をすれば、フィルムの引き渡しを強要され、その先フィルムが適切に保存されない可能性が認められれば、まず複製を取ってそれを手元に残すようにします。複製を取る法的権利がないとすれば、倫理を持ち出します。倫理的な責任を果たすことこそ私の役目です。フィルムを消失の危険から守るのが私の任務なのです。どうして世界にたった1本の、35mmオリジナル・フィルムをみすみす手放すことができましょう!劣化を言い訳にして、未来に向けてフィルムを収蔵庫に閉じ込めてしまうことだってできなくはありません。実際私はそのようなことをこれまでにもやってきましたし、そのようなことを学ぶのに十分過ぎる年月を生きてきました。事物は常に変化するのです。アーカイブのほうが著作権者より寿命が長いのは揺るぎない事実です。アーカイブ活動は息の長いものですから、我々アーキビストは我慢強さを身に付けなくてはなりません。

【人物紹介】ジャック・ルドゥー(1922-1988)は1947-1988年=ベルギー王立シネマテーク ディレクター、1961-1977年=FIAF事務局長。レイモンド・ロハウアー(1924-1987)はフィルム配給業者、プロデューサーにして独立系のアーキビストでもある。アーカイブに長く所蔵されている無声映画に対して著作権を主張することで悪名高かった人物。

※9 チネテカ・イタリアーナのこと。設立は1947年。

※10 The International Index to Film Periodicals の取り組みは、世界中のフィルムアーカイブにおけるドキュメンテーションの取り組みを総括する目的で1968年のFIAF総会(ロンドン)からはじまった。最初の年鑑は1973年に発行され、現在ではCD-ROMで入手できる。

フィルムの収集方針とその方法

RM:あなたが所蔵作品をどうやって増やしていったのかに興味があるのですが、まずお聞きしたいのは、なぜMoMAフィルムライブラリーは機材の収集をしなかったのか、という点です。

EB:私がMoMAに機材の収集を訴えることは過去に一度もありませんでした。なぜなら、方針に反するからです。MoMAは技術系の博物館ではありません。しかしもちろん、図らずも入手することになったいくつかの宝物は手放しませんでした。ビリー・ビッツァーがバイオグラフ社のフィルムとともに持ち込んだプリンターが手に入ったのは幸運なことでした。おそらく彼は初期の焼付けをそのプリンターでおこなったのでしょう。彼が前時代の人物であることが残念でなりません。同時代に身近にいられたらどんなに素晴らしかったでしょう。技術は常に進化するからこそ、機材は重要です。今日利用されているビデオやデジタルディスクも、恐らく十年も経てば複製や再生は難しくなるでしょう。だからこそアーカイブは機材を収集する必要があるわけです。しかしそれはMoMAの目指す理念からは程遠いものでした。

RM:あなたがフィルム収集の責任者であったときに、何らかの収集方針はありましたか?

EB:ありました。MoMAの他の部門と同様に、もっとも質の高い作品を収集すべきだと考えていました。最高の作品を集めるという方針です。しかし、映画保存への理解が深まり、とりわけFIAFと関わるようになってからは、我々が選り好みなんかしていたら、フィルムは絶滅してしまうということに気づいたのです。他に誰も集めていないのですから。したがって、手当たりしだいにすべてのフィルムを収集することが我々の責務であると考えるようになりました。心の中では、パーマネント・コレクションとスタディ・コレクションという、それぞれ別のアイデンティティをもたせることによってこの問題を整理しました。その線引きについてはさほど気にしませんでした。実際、それは文書化された方針でもなく、目録カードに記される項目でもなく、単にフィルム救済を正当化するための哲学的なコンセプトに過ぎなかったのです。芸術的にはそれほどの域に達していないフィルムでも、保存すべき理由は余あるわけですから、いかなるアーカイブにも手に入るすべてのフィルムを集めて欲しいと思います。そうしなければフィルムは死滅してしまいます。我々はフィルムを皆殺しにするわけにはいきません。MoMAの誰に対してもこの方針の是非を問うたことはありません。私が独断によって貫いてきたポリシーです。

当時、米国議会図書館(※11)はまだ積極的な収集をおこなっていませんでした。ジェームズ・カードの個人的なコレクションに端を発するジョージ・イーストマン・ハウス(※12)も1940年代当時は小規模なアーカイブに過ぎませんでした。カリフォルニアではUCLAがアーカイブを設立したばかりで(※13)、当時のスタッフは保存について何の知識もなく、たいした作業はおこなわれず、ただ学生の研究材料としてフィルムを集めていただけで、本格的なアーカイブになったのはボブ・ローゼンが登場してからです。UCLAは後にFIAFにも参加し、FIAFから多大な影響を受けました。そのような出来事が世界中で起こるのを私は目撃してきました。アーカイブのなすべき仕事が徐々に浸透していったのです。とりわけ、他のアーカイブからの助けは大きかったことでしょう。なぜならほとんどのアーカイブはUCLAのケースのように、元々は人々の熱意によって収集活動をおこなっていたに過ぎないのですから。

RM:フィルムを収集する際に、個人的な趣味は反映されましたか?

EB:ある程度は反映したと思います。わざわざ探索して入手した作品もありましたから。ドナルド・リチーがいたころ、所蔵しているべきなのにMoMAの所蔵にない作品をリストアップしたことがあります。所蔵品の抜け落ちた部分を補填するために奔走したので、そのほとんどが現在では所蔵品に含まれています。テッド・ターナーのコレクション(※14)のように膨大な規模の寄贈を受けるようになったのは、私のキャリアの終わり頃からです。理由は前にも述べたように、ナイトレート廃棄のためのお金が出せるような人がいなくなったからです。まさか再びナイトレートが必要になるなんて思わなかったのでしょう。私には、絶対にまた必要になるであろうことはわかっていましたから、契約書に「無料で複製できるのは1度まで」と記し、それが後に功を奏しました。2度目からは新しいファイン・グレイン・マスターをはじめ、必要となる素材すべてに費用を請求できたのです。寄贈者はそんなことには構わず契約書にサインしました。商業ベースの世界にいる人たちは、先見の明がないのです。まさか原版がまた必要になるとは予想もせず、ビデオに変換すればそれで終わりだと思ったのでしょう。しかし新しいメディアは数年ごとに消えてはあらわれ、彼らは、その都度戻ってきては原版を使用することになりました。

MoMAのコレクションを構築する上で私が果たした、おそらくもっとも大きな役割は、フィルムの交換作業であったと思います。多くの失われた米国映画をヨーロッパから取り戻しました。ここでもFIAFが重要な役割を果たしてくれました。というのも交換の多くは個人的な付き合いから生まれたからです。フィルムの話をして、相手がどんなフィルムを持っていて、何を求めているのかを知ることで、真の宝物が収蔵品に加わるのです。FIAF総会で過ごした時間がなければ、今日のような頻繁なフィルムの交換は成立しなかったと思いますし、交換が成立しなければ、コレクションを伸ばすチャンスを失うのも同然です。個人的なつながりというのは本当に大切なのです。

RM:あなたはサイレント・コメディの収集に積極的でしたね。

EB:おっしゃる通り、サイレント・コメディにも情熱を傾けました。プラハのアーカイブ(※15)も収集にとても積極的でしたから、かなりの数のフィルムを交換しましたし、現在でも交換作業は続いています。サイレント・コメディは我々が呼ぶところのいわゆる「オーファンフィルム」、つまり著作権者不明のフィルムなわけです。たいていのフィルムは持ち主から次の持ち主へと転々としています。その人気ゆえ、世界中で発見されますが、海外で発見されるプリントというのはたいてい短縮版です。トップタイトルがなく、外国語版のタイトルだけが残されていることもあります。なんとかオリジナルのタイトルに戻そうと試みますが、いくら翻訳してみたところで、それは本物ではない。本当の意味でオリジナルに戻すことはできないのです。

MoMAはロンドン、オーストラリア、カナダからも同様にフィルムを入手しました。アメリカ映画を取り戻すために、交換はとても有効な方法です。海外からフィルムを入手したという点で、私もMoMAコレクションに貢献できたのではないかと自負しています。

【人物紹介】ビリー・ビッツァー(G.W. ビッツァー)は撮影監督。G. W. グリフィスとの仕事で名高い。ビッツァ—は1930年代の終わりに短期間ではあるがMoMAフィルム・ライブラリーに関わり、バイオグラフ社の作品の識別と復元のコンサルタントを務めた。 ロバート・ローゼンは1975-1998年=UCLAフィルム&TVアーカイブのディレクター、1991年=フィルム&TV部門代表 1998年=演劇/フィルム/TV学部学部長。ドナルド・リチーは1971年=MoMA客員研究員、1971-1973年=MoMAフィルム部門キュレーター。

※11 米国議会図書館映画部門(現・映画放送録音物部門)フィルムアーカイブ。設立は1942年。

※12 ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館フィルム部門。設立は1947年。

※13 UCLAフィルム&TVアーカイブ。設立は1965年。

※14 ターナー・エンターテイメントは1989年と1992年にナイトレートをフィルム部門に寄託している。

※15 チェコスロバキア・フィルムアーカイブ。設立は1943年。

アーカイブ活動と学術研究の融合

RM:映画史研究についてお聞きします。あなたの特筆すべきMoMAでの功績は、アーカイブ活動と学術研究を融合させたことだと思うのです。これはどのように、またどこから始まったのですか?

EB:必要となる調査の規模からいって、これはグループ作業でなくては片付かないと悟ったのです。モントリオールでFIAFのシンポジウムがあったとき(1974年)、テーマは映画史の方法論で、私はその代表に選ばれました。そこで二つの考えを述べました。まず、映画史研究にはチームワークが不可欠であること。何しろ広範に渡るので、個別におこなってどうにかなるものではないのです。次にすべての世代が新版の映画史を創造すべきであること。映画史は世代によって次々に書きかえられるべきなのです。実際に現在の映画研究の潮流を生んだのは1978年のブライトン会議(※16)からでした。これはデイヴィッド・フランシスの功績ですが、私も全面的に彼をサポートしました。ブライトン派からはじめて、しだいに研究範囲を1900年から1906年製作で残存する作品へと広げていきました。私自身も映画史家として、過去にさかのぼることに意義を見出していました。現在に留まって、みたことのある映画から考えるのではなく、過去を振り返るのです。もちろん、過去に戻って映画をみることは現実には不可能ですが、そうしようと試みることで、実際にその現場には行けないとわかっていても、当時の人々がどのように映画をみていたのかを理解することはできます。

長年に渡って研究者がみることのできなかった映画の保存や復元をアーカイブがおこなってきたからこそ、ブライトン会議は実現をみたのです。ようやくそういったフィルムを上映するチャンスがここで生まれ、映画保存活動がフィルムと映画研究者を引き合わせることで、まったく新鮮な上映体験を生み出しました。MoMAはアメリカからそのプロジェクトに協力することになり、会議の準備のために北米の研究者を集めて、みせられる限りの作品を上映しました。ヨーロッパでは会議の直前までその準備ができませんでしたが、米国では会議前の6ヶ月間に渡り上映会をおこないましたから、それまでに計画を練ることができました。

RM:研究者を集めたということは、それ以前から研究者らと面識があったわけですよね。

EB:ありました。古いフィルムに興味のある、または、興味のありそうな研究者を、知っている人の中から選びました。例えばニューヨーク大学の学生や、アンドレ・ゴドローなどです。彼とはモントリオールのFIAFシンポジウムで出会いました。ほとんどがMoMAに顔を出していた人、私が個人的に知っている人、私が優秀な研究者と認めていた人で、初期の映画に興味を持つ人たちです。トム・ガニング、チャーリー・マサーはニューヨーク大学のジェイ・レイダの教え子です。ジェイ・レイダが二人を初期映画へと誘ったことは言うまでもありません。サンフランシスコから参加したジョン・フィルはMoMAでの上映に際して「人生最良のときになった」という感想を漏らしたほどです。一人孤独に研究している研究者の問題を解決するためにも、彼らを映画ファンのように一所に集める必要があります。小規模で気軽な集まりからはじめると効果的です。そうすれば映画の途中に声をあげて議論することだってできます。映画をみながらその場で話をするというのはとても有効な方法です。

RM:ブライトンであなたは上映付の研究発表をしたのですか?

EB:そうです。ヨーロッパの研究者と北米の研究者がシンポジウムの前日に顔をあわせて、再度映画をみました。米国側が選んだ作品やヨーロッパ側が用意した作品を、です。この二つのグループが翌日のシンポジウムで上映すべき作品や論文を選定しました。ブライトンではじまったこの動きは留まるところを知らず、参加者はポルデノーネ(※17)に移りました。古典映画に興味をもつ研究者のグループであるDomitor(※18)も設立されました。今日ではブライトン会議は歴史的な出来事だったといわれます。その場に立ち合えたのは幸せなことでした。もっとも、当時はここまでの成果が将来生まれるなどということは知る由もありませんでしたが。

RM:ブライトン会議はあなたが『The Transformation of the Cinema』(※19)を書くきっかけになりましたか?

EB:そうですね。本の根底にある思想はブライトンの経験から得たものです。何らかの本を書きたいとはずっと思っていましたし、それまでの出版物はすべて誰かとの共著でしたから、自分自身の本が出したかったのです。私のエゴがそれを要求していました。ですからそのチャンスが巡ってきたらぜひ実現させたいと思っていました。1年がかりで調査から執筆まですべて自分1人でおこない、人生で最も幸せな1年であったといえるほどに楽しい仕事になりました。

RM:ということは、MoMAと研究者のあいだの交流がはじまったのはブライトンからというわけですね。

EB:もちろんそうです。以来、映画史研究が蘇りました。当時は皆が映画理論に夢中でしたから、映画史なんてほとんど省みる人はいませんでした。映画史研究は今でも盛んで、おかげで、理論のほうが幾分色褪せてきたようですね。

RM:私は1970年代のコロンビア大学で映画を学びましたが、そこでは映画理論にもっとも重きが置かれていました。

EB:コロンビア大学は映画研究ではたいした成果を残していません。もっとも初期にフィルム・コースを設けた大学ではありますけれど。私はMoMAを退職してすぐに、ニューヨーク大学で講義を持ちました。映画史とも映画理論とも別のものです。教えることにあまり興味がない、と訴えたところ、たった5名の生徒からなるコースを創設してくれたので、結果的にはとても競争率の高いコースになったようです。これは私にとっての挑戦でしたが、映画保存を教えるという意味では満足のいくものにはなりませんでした。映画保存について教えるなら、やはり環境の整ったアーカイブにいないとだめなのです。単にアーカイブと共同で、というのでも駄目です。もちろん、ある程度アーカイブも活用しましたが、MoMAのスタッフにそこまでの余裕がないこともよくわかっていたので、それが心配で、躊躇していたところもありました。しかし、とても素晴らしい成果がもたらされたこともありました。学生と映画をみるためにMoMAに出かけたとき、ピーター・ウィリアムソンが学生全員を彼の作業場に招待してくれたのです。彼はリワインダーに1本のフィルムをセットしました。ワーナーブラザーズのとても有名な劇映画です。学生にフィルムを示しながら、フィルム素材についての解説がはじまりました。フィルムの世代、そしてそれをどうやって同定するか。これは学生にとってまったく新しい経験だったと思います。1時間以上もその作業場でフィルムを巻き取っていました。それ以外のことでは、私はフィルムを直に触るような経験を学生に与えることはできませんでした。ですから、アーカイブについて教えるなら、やはりアーカイブの内部でおこなわなければいけないと私は思うのです。

【人物紹介】デイヴィッド・フランシスは、1974-1989年=国立フィルムアーカイブ(ロンドン) キュレーター、1991-2001年:米国議会図書館映画放送録音物部門チーフ、1977年-:FIAF実行委員。ピーター・ウィリアムソンは1979年からラボ・コーディネーターとしてMoMAフィルム部門に勤務。その後、テクニカル・ラボ・コーディネーター、フィルム修復マネージャーを経て、現在はフィルム修復家という肩書き。

※16 ブライトン(イギリス)会議報告書:Cinema 1900/1906 Analytical Study 国立フィルム・アーカイヴ(ロンドン)、国際フィルム・アーカイヴ連盟 ロジャー・ホルマン編(1982年 FIAF)

※17 ポルデノーネとはイタリアの街の名で、ここが毎年の無声映画祭(Il Giornate del Cinema Muto)の会場になった。1982年にはじまったこの映画祭は現在サチーレに会場を移して毎年開催されている。

※18 Domitor=International Association to Promote the Study of Early Cinema 。設立メンバーはステファン・ボットモア、パオロ・ケルキ・ウザイ、アンドレ・ガウドロー、トム・ガニング、エマニュエル・トゥーレ。1990年にケベックで初の国際会議を開いた。

※19 The Transformation of Cinema, 1907-1915 History of the American Cinema, 2(1990年 Scribner)

美術館の中のフィルム・アーカイブ

RM:いつも私が気にかけているのは、組織としてそれぞれのアーカイブがまるで異なるということです。MoMAのフィルム部門というのは米国議会図書館ともジョージ・イーストマン・ハウスとも違っています。この違いが保存プログラムの規模にも影響しているように思えるのですが。

EB: MoMAはFIAFの設立メンバーであることもあって、常にほかのアーカイブのお手本とされてきました。それは誇らしいことです。MoMAの活動は常に尊敬の的です。昨今のように、MoMAの出身だといえば、MoMAへの高い評価はあなた自身への評価にもつながります。言ってみれば、私はキャリアのはじめからトップの座にあるアーカイブにいたわけです。

RM:美術館の内部組織としてのアーカイブであることに、何か限界を感じられることはありましたか?組織的なサポートという意味で、例えばMoMAと議会図書館などと比較してみて、いかがでしょう?

EB:国立のアーカイブは往々にして安定したサポートを受けられるものです。東ドイツのアーカイブ(※20)が常々、国立のアーカイブがいかに安定しているかを説いていましたが、東ドイツに何が起こったか、考えてみてください。政府が崩壊すると同時にアーカイブも崩壊してしまったでしょう。忌むべきことですが、この経験から学ぶべきことは多いと思います。私がこの仕事をはじめた頃、MoMAに政府の援助が欲しいなどと考える人は誰もいなかったのです。独立性を失うことのほうがむしろ怖かった。もちろん時には政府からの援助も受けることがありましたし(※21)、特別なプロジェクトにおける政府からの援助は、現在のMoMAには欠かせません。しかし、当時はそういった風潮はまったくありませんでした。

RM:あなたはキャリアを通して、かつては存在しなかった保存文化といったものが新たに構築されていく様を目撃されたわけです。過去20年の間に保存はビジネスにまで発展しました。もうこれは非営利のアーカイブに留まる活動ではありません。大手映画会社、独立系の映像関連企業、そして大学と、猫も杓子もアーカイブ活動に携わることを望んでいます。MoMAが映画保存の基礎を固めた時代を経験され、さらに議会図書館やMoMAなどによる質の高い保存活動の発展も目の当たりにされ、そういった収穫の一方で何らかの損失もあるとお考えですか?

EB:口を酸っぱくして私が繰り返してきたように、映画保存に関わる人が増えれば増えるほど、より良い結果が期待できるのです。なにしろ、この仕事は本当にスケールが大きいのですから、単独の組織ではとても手に追えるものではありません。残念ながら認めざるを得ないことですが、皆が力を合わせたところで、すべてを成し遂げるのは不可能です。MoMAが絶大な信頼を寄せられている、とても恵まれたアーカイブであることは認識していました。議会図書館やジョージ・イーストマン・ハウスは嫉妬にかられていたでしょう。実際、議会図書館やGEHは目覚しい成果を残していましたが、どんなにがんばっても、MoMAほど注目を浴びたり、マスコミに騒がれたりということは滅多になかったからです。議会図書館やGEHの仕事が評価される時代になってきたことは、大変喜ばしく思います。とはいえ、特にGEHのように郊外にあるアーカイブは、どう考えても不利だったと思います。ロチェスターという街は本当に辺鄙なところにありますから。

RM: MoMA全体の中でフィルム部門がどのあたりに位置するのかをお話しいただけますか。MoMAの内部には、映画がそのほかの芸術形態より劣るものだという暗黙の了解のようなものがありませんか?

EB:MoMAの設立にあたってアルフレッド・バーは、当然、フィルム部門を創設すべきだと考えていたそうです。開館前からフィルム部門の創設案があったのに、実現するには何年もの歳月が必要でした。理事会に対してフィルムも収集に値するものだと説得する必要があったわけです。私はフィルムの重要性が二次的なものだという意識は、アルフレッドの時代から続いていると思います。未だにファイン・アートの分野には映画に理解を示さない人もいますし、ほかの芸術を崇めてこそフィルムの価値が生まれる、などと考える人も中にはいます。つまり芸術についての映画であれば価値を認めてもいい、というような。

ほかに忘れてならないのは、美術館の中のアーカイブという一面です。結局これに尽きるのでしょう。映画はみるのに時間がかかります。美術館に出向いて絵を数分眺めていれば、それであなたは「絵画を鑑賞した」ことになります。もちろん、時間をかけて丁寧に鑑賞することもできますが、少なくとも数分あれば「絵をみた」といえるわけです。それで他分野のキュレーターたちは、映画をみるのに時間を割くことに抵抗を感じるようです。ご存知のように、芸術作品がMoMAに収蔵されるときは理事会を通さなくてはなりません。しかしながら、少なくとも私がMoMAにいるあいだ、理事会では単に映画の題名を報告していたに過ぎません。まともな議論にはなりませんでした。映画をご覧いただけるようアーカイブにご招待したところで、どなたも応じてくださらないのですから、ある特定のフィルムを所蔵するか否かで議論が生まれることも当然ありません。絵画部門がそうするように、理事を席につかせて作品をみせるということがフィルム部門にはできないのです。ですから、確かにフィルム部門は特殊なところです。だからといってこの特殊性が、映画が他の芸術に劣るなどという思考に直結するとは思いません。映画に対する態度の違いというのは、作品としての性質の違いに所以するものでしょう。例えばフィルムは特別なフィルム専用倉庫に収蔵する必要があります。フィルムをみるためには映写機にかけて上映せねばなりません。こうしたことから、フィルム部門は美術館全体から孤立してしまうのだと思います。私がフィルム部門にいた頃は他分野の人たちとの交流がほとんどありませんでした。最近は交流が活発になっているようで嬉しく思います。例えば企画展との関連上映が増えましたが、私は関連企画を組むのが大好きで、(※22)「20世紀の芸術展」はとりわけ楽しい仕事になりました。私が映画のセクションを担当したのですが、こういった共同企画ができるというのは、まったくもって美術館の一部であることの利点です。

RM:MoMAの建築・デザイン部門のキュレーターだったアーサー・ドレクスラーが、フィルム部門に疑念を呈したことがありましたが、その件について語っていただけませんか。記録として残しておきたいのです。

EB:1960年代か70年代のはじめでしたか、MoMAの効率性に関する研究会の一員であるアーサー・デクストラーはフィルム部門を手厳しく批判しました。MoMAのすべての部門の代表者が出席する会議で、スタッフの誰もみたことのないような映画をこれ以上所蔵する必要はない、と発言したのです。彼は、すべての所蔵フィルムを閲覧するのに必要な時間まで割り出していましたが、発言だけで終わって本当に助かりました。

RM:冗談のつもりではなくて?

EB:彼は大真面目でしたよ。フィルム部門の仕事に対して少しも理解を示してくれませんでしたし、フィルムに関してはまったくの門外漢だったのです。

RM:私がおぼえているのは、デクストラーからあなたに対するこのような提案です。できるかぎりフィルムを放出して、残りのフィルムはループ状にロビーにつるすなりして展示をするという。

EB:そんなことも言っていましたね。フィルムへのアクセスを可能にするべきだという要請から、デクストラーはMoMAのフィルムをほかの所蔵品と融和するために、勝手な想像を膨らませていました。しかし先ほども述べたように、素材の特徴からいってフィルムはそう簡単にほかの所蔵品となじむものではありません。絵画を壁にかけるようにフィルムを展示せよという要請は度々あり、これは長年に渡る大論争として、未だにまともな解決にいたっていません。MoMAの他部門の展示とフィルム上映とを関連づけたいとは思いますが、展示室にフィルムを並べるというアイディアはいただけません。だってフィルムにはフィルムを上映すべき環境、つまり適切な劇場の暗闇の中、という必須条件がありますから、これは妥協の許されない問題です。来館者は展覧会のためには展示室に行き、そして映画のためには劇場に行くべきでしょう。

RM:キュレーターはそこでビデオを解決策として持ち出すわけですね。あるいはフィルムを展示室で上映しようとする。

EB:そんなことが解決策になり得ないことは言うまでもありません。フィルムの最適な鑑賞方法ではないのですから。

RM:ほとんどの観客は展示室に何時間も留まって映画をみることはないでしょう。大抵は5分から10分程度です。

EB:つまり観客にとってはテレビと同じなのです。ちらっとみて歩き去ることに慣れてしまっている。

RM:では、映画は芸術であるとお考えですか?

EB:芸術ですとも。私は映画史家としての教育を受けていますから、当然そう考えます。MoMAで働く前からそう信じていました。某所で研究発表をしたとき、質疑応答の時間になって「映画の芸術性をどう定義されますか?」という質問を受けたことがあります。はっきり言って、勘弁してよ、と思いました。私の答えはこうです。「手短かな回答をお求めかもしれませんが、その質問への答えだけで何冊もの本が書けるくらいです」。今でもその考えは変わりません。書物が芸術作品であるように、映画も芸術作品です。ゴミのような本もたくさん売られていますし、おそらく芸術作品とは呼べない映画もたくさんつくられているでしょう。しかし、そのような映画も時代の変遷を経て重要性を獲得することがあり、それ故に救済され、研究対象とされるべきなのです。とはいえ、間違いなく芸術の域に達したフィルムも一部にはあるはずです。その質問をした映画理論の研究者への回答のように、私が映画というテーマに興味をもつ理由は、まさにそこに集約されます。映画が芸術であるからこそ、映画の世界はとびきり面白いのです。そうでなければ、私は化粧品の歴史や機関車の歴史について研究していたかもしれません。機関車博物館に行けば、機関車の歴史も侮れないものだと思います。ドキドキさせられもします。でもそれは芸術として扱われる種のものではありません。芸術性があることによって、はじめて私は映画に強く惹き付けられるのです。

RM:そういった考えは仕事にも適用されますか。言い換えると、仕事上扱うフィルムは芸術であって、そうでなければ収集や保存はしなくても良いとお考えですか。美術館の内部機関としてのフィルムアーカイブを運営するということに関して私がお尋ねしたかったことの核心は、まさにそこなのです。大衆的な娯楽と、高尚な芸術の対立関係は「ミュージアム」という環境から生まれたのではないでしょうか?

EB:確かにその通りです。もっとも、ここで言い足すべきは、芸術的な映画とそうでない映画に境界線がない、という点でしょうか。芸術か否かの違いはかなりあいまいで、あやふやなものですし、それはどうしようもないことです。はっきりと分離させてしまえば、おそらく、芸術としての映画だけを集めることになるのでしょう。それはそれでよっぽど価値のあることなのかもしれません。でもそうはいかないでしょう。事はそう単純ではないのです。私が芸術作品だと信じるものが、ほかの世代にとっても同じであるとは限らないわけで、そういった洞察力を持つべきでしょう。ただ、私の時代に、私が重要であると判断した作品には、ある程度の責任を持つことができます。なぜ判断に迷いがなかったかといえば、有難いことにフィルムアーカイブは他所にもたくさんあって、それぞれのアーカイブで異なる考えをもつ様々なアーキビストが働いているからです。それぞれの活動が集約されて、フィルム救済のための仕事の達成に向けて、ようやく道半ばといったところではないでしょうか。

【人物紹介】アルフレッド・H・バーJr.(1902-1981)は、1929-1943年=MoMA初代ディレクター、1943-1967年=ディレクター顧問、絵画彫刻調リサーチ・ディレクター、ミュージアム・コレクション・ディレクター。1932年6月24日付の「MoMAの部門の拡充に関するメモ」に、当時まだ実現していなかった部門についての記述がある。「1929年夏、MoMAの組織についての話し合いの場で、建築、映画、演劇、装飾、工業デザイン、写真、図書館を加えてはどうかとの提案がなされた」。アーサー・デクストラー(1925-1987)は、1951-1955年=MoMAキュレーター、1955-1986年=建築デザイン部門ディレクター。

※20 東独国立フィルムアルヒーフ。1955年設立。

※21 MoMAフィルムライブラリーは、アイリス・バリーが担当したドイツのプロパガンダ映画の研究と、ジョン・アボットが担当したラテン・アメリカに向けた米国プロパガンダ映画の製作と、第2次大戦中におもに2つの政府主導のプロジェクトを担った。

※22 1979年11月14日から1980年1月22日まで開催された「20世紀の芸術展」The Art of Twenties に合わせて、1979年12月3日から1980年1月27日にかけて Film from the Archivesが開催された。

◎日本語版の掲載にあたって…… 謝辞

この翻訳を実現するにあたり、MoMAのミッシェル・ハーベイさん、ロナルド・S・マリオッツィさん、UCLAの水野祥子さんにたいへんお世話になりました。記してここに感謝いたします。

(翻訳・石原香絵)

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