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ベルリン工科経済大学教授 マルティン ケルバー(訳・矢田聡)
『メトロポリス』(1927)は人気がある。ドイツの無声映画、SF映画、あるいは映画装置といったテーマ(他の数多くのテーマについてもそうだろう)の回顧上映会が、このフィルムなしに開かれるというのは考えがたい。多くのひとが、なんらかの機会に『メトロポリス』と呼ばれる作品を観ていることだろう。だが、彼らが観たものはなんなのか? それは、1924年にテア・フォン・ハルボウによって脚本が執筆され、1925/1926年にフリッツ・ラングによって監督された映画ではない。そのオリジナルは1927年の4月に失われてしまったのだ。『メトロポリス』の題で配給会社やフィルムアーカイブによって提供され、ビデオとして販売され、時にはテレビで放映される作品は、ある時はより多く短縮され、ある時はより少なく短縮されたオリジナルとは異なる様々な別ヴァージョンにほかならない。
2001年2月15日、ベルリン国際映画祭で、新たに復元された『メトロポリス』が上映された。それ以降、この復元版は世界を巡回している。F.W.ムルナウ財団の委任によるこの新しいヴァージョンは、ブンデスアルヒーフ=フィルムアルヒーフ、ミュンヘン映画博物館、それにヴィースバーデンのドイツ映画研究所のフィルムアーキビスとたちの共同の努力の結果復元された(F. W. ムルナウ財団は、『メトロポリス』を含む1945年以前に制作されたほとんど全てのドイツ映画の著作権を持つ公的な組織)。著者は当初、現存するフィルム断片の調査に携わり、その後、F. W. ムルナウ財団によって実際の復元過程への協力と監修のために雇われた。まだこの計画が続けられていた間に、私は初期の発見を”Metropolis: A Cinematic Laboratory of Modern Archtecturel”(Wolfgang Jacobsen, Werner Sudendorf, ed., Metropolis, A Cinematic Laboratory of Modern Architecture (Stuttgart/London: Edition Axel Menges, 2000). ※以下、原注は()訳注は[]で示す)という本の中で発表した。このエッセイは、メトロポリスがいかに破壊され、その後数十年間にわたって再構成され復元されてきたのかを概観しようとした試みを改訂したものだ。とりわけ私は、このプロジェクトのためにエンノ・パタラス[(1929~)マスメディア学とドイツ文学をミュンスターで学ぶ。57年に”Filmkritik”を創刊し、70年までこの映画雑誌の編集を務めた。73年から94年の間にミュンヘン映画博物館のディレクターとして行ったエルンスト・ルビッチやフリッツ・ラング等の古典映画の復元は世界の注目を集めた]がこの映画に関する知識を貸してくれたことに対して感謝したい。エンノ・パタラスは、ミュンヘン映画美術館のディレクター時代に彼自身の行った『メトロポリス』の復元に多大な努力をそそいだ。それだけでなく、彼は自身の記録をこのフィルムについての文書としてまとめており、そのある部分は次世代バージョンの構造の基礎となった。彼の記録はそれ自身独立した本としてドイツ語で出版されている。この本はシーンに基礎を置いた観点から、このフィルムの「形態」に何が起こったのかを理解させてくれた。そこから同時に、何を復元することができ、何が復元できなかったのかについての深い洞察を与えてくれた(This publication gives a much more detailed picture than I can do here. Readers of German are referred to Enno Patalas, Metropolis in/aus Truemmern (Berlin: Bertz Verlag, 2001).)。しかしここで私が行うのは、この歴史上最も有名な無声映画の拡散についての見解を示すことだ。それはこの映画の辿った物語が決して特殊なものではなかったことを確認しながらなされるだろう。私たちが現在上映される形を当然のものとして受け入れている多くの古典映画は、これと似た運命を辿っている。『メトロポリス』を特別な存在にしているのはオリジナルの形態について残された資料の多さであり、それが「本当のヴァージョン」を調査し、現存する断片を使いそのある程度を最良の質のプリントで復元することを可能にしてくれた。
メトロポリスの祭典のような封切りは1927年1月10日にベルリンのウーファ・パラスト・アム・ツォーで行われた。そのときのフィルムの長さは4,189メートル(13,823フィート)で、映写速度は24fps(映写速度については推測するほかないが)、上映時間は153分だった(封切り時の映写速度ははっきりしていない。フッペルツによって短縮後のヴァージョンに合わせて短くされたピアノのスコアには映写速度28fpsと記されている。これは短縮版のスピードを速くし、結果として上映時間を短くするためだったと考えられる。封切りに立ち会った映画評論家のローランド・シャハトは、上映時間は140分程度だったと報告している)。伴奏音楽として、ゴットフリート・フッペルツ作曲による大規模のオーケストラ用の曲が演奏された。このオーケストラのスコアとピアノ用のアレンジは、それが含む多くのキュー[(・シート):キュー・シートは無声映画の伴奏用に使われたもの。各シーンの長さと演奏されるべき曲名が記述されている。ここではスコアに演奏用の助け(キュー)となる様々な情報が記されていたということ。]のために、封切りヴァージョンのより正確なデータを知りたい者にとっては重要な情報源の1つになっている(フッペルツによるオリジナルのスコアとピアノ伴奏のスコアは、ベルリン映画美術館=ドイツキネマテークのアーカイブに所蔵されている。ピアノのスコアのコピーについては、他にもたとえばプロイセン文化財団ベルリン国立図書館やドイツ映画研究所(フランクフルト・アム・マイン)といったアーカイブや図書館に所蔵されている)。
早くも1926年の12月には、アメリカにおけるウーファの代理人であるフレデリック・ウィン=ジョーンズが『メトロポリス』をアメリカに持ち込み、このフィルムをアメリカで配給しようとしていたパラマウント社に見せている。この記念碑的なフィルムをアメリカ市場向けに「普通の」長さに短縮するという決定が直ちに下されたことは明らかだ。劇作家であるチャニング・ポロック[(1880~1946)アメリカの劇作家・批評家]にこの仕事は依頼された。彼の行った変更は抜本的なものにほかならない。まず資本家ヨー・フレーダーセン(アルフレート・アベル)と科学者兼発明家のロトワング(ルドルフ・クライン=ロッゲ)の間の基本的な争い、つまり死んだ女ヘルをめぐる争いが完全に削除された。それは同時に機械の女を作る理由づけも失われたということを意味した。最後のメトロポリスの崩壊も削除された(「ドイツ映画の修正を支持する」というランドルフ・バートレットによる1927年3月13日ニューヨーク・タイムズの論説は、様々な罪状を正当化している。この論説から、「Hel(ヘル)」という名前が英語の単語「hell(地獄)」に似ているということがこの人物を映画から消し去る主要な理由だったことが分かる。信じがたい事実だ。彼女の墓石の上に特殊効果として表れるところにしかヘルの名前はでてこない。ここはアメリカ版のテキストを使った再撮影が比較的簡単にできたはずのところだ)。同様に、痩せた男(フリッツ・ラスプ)によるフレーダー(グスタフ・フレーリッヒ)、ゲオルギー(エルヴィン・ビスヴァンガー)、ヨサファト(テオドール・ロース)の追跡のシーン、それにメトロポリスの花街「ヨシワラ」でのシーンの多くが取り除かれた。さらなる削除は最後の長い追跡シーンを含んでいる。こうした短縮が加えられた後、再び映画の一貫性を取り戻すために、中間字幕(インタータイトル)の抜本的な変更と、場合によっては、残されているシーンの編集の重大な変更が必要とされた。全ての変更がなされた後、アメリカ版のフィルムの長さは大体3,100メートル(10,320フィート)になった。ポロックは次のようにこの仕事を要約している。「私が構造的なレベルでの編集を始めようとしたとき、メトロポリスは抑制と論理というものを欠いた作品だった。象徴的意味づけに支えられたこの映画はとても混乱していて、観客はそれが全体として何についての映画なのか説明することができないほどだった。私はそれに私の意味づけを行ったのだ。」(”Channing Pollock Gives His Impressions of Metropolis”, press release of Paramount Pictures for the film Metropolis. A transcript exists in Bundesarchiv-Filmarchiv, file on the Reconstruction of Metropolis (from Staatliches Filmarchiv der DDR).)
数週間後、『メトロポリス』のベルリンでの公開は中止された。その理由はいまでも明らかではない。おそらくはここでも、映画の過度な長さがドイツの他の地域での公開の障害になると感じられたのだろう。1927年4月の7、8、それに27日にウーファの取締役会はこの映画についての会議を開き、「共産主義的な傾向を本質的に持っていた字幕を削除したアメリカ版」をドイツでも使用することに決定した(Bundesarchiv, file R 109 (Universum Film AG), 1026a, “Notes on Board Meetings”, no. 3 (April 7, 1927), no. 4 (April 8, 1927), and no. 17 (April 27, 1927).)。現在残されている資料には、フリッツ・ラングがこの映画の2度目のドイツ版に関わったかどうかについての記述はない。編集と試写と再編集を頻繁に行った人々のリストに名前がまったく見られないことからも、ラングが参加していたとは考えにくい。1927年9月のロンドン滞在の時、イギリス人ジャーナリストによるインタビューの中で、ラングが遠慮無しに彼自身のプロジェクトに起こったことに対して不満を言っていたことはよく知られている。「私は映画を愛している。だからアメリカに行く気はない。アメリカの専門家たちは、私の最良のフィルムであるメトロポリスをズタズタにしてしまった。イギリスにいるうちにあえてそれを見たいとは思わない。」(Sunday Express, September 25, 1927; quoted in Jeanpaul Goergen, “Der Metropolis-Skandal. Fritz Lang und Metropolis in London, September 1927″, Filmblatt 6, no. 15 (2001).)数十年後、ラングはメトロポリスを「もはや存在しない」映画とまで言っている。
アメリカ版を基にした大幅なカットと、必要に応じた中間字幕の変更の加えられた『メトロポリス』は、ベルリン映画検閲局に1927年8月5日に提出された。その後3,241メートル(10,695フィート)の長さで公開された。ベルリンの外では、このヴァージョン、あるいは同じように短縮された輸出用ヴァージョンだけがこれまで上映されてきたことになる。
メトロポリスの封切りと、それとほとんど同じ時期になされたオリジナル版の破壊から70年以上が経過した。この最も有名なドイツの無声映画は、同じように有名な歴史書の事例にもなった。これまで40年以上に渡って、映画アーカイブは現存する短縮版から新たなより完全なコピーを作る努力をしてきた。これらの努力を跡づけることは難しい。なぜなら、これらの版について、少なくともこれまでは、正確に文書化されることがなかったからだ。ただ、世界の映画アーカイブに保存されている様々なヴァージョンの比較を行うことによって、フィルムそのものから、オリジナルに加えられた変更を、その変更からオリジナルの状態に戻そうとした試みと同じように推測することができる。もちろん地球上に存在する『メトロポリス』の無数のコピーを全て見ることは不可能だし、する必要のないことでもある。それよりも、これらのコピーのもととなった現存するナイトレートのソースを選び出しそれに集中する方がいい、そう私は考えた。
『メトロポリス』の宣伝で、ウーファの広報部は620,000メートル(2,046,000フィート)のネガフィルムと1,300,00メートル(4,290,000フィート)のポジフィルムをこの映画の制作に使用したと自慢している。これを封切り時の長さの4,189メートルと比較すると、撮影に使用したフィルムと完成時のフィルムの比率は148:1だったことになる。このデータが正しいとすれば、ウーファはよくないと判断したショットを十分に取り除けなかっただけでなく、映画産業の慣例に反して2倍以上のラッシュ用フィルムを使用したムそう考えなければ、このように多量のフィルム使用を説明することはできない。これらの数字は、フリッツ・ラングについての、彼をサディスティックな俳優の調教師や遠慮のない資金の浪費家として性格づける伝説を補強するものではあるにせよ、もっともらしい数字ではない、とも言ってもいい。ラングの映画撮影に立ち会った人たちは、一致して彼は俳優たちに消耗の限界まで同じシーンを繰りかえさせたと言う。『メトロポリス』の中では、2人の新人ブリギッテ・ヘルムとグスタフ・フレーリッヒが主要な役に配されているから、過度な程にリハーサルが行われ、多くのフィルムが使用されたというのも信用できるように思える。この映画の美術監督であり、現実的で冷静な記録者でもあるエーリッヒ・ケッテルフートは、ラングに対して極めて批判的な態度を取っている。彼によれば、ラングは、「演技の基準を含む彼の期待に完全に叶ったテイクを少なくとも3つ撮る」までは満足しなかったという(Erich Kettelhut, Memoirs. Unpublished typed manuscript in the archive of the Filmmuseum Berlin Deutsche Kinemathek, p. 596.)。ケッテルフートによる『メトロポリス』制作についての長文の報告で全く偶然にもなされているこの観察は、ラングが雇用者に提供するものを持った意識的なプロであったことを証明している。彼はどのショットにも3つのよいテイクを保証したのだ。
最初から3つのネガを同じように作ろうという計画があったという可能性はとても高い。つまりひとつはドイツ市場のため、もうひとつはウーファの輸出部のため、そしてもうひとつはこのフィルムをアメリカで公開することになっていたパラマウントのためのネガ。当時、いくつかのネガの平行した制作は一般的な慣例だった。そう考えた場合、620,000メートルのネガフィルムは3つのオリジナルネガのために使われたことになり、使用されたネガと編集後のネガとの比率はまだ極めて大きくありそうにない数字ではあるが、49:1にまで減ることになる。当時はまだ複製用の良質の素材がなかったため、いくつかのネガを最初から持っている場合にだけ、多くのコピーを作ったり、外国の配給業者がコピーを作るための輸出用ネガを制作することができた。これらのオリジナルネガは、近接したカメラによって平行して撮られたものか、同一ショットの別テイク(芸術的に同じ水準に達していても決して同一ではない)のモンタージュから作り出された。不完全なコピーしか現存していない場合には、このようにフィルムがいわば何度も作られたということは大変幸運なことだ。ただ一方で、複数のネガがあるということは、演技、カメラの位置、時間的な長さ、コンティニュイティの点で異同を持つ複数のヴァージョンがあるということを意味している。それはマテリアルを組み合わせようとするときに大きな問題を生み出すことになる。さらに復元者は倫理的な葛藤にも向かい合わなければならない。つまり、いくつものネガを寄せ集めることによって、自分はこれまで存在しなかった形の映画を編集しているのではないか、というジレンマを持つことになるのだ。
『メトロポリス』の3つのネガには何が起こったのだろうか。1934年3月、帝国映画院の依頼を受けて、ウーファはテンペルホフ・フィルムアーカイブに保存していた無声長編劇映画のリストを作成した(Bundesarchiv-Filmarchiv, Document Collection, file U 381.)。その中で言及されている480タイトルの映画の中に、中間字幕を除外して2,589メートル(8,544フィート)9巻のネガと記述された『メトロポリス』のコピーの名前も見られる。フィルムの長さから、これはオリジナルヴァージョンの『メトロポリス』のネガではないことがわかる。オリジナルは4,189メートルの、明らかにより長いものだった。最良の場合を考えれば、このネガはウーファが1927年の夏に配給したドイツでの2番目のヴァージョンと一致することになる。パラマウントによる短縮版をほぼモデルにして編集を行った、中間字幕を含めて3,241メートルのヴァージョンだ。リストに言及されているこのネガにその後何が起こったのかはまだはっきりしていない。多分ウーファが所有するものとして第二次世界大戦の終わりに接収されたのだろう。実際このネガは、1950年代の初頭に西ドイツでウーファが再編成された際、その所有物として再び姿を見せている。1962年戦後ウーファの倒産にあたり、残っていたネガはヴィースバーデンのF.W.ムルナウ財団に譲渡された。1988年には5巻分がコピーされ、それは後に破棄されている。
しかし、ドイツ・パラマウント版のデュープ・ネガが現存している。これは西洋で流通したほとんどのコピーの基となったネガだ。1936年夏、ニューヨーク近代美術館(MoMA)映画部門の創設者であるキュレーターのアイリス・バリーは、美術館の映画コレクションに加えるドイツの古典映画のコピーの買い付けのためベルリンにやってきた。他のフィルムに加えて、その中には『メトロポリス』の35mmポジフィルムもあった。ヴィースバーデンで再複製された5巻分のフィルムと比較したところ、MoMAに所蔵されていたフィルムはウーファに保存されていたオリジナルネガからのコピーだということがわかった。MoMAのこのナイトレートのコピーはすでに存在しないものの、それをもとにして1937年にニューヨークでデュープ・ネガが作られていた。このデュープネガは部分的に使えなくなったため、1947年に当時はまだ存在していたナイトレート・フィルムからのコピー断片を使用して最初の修復がなされている(A letter by Eileen Bowser (Museum of Modern Art) to Manfred Lichtenstein (Staatliches Filmarchiv der DDR), dated April 16, 1968. Bundesarchiv-Filmarchiv, file on the Reconstruction of Metropolis (from Staatliches Filmarchiv der DDR).)。1986年以来、このデュープネガはミュンヘン映画博物館が所蔵している。1934年にウーファの計測したネガの2,589メートル(中間字幕は除く)と比べて、現存するデュープネガが示しているのは失われたフッテージの存在だ。9巻のネガは2,532メートル(中間字幕を含む)の長さでしかない。
戦前のライヒスフィルムアルヒーフから東独国立フィルムアルヒーフに受け渡され、そして1990年のドイツ統一の後ブンデスアルヒーフ=フィルムアルヒーフに受け継がれたのは、1934年のウーファのリストにはない別のオリジナルネガだった。リストが制作される時点で、このネガはウーファの所有物の中になかったのかもしれない。というのは、このネガはアメリカに1926/1927年に送られ、先程述べたパラマウントによる改変を受けたオリジナルネガだからだ。このネガはおそらくパラマウントの配給権が切れた後に返却された。いずれにしても1936年以降には返却されており、その時になってウーファからライヒスフィルムアルヒーフに渡された。これは2,337メートル(7,712フィート・英語の中間字幕含む)の8巻のもので、この現在の形はより短いパラマウント・ヴァージョンと一致するものだろう。また、東独国立フィルムアルヒーフを経由したもので、ブンデスアルヒーフ=フィルムアルヒーフにこのネガを補足する断片が所蔵されている。それもまたパラマウント版の一部であり、パラマウントの最初の版で削除されたシーン、または完全に削除されたというのではなくても短縮されたショットを含んでいる。モスクワのゴスフィルモフォンド(占領時に他の同盟国の軍隊が「外国人資産」としてドイツ映画のマテリアルを占領地区から没収したのと同様に、1945年ソビエト軍はウーファのバーベルスベルク・スタジオとライヒスフィルムアルヒーフから多くのフィルムを持ち出し、モスクワに送った。70年代米国議会図書館が西ドイツのブンデスアルヒーフへの送還プログラムを始めたとき、ゴスフィルモフォンドも選択的な本国送還を東ドイツに対して行った)にあったこのフィルムは1971年になるまでベルリンに返却されなかった。ただ残念なことに、1,952メートル10巻という目を惹く長さは、ドイツ封切り時にあった、他のすべてのヴァージョンにはない部分が見つかったということを意味しているのではなかった。そうではなく、フィルムが長い理由は、このネガがパラマウント版の中間字幕の別ヴァージョンとアウトテイクを含んでいたことと、完成時のフィルムに、2重写しにするための特殊効果シーンが含まれていたことにあった。現在のところ、ウーファの外国配給部に渡された3つ目のオリジナルネガの行方については全くわかっていない。ただし、このネガから作られ1927/1928年に様々な国に輸出されたプリントは保存されている。ロンドンのBFIフィルム&TVアーカイブには、イギリスで配給された2,603メートル(8,608フィート)のナイトレートのコピーが所蔵されている。このヴァージョンには、MoMAの所蔵していたパラマウント版や、パラマウントのアメリカ配給版の双方に欠けていたシーンが含まれていたが、他のヴァージョンにも含まれるシーンには短縮されている部分があった。このイギリス版の中間字幕は、ところどころチャニング・ポロックによるパラマウントのアメリカ配給版と異なっている。数年前、ニューヨークのロチェスターにあるジョージ・イーストマン・ハウスは、オーストラリアのキャンベラにある国立映画・音声資料館(現スクリーンサウンド・オーストラリア)から、永久貸与という形でナイトレートのコピーを受け取った。オーストラリアで配給された、ハーレー・ダヴィッドソンの私的コレクションに由来するこのナイトレートのコピーは、編集と中間字幕の点でイギリスのコピーと少し異なっている。このプリントが特に面白いのは、それが全体に渡って着色されていることだ。他に着色されたナイトレートコピーとしては、ミラノのチネテーカ・イタリアーナが所有する3つの断片がある。1899メートル、482メートル、190メートルの3つの断片はそれぞれ多くの中間字幕を含んでおり、その内容はドイツ版のものとは大きく異なっている。極めて最近のことだが、なんと新しい修復版の制作が終わった後になって、着色版、ナイトレートのコピーがニュージーランドで見つかった。これまで私はこの作品を調査する機会を得ていないので、その詳細をはっきりさせることはできない。可能性が高いと思われるのは、このプリントがイギリスとオーストラリアのヴァージョンに似ているだろうということだが、確かなことはわからない。私はいつかこのフィルムを調べたいと思っている。もうひとつ別の、オレンジ色だけで着色されたナイトレートコピーが、UCLAフィルム&TVアーカイブにデビッド・パッカードから預かったものとして所蔵されている。私はそのコピーを調査する許可を得ることができた。その結果そのコピーが他ではみつからなかった短いシーンを含んでいることがわかった。残念ながら、このコピーを復元の際に利用することはできなかった。(問題のシーンは、そのためモロダー版[電子音楽で知られるジョルジオ・モロダーによる84年のヴァージョンのこと。彩色を施し、ロック音楽を付け、残されているシーンからのカットを行い、中間字幕を大きく削除したこのヴァージョンは多くの批判を受けた]から取り出すしかなかった。モロダー版を作った時、明らかにモロダーはこのコピーを利用している。私はモロダー版は復元ではないと思うので、ここではこれ以上言及しない。)現存する『メトロポリス』のソースはこれで全てだ。
確かめられている限りでは、復元されたものであれ、そうでないものであれ、流通している『メトロポリス』のコピーは全て上記のソースから作られている。ただし、途中多くの中間段階を経たために、映像的質としてはオリジナルからのコピーというより戯画にしか見えないようなヴァージョンも存在する。1927年に、最初はパラマウント社によって、次にはウーファによってカットされたシーンはいまのところ見つかっていない。また数十年に渡ってなされてきたフィルムアーカイブの多くの仕事を考慮すると、このシーンがまだどこかに存在していることはありそうにない。それは、テア・フォン・ハルボウとフリッツ・ラングによってストーリーの中核になると考えられていたシーンを含む封切り版の4分の1が、取り返しようもなく失われたことを意味する。この事実にもかかわらず、フィルムアーカイブは所有するプリントを数十年に渡って見せ続け、可能なときには、ここでは一般的に概略を示すほかない起源を持つよりよいヴァージョンを作ろうとしてきたのだ。
最も多く流通したヴァージョンは、おそらくMoMAのプリントだろう。このコピーは、1937にウーファから受け取った2つ目のドイツ版のドイツ語字幕を英語字幕に置き換えることによって作られた。これらは当然のことながら、チャニング・ポロックによって書かれたパラマウントのアメリカ配給版の字幕よりもドイツ版に近かった。パラマウントのアメリカ配給版の中では、登場人物の名前までが変えられている。ポロックのヴァージョンでは、ヨー・フレーダーセンはジョン・マスターマンに、息子のフレーダーはエリックに、そしてヨサファトはジョセフになっている。MoMAのヴァージョンでは、主要人物たちはまた(というよりも、まだ)彼らのオリジナルの名前で登場している。早くも1938年には、MoMAのヴァージョンがロンドンのナショナル・フィルム・ライブラリー(現在のBFI国立アーカイブ)のためにコピーされている。このプリントは、国際アーカイブ連盟(FIAF)の相互交換の方針によってヨーロッパ全体に広がることになった。たとえば、初期に複製されたプリントがシネマテーク・フランセーズ(パリ)、シネマテーク・スイス(ローザンヌ)、それにベルギー王立シネマテーク(ブリュッセル)のコレクションに確認されている。1960年代に入って西ドイツで様々な音楽をつけて配給されるようになったのも、このロンドンのデュープネガから派生したコピーだ。
60年代には、パラマウントのアメリカ配給版もまた姿をみせている。東独国立フィルムアルヒーフによって、ベルリンでライヒスフィルムアルヒーフ所蔵の短縮されたパラマウント版のネガが複製され公開された。ベルリンからこのプリントは様々なフィルムアーカイブへ送られ、上映されている。モスクワのゴスフィルモフォンドとプラハのチェコスロバキア国立フィルムアーカイブは、協力して復元を行い、2,816メートルのヴァージョンを制作した。ポロックによって編集された版より短いとしても、これは東ベルリンのヴァージョンより完全に近いものとなった。(Note from Vladimir Dmitriev of the Russian organization Gosfilmofond to the author, 1998.
プラハには(ベルリンからのものか?)パラマウント版の短縮版が所蔵されており、ゴスフィルモフォンドはこのプリントにベルリンで1945年に接収し後に返却したオリジナルネガからの断片を可能な限り加えた) 東独国立フィルムアルヒーフでは、エッカート・ヤーンケが1969年から1972年にFIAFの他のフィルムアーカイブの持つ様々なフィルムを利用していわゆるFIAF版を制作している(クレジットには、FIAFの後に、東独国立フィルムアルヒーフに並んで、次のフィルムアーカイブがあげられている。BFIフィルムアーカイブ(ロンドン)、チェコスロバキア国立フィルムアーカイブ(プラハ)、ゴスフィルモフォンド(モスクワ)、ドイツ映画学研究所(ヴィースバーデン)、ドイツ・キネマテーク財団(西ベルリン)、ニューヨーク近代美術館、Archion Israeli Liseratim(ハイファ))。まだ満足のいくものでなかったとはいえ、これはより完璧な『メトロポリス』を目指す上での重要な一歩になった。残念なことに、この時点ではまだ脚本と検閲カードが見つかっていなかったため、この映画のフィルム自体に隠された謎を解くことはできなかった。この映画の編集の順序と失われたシーンの手がかりになるはずの伴奏音楽も、おそらくまだ資料として考慮に入っていなかった(ZDFテレビジョンは1967年の時点でフッペルツのスコアを所有しており、70年代の初めに東独国立フィルムアルヒーフに渡したとユルゲン・ラベンスキ(ZDFテレビジョン、マインツ)は述べている。しかしながら、現在ブンデスアルヒーフ=フィルムアルヒーフにあるFIAF版についてのファイルにはこのスコアを示す記述が全くない。ヤーンケの最終的な報告にもこのスコアへの言及はない。このことから推測できるのは、調査が終了した後にスコアがアーカイブに到着し、テレビ放映の際サウンドトラックをつけるのにだけ使われたということだ)。さらに、中間字幕が使用された様々なプリントのものそのままだったため、名前が映画の中で頻繁に交代するという結果になった。パラマウントのアメリカ配給版と、MoMAのパラマウント版に由来する名前が混在する結果になったのだ。ヤーンケはこの仕事の時に、使用した情報の不十分さから、致命的に誤った結論に到達してしまった。たとえば彼は、MoMA版の比較的簡潔な字幕は、ポロックが作った華やかなテキストよりも、フォン・ハルボウのものとの違いが大きいと考えた。今日、私たちはその逆こそが正しかっただろうということを知っている。その時使うことができたフィルムを調査した後、ヤーンケはFIAF版の基礎に彼のいう「ロンドン・コピー」を使うことを提案した。その中に、他のヴァージョンから取り出した失われたテイクを可能な限り加えていくというのがその方針だった。彼のレポートの中で使われているこの「ロンドン・コピー」という用語が意味するものははっきりしていない。なぜなら、彼はロンドンからMoMAのヴァージョンのデュープ・ネガだけでなく、イギリスの配給業者に由来するヴァージョン(ウーファの輸出用ネガ)も受け取っているからだ(Note from Elaine Burrows (British Film Institute, London) to the author, May 11, 1998.
この箇所で述べた東独国立フィルムアルヒーフによるヴァージョンに関係する情報は、全て復元についてのヤーンケのファイルによっている。このファイルは現在ブンデスアルヒーフ=フィルムアルヒーフに所蔵されている)。 ただし、残されている記録から、このコピーがMoMAのものを指していたに違いないということが明らかになっている。MoMAは東独国立フィルムアルヒーフに対して1937年のデュープネガを提供していたのだが、だれもこれがロンドンに所蔵されている同一のマテリアルより2世代分よい状態にあることには気づかなかった。結果として、FIAFヴァージョンは他の問題に加えて映像的観点からも不満足なものになった。
今日から見ると、東独国立フィルムアルヒーフ自身の所蔵していたパラマウントのアメリカ配給版から、画像的に優れたオリジナルネガを得ようとしなかったのは理解しがたいことに思える。それを正しいとされていたヴァージョンにあわせて再編集することもできただろう。おそらくフリッツ・ラングからの手紙がその原因だ。「復元の基礎としてロンドンのヴァージョン(MoMA版を指す、著者記)を使うという決定は大変正しいものでした。」ラングは1971年フィルムアーカイブに宛てて書いている。彼はその中で、「いかに思慮を欠き、独断的な仕方でアメリカの配給業者がヨーロッパの映画を1920年代に取り扱ったか」の例としてパラマウントのアメリカ配給版をあげている(Fritz Lang to Wolfgang Klaue (Staatliches Filmarchiv der DDR), January 23.1971, in the Bundesarchiv-Filmarchiv, file on the reconstruction of Metropolis.)。当の映画を制作した監督の権威は、その手紙の中でラングが次のように認めているという事実によっても全く揺らぐことはなかった。「あなたたちの仕事の役に立つようなことはもう思いだすことができません」。その次に書かれているフィルムの足跡についての文章は誤っている。「ベルリンが占領された後、ラボに保存されていた私のフィルムは全てロシアに没収されてしまいました。このフィルムの中には『メトロポリス』の完全なコピーもありました。その上映時間は2時間4分でした。」この上映時間は二つ目のパラマウント・ドイツ版(3,241メートル、23fps)に対応している。すでに「思慮を欠き、独断的な」アメリカの配給業者による削除が全て行われた版だが、それでもラングはこのヴァージョンを「完全版」と言っている。彼はこの映画がもともとさらに30分、つまりは1,000メートル長かったということを本当に思いだせなかったのだろうか?
エンノ・パタラスによるドイツの古典映画を保存し復元する努力は長年に渡って多くの関心を集めてきた。これまでで最も成功した『メトロポリス』再構成の試みはミュンヘン映画博物館での彼の仕事であり、私たちはその恩恵を受けている。それはパタラスが、東独国立フィルムアルヒーフのヤーンケとは異なり、この時期に発見された多くの2次資料を使うことができ、そこから失われた封切り版についての正確な情報を得られたためだ。2次資料とは、検閲カード、脚本、それに音楽を指す。長年に及ぶ不十分なフィルムを使った準備作業と集中的な国際的調査の後、1986年、1987年に、その成果となるプリントがミュンヘンで編集された。MoMAからのナイトレートのデュープネガを基礎にし、他の使用可能なヴァージョンからの失われたシーン、つまりオーストラリア版のデュープネガとイギリスのオリジナル公開版のコピーに含まれたシーンを組み込んだヴァージョンが作られた。また、このとき、検閲カードの中に発見されたテキストに忠実な、新たに撮影された中間字幕が加えられた(20年代のドイツ映画は全てその地域の検閲局を通らなければならなかった。その過程を文書化したものが検閲カードで、検閲局に申し込んだ制作会社の名前、クレジット、インサートなどの映画の中の文字情報、同様に全ての中間字幕が記録されている。いくつものドイツの古典映画を復元するのに検閲カードははかりしれないほど役立ってきた)。このヴァージョンは3,153メートルの長さになった。したがって1927年のドイツパラマウント版より短いものだった。しかし、残っている部分を理解するのに必要なだけ、テキストとスチール写真で失われたシーンを補足し、編集は可能な限り封切り版に近づけられた。この復元版は世界中を巡回し、多くの場合新たにベルント・ヘラーによってアレンジされたゴットフリート・フッペルツの音楽とともに上映された。
私たちが1998年から取りかかっている『メトロポリス』の新版は、ミュンヘンのヴァージョンと同じ線に沿って考案されている。ただし、綿密なヴァージョン間の比較の結果、私たちは可能な限りは現存するパラマウント・アメリカ配給版のオリジナルネガを使用することに決定した。そのため、編集と中間字幕の位置を多少変更する必要が生じた。補足用のショットについては、可能な限り現存する第一世代のナイトレート・コピーから直接複製するようにした。この方法を採ったのは、まずよりすぐれた画像的な質を得るためだった。これまでのどのヴァージョンよりもすぐれた画面は、これまでの数十年間で初めて、カメラマンのカール・フロイントとギュンター・リッタウの仕事の素晴らしさを大きく強調することになるだろう。もう一つの理由は、技術的なものではなく本質的に文献学的なものだ。今回の作業の過程で、私たちは1934年にウーファのフィルムアーカイブが所持していたネガは最良の質のものではなかったという結論に達した。そこから、FIAF版とミュンヘン映画博物館版が復元の基礎とした30年代に複製されたMoMAのデュープネガも含め、このネガから作られたプリントは考えられているよりも価値の低いものであるという結論がだされた。MoMA版とパラマウントのアメリカ配給版を直接比較してわかったのは、ウーファのネガでは撮影時のオリジナルネガではなく、デュープネガで編集が行われているということだった。またコンティニュイティに欠ける部分や、パラマウントのアメリカ配給版に比べ俳優の演技が劣る部分も見られた。これらのことから、私たちはこのオリジナルネガはおそらくドイツ版のネガではない(修正された版でさえもない)と考えるようになった。そうではなく、これはおそらく最初の短縮版が使い古されたあとに組み合わせて作られた代用ヴァージョンなのだ。オリジナルネガは最もよいショットから組み合わせて作られたため、代用ヴァージョンは最初使用されなかったショットの集合体になった。さらに、対応するテイクがない部分ではコピーが使用された。一方で、早くも1926年の終わりにはベルリンを発ち、アメリカで短縮され再編集されたパラマウントのアメリカ配給版に含まれるショットが、ほぼ確実にラング自身によって選ばれたものだということもあった。自社の最も費用のかかった重要な映画を巨大なアメリカ市場に紹介するためのヴァージョンに、ウーファが悪いマテリアルを使用したというのはありそうにないことだ。
しかしながら、この新しい方法を採用するということは、映画をもう一度再構成する際に、ゼロからの再編集を行わなければならないことを意味していた。このように多様で部分によっては対立的でさえあるマテリアルを編集し組み立てる作業につきものの困難は避けがたいものだった。今回私たちに可能だったのも、オリジナルの『メトロポリス』を作ることではなく、様々なネガからの断片の合成版を作ることだけだった。
『メトロポリス』の新版制作は、技術的にも新しい水準に及んだものになった。写真工学的にデュープネガを制作するかわりに、保存されているナイトレート・フィルムを詳細に調べ、コンピューターを使い2K解像度[解像度2000ピクセルのこと。2K解像度で35mmフィルムとあまり見劣りがしないデジタル処理が可能になる。現在、2K解像度の処理がデジタルによる映画撮影・映画復元で実用化されている。35mmフィルムにはもう少し高い解像度の処理が最適だと考えられるが、予算的理由等からその実用化には至っていない]でデジタル処理した。この方法は、従来行われてきた方法にくらべて、傷、汚れた領域、表面の摩滅、それに壊れた領域を修正していく場合はもちろんのこと、全く別の画像的質を持った様々なソースから断片を組み合わせる場合に、より正確に処理することを可能にしてくれた。こうした調査と復元の仕事はアルファ・オメガ(ミュンヘン)が、フィルムへの焼き付けはサントリマージュ(パリ)が、配給用のプリント制作はブンデスアルヒーフ=フィルムアルヒーフが行った。2K解像度は20年代からのオリジナルネガを保存するのに果たして十分かという議論が起こるかもしれない。ただし、2K解像度での復元が行われる以前に、今回用いられることになったマテリアルは全て保護の手段として35mmフィルムにコピーされたということに言及しておくべきだろう。このデュープポジとデュープネガは今回の版と同じように編集されてはいない。もとの段階に戻って復元をやり直す必要があり、デジタル・データとオリジナルのナイトレート・フィルムが使用できなくなっている場合、このフィルムは未来の介入の際の利用可能なソースになることだろう。また現在、新しい映画の撮影後のデジタル処理は2K解像度でなされていることも指摘されるべきだろう。
最終的に、復元結果のデータがフィルムに焼きつけられた。この「デジタル」デュープネガは、以前のデュープネガに対する決定的な利点を持っている。プリント用のネガを所有しない限り複製を数世代重ねるしかないという従来の方法において予想されたダメージが、ほとんどないのだ。したがって、「デジタル・ネガ」から作られたコピーは、1927年に作られたばかりのネガからのポジととても近い質を得ることができた。
『メトロポリス』復元への最終章がこれで完結したのかどうかは、いずれわかることだろう。ただし、現存する要素から引きだせる限りでは、今回のフィルムの写真的な質と編集の構造が最適なものだったことは確かだ。より完璧に近いナイトレートのプリントかネガがみつかるまでは、今回の復元は決定版だと考えてもいいと思う。こうしたフィルムは、世界のどこかのフィルムアーカイブや個人収集家のもとでみつかるかもしれない。そうしたありそうもない状況を除くとしても、私たちは現在、生き残り、損なわれはしたけれども、可能な限り本物に近づけられた『メトロポリス』の美しさを楽しむことができるのだ。
F. W. ムルナウ財団、ブンデスアルヒーフ=フィルムアルヒーフそれにミュンヘン映画博物館は新しいヴァージョンのために情報とマテリアルを提供してくれた。また同様に、この試みを完成させるまでの3年間、調査中のわたしに協力し質問に忍耐強く答えてくれた。これらのアーカイブや組織でこの復元に協力した全てのひとに心から感謝したい。
“Notes on the Proliferation of Metropolis (1927)”
THE MOVING IMAGE SPRING 2002 – THE JOURNAL OF THE ASSOCIATION OF MOVING IMAGE ARCHIVISTS (Univercity of Minnesota Press)
※翻訳に際して以下の文献を参考にしました。
マルティン・ケルバー Prof. Martin Koerber M. A. :
1988年以来「日曜の人々(Menschen am Sonntag)」、「M」、「ドクトル・マブセ」、「アスファルト」、そして「メトロポリス」を含む数々のドイツ古典映画の復元を監修している。ドイツ映画博物館、オランダ映画博物館などを経て、現在はベルリン工科経済大学(Fachhochschule fur Technik und Wirtschaft)教授。
(翻訳・矢田聡)
オリジナル記事(英文)はこちらのサイトに掲載されています。
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