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〈オリンピック・プロジェクト〉

Journal of Film Preservation #98 表紙

Journal of Film Preservation #98 表紙

エイドリアン・ウッドが探索に関与したアーカイバル・フィルムを使ったドキュメンタリー番組は、ピーボディ賞、グリアソン賞、英国アカデミー賞(BUFTA)といった数多の受賞歴を誇り、その多大な貢献を認められ、ウッド自身も2004年にBUFTA特別賞を受賞しました。2016年に福岡に移住して以降も国際シンポジウム「レストレーション・アジア」の開催等を通して精力的な活動を継続するウッドの座右の銘は、”It’s not that something is lost; it’s simply that we need to continue the search to find it”。本稿は、彼が1996年から取り組んできた、そして国際商業視聴覚ライブラリー連盟(FOCAL International)より2017年の最も優れた復元・保存プロジェクトに選ばれた〈オリンピック・プロジェクト〉の20年を振り返り、FIAFやその加盟機関との連携に主眼をおいて執筆されたものです。映画のデジタル復元が当然の選択肢となっても、名うての“映画探偵”が国境をこえて追い求めるのは常に唯一無二のオリジナル、またはオリジナルに最も近い素材です。本稿を通して、IOCのマイケル・ペインが「まるでスパイ小説のようだ」と形容したというウッドの活躍の一端をお伝えできれば幸いです。

本稿は、国際フィルムアーカイブ連盟(FIAF)の機関紙 Journal of Film Preservation 第98号(2018年4月)に掲載されたエイドリアン・ウッド著 “A Challenge, Olympic in Both Its Nature and Its Scale” の和訳です。ただし著者から関係者への謝辞は一部割愛し、〔確固〕内に訳注を加えました。後日『東京オリンピック』に関する情報を追記する予定です。なお、翻訳および掲載を許可してくださったFIAF事務局の皆様に心より感謝いたします。

〈オリンピック・プロジェクト〉
オリンピックの性質と規模に対する一つの挑戦

エイドリアン・ウッド

〈オリンピック・プロジェクト〉のはじまり

 2000年6月、筆者はFIAFロンドン会議に招かれ、第16回メルボルン夏季オリンピック大会(1956)を記録したオリジナル16mmカラー・リバーサル〔反転現像によってポジ画像を得る〕フィルムのデジタル変換や復元に関する発表の機会を得た。夏季・冬季オリンピックの公式記録映画〔以下「オリンピック映画」〕の製作が義務付けられたのは1930年、ベルリンにおいて「オリンピック憲章」が改正されたときのこと*1。この16mmフィルムもやはり、オリンピック映画として撮影されたものだった。

 FIAFロンドン会議は〈オリンピック・プロジェクト〉の最初の公式な発表の場ではあったが、既に筆者が同プロジェクトに着手して4年と少しが過ぎていた。プロジェクトの運営主体は、国際オリンピック委員会(IOC)傘下のオリンピック・テレビジョン・アーカイブ・ビューロー(OTAB)。同プロジェクトの中身も、ロンドンを拠点とするOTAB自体も、生みの親はIOC〔初代〕マーケティング・ディレクターのマイケル・ペインだった*2。ペインはIOCが1984年以前の視聴覚遺産を所持していないことを知ると、それを「取り戻す」べく、当時のIOC会長フアン・アントニオ・サマランチの同意を取り付けた。オリンピックの始まりといえば華やかなファンファーレが想起されるし、ましてや昨今の開会式は実に騒々しい。サマランチの支援とIOC理事会承認の予算を得たこの大規模事業はしかし、ひっそりと幕を開けた。

 IOCはオリンピック映画の権利所有者を明らかにし、アーカイバル・コンテンツとして相応しい――つまり各国の放送事業者の期待を裏切らないレベルの――高質な複製の入手を目指した。当然ながら、オリンピック映画の中にはレニ・リーフェンシュタールや市川崑の著名な作品もあれば、リーフェンシュタールより前、市川より後、または両者のあいだに製作され、長く忘れられていた作品もある。プロジェクト開始時には、過去に製作されたオリンピック映画の総数はおろか、残存数すら把握できていなかった。

 初期調査によって明らかになったことには、競技の映画撮影が初めて許可されたのは1908年の第4回ロンドン大会だった*3。さらに調査を進め、撮影権を与えるか否かは常に開催地の組織委員会が決定していたらしいこともわかった。単一にしろ複数にしろ、オリンピックを撮影する栄誉を誰に与えるのか、その選定過程にIOCは一切口出しせず、完成したオリンピック映画の権利は製作会社または各組織委員会にあった。その流れでいえば、撮影されたフッテージに対する責任も製作会社または各組織委員会にあるはずで、こうした事情から、筆者の任務は混迷を極めた。競技種目が多岐にわたるように、フィルム資料もその権利も多岐にわたり、それらすべてを集約しようなど、前代未聞の試みだったのである。

 もっとも、この時点で集積されたオリンピック映画のコレクションは画質の悪いビデオテープや上映用プリント、場合によっては配給用の縮小コピーに過ぎず、何年もシネマテーク・スイスの収蔵庫に(クリスチャン・ディミトリ館長の手元に)置かれていた。しかし1990年初頭にローザンヌのIOCに戻され、〔2013年の〕オリンピック博物館のリニューアル以降は館内の収蔵庫に保管されるようになった。

 筆者がFIAF会議で発表できたのは、1996年にIOCの要請を受け入れたキャンベラのスクリーンサウンド・オーストラリア(現在は旧名称の国立フィルム&サウンドアーカイブに戻っている)の素早い初動のおかげだった。過去に配給業者がオーストラリアから米国に売り払ったオリジナルの映画素材は、オーストラリア連邦裁判所における3年越しの訴訟を経て、最終的にはIOCの資産と認められたが*4、開催国オーストラリアや開催地メルボルンにおける計り知れない文化的価値から、現物の資料は本国に寄託され、「オーストラリアの唯一無二の文化資産」として保存されることになった。こうした考え方――つまり映画を貴重な財産として認めること――は、後のFIAF加盟/非加盟機関とIOCの協力関係において、オリンピック開催国や開催地の重要な方針となった。復元素材は、オーストラリア、オーストリア、カナダ、フィンランド、フランス、イタリア、日本、メキシコ、オランダ、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、スイス、英国、米国といった主催国に寄託されている。

 IOCのプログラムを支持するという意味で、メルボルン大会の記録映画はFIAF加盟機関が積極関与した初のケースだった。同様の事例がその後も続くとは予想もしなかったが、結果的に〈オリンピック・プロジェクト〉は50を超える放送アーカイブ、撮影所、フィルムアーカイブ、図書館(その内23機関がFIAF加盟機関)の協力を得て40作品以上の長編映画と60作品以上の短編映画を保存し、そして復元した。IOCコレクションの中に、FIAF加盟機関の支援なしに保存・復元された1994年より古いオリンピック映画は見当たらない。加えて、1950年代から1990年代に撮影された数100時間相当の未使用素材、国外版用インサート、そして国外版自体も回収(ほとんどがSDまたはHDの画質でスキャン)された。

『太陽のオリンピア』と『ロンドン・オリムピック』

 1990年後半、第19回メキシコシティ夏季オリンピック大会にて製作されたアルベルト・イサーク監督『太陽のオリンピア』(1968)のオリジナル素材が見つかった。この作品の発掘は、その後のプロジェクトにかなりの影響を与えた。IOCも筆者自身も、これだけの規模の保存事業を引き受けたことはなく、プロジェクトの進行に連れてその大きさを思い知ることになった。紆余曲折を経てロサンゼルスのアカデミー・フィルムアーカイブにたどり着き、アセテートベースの2穴(2パーフォレーション)〔テクニスコープ〕のオリジナル画ネガ・音ネガから、エスターベースの4穴の中間素材を新たに作成することになったが、復元についての考え方が洗練されたのも、その後の作業を大幅に改善できたのも、この経験のおかげだった。

 FIAFロンドン会議直前、第14回ロンドン夏季オリンピック大会を記録した『ロンドン・オリムピック』(1948)の回収も進んだ。幸運にも、この作品の素材はランク・フィルム現像所が英国国立フィルム&TVアーカイブ(略称NFTVA、現BFI国立アーカイブ)に寄託していた。しかも、NFTVAは既に『ロンドン・オリムピック』の調査を進め、ジョアン・オリヴェリアの主導で写真光学的な復元も済ませていたことから、とくに急ぐ必要はないと判断して優先順位を下げてしまった。

 ところが10年後、NFTVAのテクニカラー・フィルルム素材に劣化が見つかった。この出来事をきっかけに、『ロンドン・オリムピック』のテクニカラーのオリジナル素材(3色分解ネガ)と、「緊縮大会」の中でコストを抑えるために使用されたバイパック素材(テクニクローム)にも徹底したインスペクションを施すことになった。すると、残念ながら黴の被害が生じていた――つまり、優先順位を下げた我々の判断は甘かったわけだが、取り返しのつかない段階には至っていなかった。ワーナーブラザーズ傘下のモーション・ピクチャー・イメージング社(バーバンク)にデジタル修復を発注し、どうにか問題点を取り除くことができたのは幸運だった。そして、その頃までに採択されていた内規によって、数多くの国外版用インサートも救済できた。

 筆者は2004年にOTABを離れるとすぐIOCに直接雇用された。IOCの組織改編に伴いプロジェクトも仕切り直され、新たに映画史家ロベルト・ジャキエが迎えられた。筆者はFIAF加盟機関と交流し、FIAFや動的映像アーキビスト協会(AMIA)等の年次会議に参加するうちに、次のことを理解した。つまりIOCが注力すべきは、単なる質の高いプリントの作成ではなく、収集作品の長期的な保存用素材の作成であり、遠からず開始される高解像度の放送に備えるだけでなく、デジタルシネマへの移行も見据え、保存・復元への多額投資は必至だった。筆者はこの点をIOCに訴え続けた。

 行動力があり、熱意あふれる同僚ジャキエは、〈オリンピック・プロジェクト〉の性質を一変させた。筆者はジャキエとともに物的素材および知的財産権の回収を継続しつつ、単に発見した作品のニュープリントを作成するようなやり方は忘れて、代わりに十全な復元に着手した。結果としてフィルムアーカイブの国際標準に見合った素材、つまりエスターベースの長期保存用35mmフィルムの音と画の素材、そしてデータ一式――加工前の元データとデジタル復元後のデータ――が蓄積されていった。

 発見された素材の状態は相当ばらつきがあったが、皮肉にも比較的新しいフィルムの状態の方が悪かった。倉庫会社の不適切な収蔵環境から回収されたアセテートベース――とりわけ磁気音声――の劣化素材の扱いは、多くの点で古いナイトレートフィルムより遥かに手間がかかった。

 例えば、第5回ストックホルム夏季オリンピック大会(1912)のニュース映画のオリジナルネガは、長年スウェーデン映画協会で守られてきただけあって、驚くほど美しかった。片や、第10回グルノーブル冬季オリンピック大会の〔クロード・ルルーシュ監督〕『白い恋人たち』(1968)の35mmカラーネガは酷かった。シミや汚れは不適切な現像や劣悪な収蔵環境の証だ。傷だらけでぼろぼろだった同オリンピックの別作品(Neiges de Grenoble)の16mmリバーサルフィルム(エクタクローム)の扱いも、困難を極めた。

 〈オリンピック・プロジェクト〉の保存・復元がここまで複雑になったのは、90年以上にわたるオリンピック映画史の中で採用されてきた製作方法が実に多様だからだ――実際のところ、いかなるフィルムアーカイブのコレクションの保存・復元も同じだろう。サイレントからトーキーへの変遷があり、画面比率にはサイレント・フルフレーム、アカデミー比、各種ワイド・フォーマット、そして大型の「IMAX」があり、カラー乳剤にはアグファ、アンスコ、イーストマン、富士フイルムがあり、それぞれに特質や弱点がある。

『オリンピア』と『銀界征服』

 新体制の〈オリンピック・プロジェクト〉が着手したのは、第11回ベルリン夏季オリンピック大会(1936)を二部構成で記録したレニ・リーフェンシュタール監督『オリンピア』〔第一部 民族の祭典、第二部 美の祭典〕の復元だった。あらゆる難題が想定されたこの復元に際して、我々は基盤となる原理原則を打ち立てた。つまり、可能な限りオリジナル言語(通常は開催国の言語)のディレクターズ・カット版を用い、初公開時に近い形態を目指して復元すること。撮影に使用されたオリジナルネガ、またはオリジナルネガから作成された中間素材を常に探し求めること(大方は入手できた)。どのように手を加えたのかを詳細に記録し、その記録をオープンにすること。

 あらゆるバージョンが散在する『オリンピア』はとりわけ複雑だった。リーフェンシュタールはオリジナルのドイツ語版に加え、第二次大戦前に多言語版を作成していたし、コレクション内の他の作品同様、言語ごとに編集方法が異なることも度々だった。例えば商業的な目的から、強豪フランスの自転車競技は仏語版では第一部に、仏語版以外では第二部に含まれる。NFTVAが帝国戦争博物館から取得して1990年代に復元した1959年の英語版は、部分的にはドイツ語版と一致するが、ドイツ国内公開版とはかなりの差異がある*5

 第二次世界大戦終結後、リーフェンシュタールは西ドイツの法律の下でも『オリンピア』を上映可能にするため、ドイツ語版からヒトラーの姿、ナチス式敬礼、ハーケンクロイツの写り込んでいる場面をできる限り削除した。その後、そのバージョンの多言語版も作成した。

 複数のバージョンをデジタル化して比較検討するため、ヨーロッパの企業と協議して最善策を模索した結果、エディット・ストア社(ロンドン)のクリス・ロッドメル氏のチームが考案した――本来はマルチ撮影/ノンリニア編集用に開発された――ソフトを採用することになった。再構成に使用する個々の残存素材を後から技術的に検証できるように、ロッドメル氏と筆者は正確なロードマップを策定した。2006年のFIAFサンパウロ会議では、外階段の下にどうにか日差しを避けられるスペースを確保し、少数の参加者を前に比較検討作業を実演した。

 ロードマップとはまた別に、マスター素材から判明した事実もあった。事前調査から、リーフェンシュタールが場面ごとに感度の異なるフィルム・ストックで撮影したことは知っていた*6。彼女は何度もテストを繰り返した後、アグファ、ペルツ〔ペールツ〕、コダックのストックの乳剤が、それぞれ建築物や石材、自然の緑、そして人の肌合いを記録するのに適していると考えた。この使い分けを正確に再現するのはかなり骨の折れる作業だった。時には、たった一つのショットを完成させるために、ナイトレート・プリントからほんの数フレームを復元版に挿入するようなこともあった。シネリック社のトム・ヘイトマンに助けを求めたのはこれが最初ではなかったが、彼の熟練技術にはその後も繰り返しお世話になった。

 詳細な物的調査を経て、乳剤の選択だけでなく複製本数も判明した。複製の目的はオプチカル〔光学的な〕効果のため、そして同オリンピックを撮影した他作品の一部をを『オリンピア』に挿入するためでもあった。ニュース映画、PR映画、教育映画――本来の目的にかかわらず、彼女はあらゆる関連素材を掌握し、自由に使える立場にあった。そのため1930年代後半のナイトレート・プリントにも、1980年代のアセテートベースの複製にも、場面ごとにはっきりと粒状性の違いが見受けられる。筆者はオリジナリティや初公開時〔1938年、ヒットラー49歳の誕生日にベルリンの映画館ウーファ・パラスト・アム・ツォーで行われたプレミア上映〕の視聴体験を尊重し、デジタル技術による粒状性の調整は最小限に抑えた。

 リーフェンシュタールは1970年代に自作のオリジナル・ナイトレート素材をIOCに寄贈する意向を示したが、その頃ドイツでは〔危険物の〕ナイトレート所持が重大な問題になっていた。躊躇したIOCは彼女の申し出を断ってしまったが、幸いその素材はジョージ・イーストマン・ハウス〔現ジョージ・イーストマン博物館〕に収蔵された。ジョージ・イーストマン・ハウス以外にもFIAF加盟8機関から第二次世界大戦前の形態の各国語版の素材の提供を受け、それらを再構築に生かした。調査や分析の過程で『オリンピア』の閲覧用コピーや関連情報を提供してくれたFIAF加盟機関は20を超える。

 第2回サンモリッツ冬季オリンピック大会を記録した『銀界征服』(1928)にも悩まされた。監督の一人はかのアーノルド・ファンク――好んでリーフェンシュタールを主演に起用したことで知られるドイツ山岳映画のパイオニアだ。この復元こそ、FIAFのネットワークの恩恵を受けた代表的な事例だった。

 当初『銀界征服』は、シネマテーク・スイスに残存する断片を除いて完全に失われたと考えられていた。ミュンヘン映画博物館の関係者を通して、ゴスフィルモフォンド〔ロシアの国立映画アーカイブ〕に完全に近いバージョンが残存するという証拠を掴んだが、最終的に見つかった場所は、ドイツ連邦公文書館フィルムアルヒーフ(ベルリン)に所蔵されていたファンクの別作品の中だった。ファンクがスイスのエンガディン地方で大会前に製作した作品に『銀界征服』の断片が挿入されていたのだ。シネマテーク・スイスにも同定/識別されていない断片があることはわかっていたので、冬季オリンピックに関連するフッテージの本格的な調査を依頼すると、かなりの量の新資料が見つかった。さらにIOCのコレクションからも、関連場面を記録した16mm縮小プリントが出てきた。

 二つの史料――スイスの業界誌(スイスではオリンピック閉幕6週間後に『銀界征服』が初公開された)、そしてドイツの1928年3月の検閲記録――に基づいて断片をつなぎ合わせ、我々はやっとの思いでファンクの「ロスト・フィルム」を再構築したが、その完成から3年後の2014年〔映画祭でのお披露目上映やテレビ放映も終えてから〕、オーストリアで同作のほぼ完全な仏語版ナイトレート・プリントが見つかった。フィルムアルヒーフ・オーストリアの多大な支援を得て、我々はそれまで失われていた約20分(リーフェンシュタールのカメオ出演を含む)を追加した。つまり『銀界征服』の再構築を2016年にまたやり直したのだ。

おわりに

 以上の通り、IOCがFIAFに助けを求め、FIAFの加盟機関や支援機関から協力を得て成し遂げた保存・復元の事例を紹介した。FIAFの協力がなければおそらくこのプロジェクトは完了しなかったし、筆者の道程もまったく違ったものになっていたろう。そしてIOCは、2017年に晴れてFIAF加盟を果たした。再び移管され、シネマテーク・スイスの新しい収蔵庫に保管されることになったIOCコレクションは、以前とは似ても似つかない――もはや傷んだプリントや劣悪なコピーだけから成るコレクションではないのである。

トニー・メイラム監督がインスブルック冬季オリンピック大会(1976)の映画『ホワイトロック』でアイスホッケーを至近距離で撮影するため、そりにマウントしたキャメラ

トニー・メイラム監督がインスブルック冬季オリンピック大会(1976)の映画『ホワイトロック』でアイスホッケーを至近距離で撮影するため、そりにマウントしたキャメラ

 オリンピック映画は現在、非営利目的ならオリンピック文化遺産財団から無償で借りることができる。米国では主要な長編映画の復元版を網羅するブルーレイのボックスセットが販売された。ボックスセットの付録には、より詳しい解説書が含まれる。この〈オリンピック・プロジェクト〉のために筆者は多くの人々を悩まし、そして悩まされもしたが、すべての協力者と関係者に心より感謝している。

初出:Journal of Film Preservation #98(国際フィルムアーカイブ連盟 FIAF 2018年4月)
©Adrian Wood/FIAF
翻訳:映画保存協会(2018年6月)


脚注/訳注

*1:オリンピック憲章 1930年版 (p. 30). IOC, https://stillmed.olympic.org/media/Document%20Library/OlympicOrg/Olympic-Studies-Centre/List-of-Resources/Official-Publications/Olympic-Charters/EN-1930-Olympic-Charter.pdf(参照2018-06-05)

*2:マイケル・ペイン著「オリンピックはなぜ、世界最大のイベントに成長したのか」(サンクチュアリ出版 2008)pp.196-200.,(遺産を取り戻す/第5章)

*3:McKernan, Luke. “Rituals and Records: The Films of the 1924 and 1928 Olympic Games”, European Review 19(1). 2011. pp. 563-577. https://doi.org/10.1017/S1062798711000196(参照2018-06-05)

*4:Australian Olympic Committee Inc v The Big Fights Inc [1999]. オーストラリア連邦裁判所, https://jade.io/article/117222(参照2018-06-05)

*5:Downing, Taylor. Olympia. BFI, 2012. pp. 9-11.

*6:Graham, Cooper C. Leni Riefenstahl and Olympia. Scarecrow Press, 2001. p. 51.

参考:
>> 100 Years of Olympic Films: 1912–2012(Criterion 2017年 6,253分)
>> レストレーション・アジア

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