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ある国の情熱と夢:タイ・フィルムアーカイブの30年

30years drawing

英国イーストアングリア大学でフィルムアーカイブ学を修めたチャリダ・ウアバムルンジット氏は、現在タイ・フィルムアーカイブの副ディレクターとして、またアジアの女性としては川喜多かしこ氏に次ぐ2人目の国際フィルムアーカイブ連盟(FIAF)運営委員として活躍しています。
映画保存やフィルムアーカイブ活動に関連する国際会議やシンポジウムに国際映画祭…… こうした場所で姿をお見かけするウアバムルンジット氏は、必ずといっていいほど若い職員を何名か連れています。タイ・フィルムアーカイブはディレクターのドーム・スックウォン氏を中心に、厳しい予算や政府の無理解に苛まれながらも人材育成に注力し、アドボカシーやアウトリーチを重要視してきた結果、タイ国内の人々から愛され、世界中のフィルムアーキビストが注目する魅力的な組織へと成長しました。この短い記事の中にその歴史が凝縮されています。
この記事によってタイ・フィルムアーカイブへの敬意が一層深まったばかりでなく、これまで理解できていなかった2010年の改名の重要性をようやく理解することができました。
翻訳および掲載を許可してくださった著者のウアバムルンジット氏およびFIAF事務局のクリストフ・デュパン氏に心より感謝いたします。

ある国の情熱と夢:タイ・フィルムアーカイブの30年

チャリダ・ウアバムルンジット

 1966年にバンコクで開かれたUNESCOのコミュニケーション小委員会は、タイ国立図書館に歴史的・文化的な映画の収集およびアクセス提供の開始を勧告した。その小委員会で議長を務めたプレーム・プラチャトラ王子は、私的コレクションから何本かの映画フィルムを寄贈。こうしてタイにおいて初めて映画遺産という概念が示されることとなったものの、それ以上の進展は長らく見られなかった。

 タイ・フィルムアーカイブの歴史とドーム・スックウォンの功績を切り離すことはできない。スックウォンの映画愛の発露は、西部劇への出演を夢見た若かりし頃に遡る。後に彼は巡回映写技師を志した。当時のタイに映画学校はなく、映画の知識を深めようとチュラーロンコーン大学コミュニケーション学部に入学したが、望ましい成果は得られなかった。そこで自ら映画サークルを立ち上げ、映画ジャーナルを発行し、大学卒業後の1978年からフリーランスのライターとして複数の新聞に執筆するようになった。同時に、三輪タクシーのドライバーと駆け落ちするアメリカ人主婦の実話に基づく映画『Salathee』の台本執筆のため、調査を進めた。映画は未完に終わったが、この調査を通して図書館で閲覧できる豊富な資料に触れ、台本の完成後にはタイ映画史の執筆を心に決めた。

 1980年、スックウォンはタイ映画のパイオニアにしてタイ映画史の執筆者としても知られるヴィジットマトラ氏(Khun Vijitmatra)の死亡記事を目にした。以前からインタビューしてみたいと思っていた重要な人物であったが、もはや話を聞くことはできない。この経験から、タイ映画に関する調査開始までこれ以上時間を無駄にはできないことを悟った。

First collection at the State Railway

〈画像:タイ国有鉄道から入手した映画フィルムのコレクション〉

 当時、最古のタイ映画といえば『Nang Sao Suwang [Miss Suwanna of Siam]』(1923)と考えらえていたが、これは実のところヘンリー・マックレイ監督によるタイ人をキャスティングした米国映画であった。タイ国有鉄道が製作費を援助した形跡を見つけたスックウォンは、情報を求めて運輸省鉄道局を訪れた。そこで彼が目にしたのは、放置されていた290缶ものナイトレートフィルム————タイ国有鉄道が製作したニュース映画群————であった。それらを寄託する機関が見当たらなかったことから、彼は映画保存キャンペーンを開始した。

Dome on the right in Stockholm

〈画像:FIAFの仲間とスックウォン(右端)〉

 1981年から1983年にかけてスックウォンは持てるすべての時間をこのキャンペーンに捧げ、予想に反してあらゆる作業が極めて複雑であることを思い知らされた。1983年、後の国際フィルムアーカイブ連盟(FIAF)会長アンナ・レーナ・ヴィボムに招かれ、FIAFストックホルム会議〔第39回〕にオブザーバーの立場で参加した彼は、〔フィルム〕アーカイブのスタンダードな考え方に魅了され、ロボットやコンピュータによって機能するフィルムアーカイブに憧れを抱いた。また、英国国立フィルム&TVアーカイブのハロルド・ブラウン(★1)から映画フィルムの取り扱いの基礎を教わった。

 スックウォンはスウェーデンへの道すがら、海外渡航した初のタイ国王、ラーマ5世の自伝『Krai ban [Far from Home]』(1907)を購入した。そこに「外国人が活動写真を撮影していたのが素敵だった」という記述があったことから、ラーマ5世を撮影した映画がどこかにあるのではと期待せずにはいられなかった。スウェーデン映画協会のアーカイバル・フィルム・コレクションの責任者ロルフ・リンドフォッシュは、それらしいフィルムをすべて出庫して見せてくれたが、お目当ての映画は見つからなかった。しかしリンドフォッシュによると、残存の可能性のある場所は他にもあるようだった。1983年のクリスマス、スックウォンは一通の手紙を受け取った。そこには「確かにラーマ5世のストックホルム訪問を撮影した映画が見つかったので複製を送りましょう」と書かれていた。手紙にはもう一つ別の作品————パウルテ・フェヨス監督がスウェーデンの映画会社スヴェンスカ・フィルムインダストリのためにタイで製作した『En handfull ris [A Handful of Rice]』(1938)————の複製まで添えられていた。なんと素晴らしいクリスマスプレゼントだったろうか。

 1984年、スックウォンは20年前に設立されていたインド国立フィルムアーカイブ(★2)に招かれた。この訪問に感化された彼は、たとえ予算がほとんどなくてもフィルムアーカイブは設立できると考えるようになり、映画保存キャンペーンの継続に情熱を燃やした。国王ラーマ5世の映画発見のニュースもまた、状況好転の後押しとなった。結果的に教育省芸術局はフィルムアーカイブ・プロジェクトを認可し、1984年9月7日、教育省芸術局管轄の「タイ国立フィルムアーカイブ」が正式に設立された。

first table

first batch of film archivists

〈画像:フィルムアーカイブの最初の建物〉

put the first sign of the national film archive

 我々にとって何よりも必要だったのは、映画フィルムの置き場だった。どこかに相応しい建物がないか芸術局に尋ねたところ、かつて王立タイ造幣局が使用していた古い建物があてがわれた。そこには映画フィルムの収蔵庫に転用できそうな巨大な倉庫があった。廃墟から生まれた我々のフィルムアーカイブには、木製の扉を使ってこしらえた1脚の机があり、そして数人のボランティア・スタッフがいたが、予算はゼロであった。

 タイ国立フィルムアーカイブは1986年に賛助会員としてFIAF加盟を果たし、ほどなくFIAF加盟機関から支援を受けた。スウェーデン映画協会はインガ・アドルフソンとベルティル・スパーフを派遣し、職員研修を行い、現像機および基本的な機器を設置してくれた。同年、何度かバンコクを訪れたハロルド・ブラウンは、タイのフィルムアーキビスト第一世代を育ててくれた。対象となったのは、ほとんどが非常勤職員またはボランティア・スタッフだった。残念ながら彼らに適正な給料を支払うだけの予算はなく、多くはその職を去ることになった。1987年、「タイ国立フィルムアーカイブ」は国立公文書館の1部門となった。

 初期の主な活動は、アクイジション〔寄贈、寄託、移管、購入、交換、返還等によって資料を取得すること〕だった。映画保存に不可欠なのは、一般の人々の関心を高めて支持を得ることである。タイ国立フィルムアーカイブの設立はマスコミ報道によって広まり、映画フィルムの寄贈を促した。最初に映画フィルムのコレクションを我々に寄贈したのは著名な映画監督ピアック・ポスターだった。スックウォンとそのチームは全国行脚し、映画フィルムその他の動的映像メディアを集めながら、映画保存の重要性を人々に訴えた。

 1988年2月、ピアック・ポスターはスックウォンに、タイの大手映画会社ファイブ・スター・プロダクションと契約していた香港のマンダリン現像所が近く閉鎖され、著作権者が返却を望まなければ、現像所が保管してきた1970年代から1980年代にかけて製作された映画の原版が廃棄処分されてしまうことを伝えた。そこでスックウォンは「タイ映画の里帰り」プロジェクトを立ち上げ、香港に原版の本国返還を求めた。1970年代以降のほとんどのタイ映画の現像・焼き付け作業は香港で行われたので、マンダリン現像所以外の現像所にも同じく働きかけた。長い期間を経て、最終的に700作品以上がタイに戻ってきた。最後の返還便の到着は2013年のことであった。ある意味これは大変喜ばしい出来事ではあったが、返還されたタイ映画を処理するのに十分な職員や相応しい機器が揃っていたわけではなく、作業完了までにかなりの時間を要することが予想され、適切な温湿度環境に資料を保管するため、収蔵庫建設が喫緊の課題となった。

 1992年、バンコク中心部から約25kmの距離にあるナコーンパトム県サラヤに新しい収蔵庫を建築する予算が計上され、1998年、我々のフィルムアーカイブはバンコク中心部からサラヤの独立した建物へと移転することになった。しかしサラヤの建物がフィルムアーカイブとしての機能を十全に備えていたわけではなかった。収蔵庫や作業場は狭く、職員用の基本的な設備にも事欠くほどであったし、フィルムアーカイブとしてまともに機能させるには、かなり手を入れる必要があった。引越しの予算もなく、ほとんどの棚や机は職員やボランティアの手作りだった。スタッフルームの一角を閲覧室に転用し、ドキュメンテーション部門はバンコクの国立公文書館に残された。

 サラヤはバンコクから遠くはないが、初期サラヤ時代は実に原始的であった。沼地に建てられた収蔵庫の構造はお粗末なもので、大雨が降ると必ず屋根からの雨漏りで上階が水浸しになった。映画フィルムを最良の状態で保存しようと努力していた職員たちは、胸が張り裂けるような思いをしたものである。

 スックウォンはよくフィルムアーカイブを盆栽に例える。盆栽は小さな鉢に植えられている限り、大きく成長することはできない。問題の打開策を探る中で、彼は1999年に登場した「公共機構 Public Organization」という組織体制に着目した。「公共機構」は政府機関の一種であるが、運営に自律性があり、より良い公共サービスを提供するため各省庁を補助する。いくつかの組織は管轄の省庁から強制的に公共機構へと移行させられたが、自ら望んで移行した組織は一つもなかった。芸術局は移行を認めてくれなかったため、新たな苦闘が始まった。スックウォンは考え得るあらゆる手段を尽くして奔走したが、実際に移行するまでには8年を要した。2009年、名称はタイ国立フィルムアーカイブから「タイ・フィルムアーカイブ(公共機構)」に変わり、我々はこの新組織体制で2011年にFIAF正会員となった。

 一方2003年、もう一棟の新しい収蔵庫が建設され、「国王のフィルムコレクション棟」と名付けられた。しかし現国王の私的な映画コレクションを保存するプロジェクトが始まったのはようやく2007年のことであった。総理府主導によるこのプロジェクトには、さらにもう一棟のタイ王室庁傘下の保存センター及び収蔵庫の建設も含まれた。我々は、総理府に新たに雇われた映画保存担当の20名の職員研修を仰せつかった。既にボランティアとして我々のフィルムアーカイブを訪れた経験のあるブリジット・パウロヴィッツが6か月の研修を実施し(★3)、この研修が新世代のフィルムアーキビストたちの基礎固めとなった。しかし2008年の終わりに総理府は、この20名の職員との契約打ち切りを決めた。退職を望んだ者もあったが、内16名は、新体制となって彼らを雇用するだけの予算を得た我々のフィルムアーカイブに残った。

 2011年の洪水では、タイ国土の半分以上が被害を受けた。バンコク南西にあるサラヤの被害は甚大だった。水位が上がった際には、コレクションを他所に移すことも検討されたが、被災地域があまりに広く、映画フィルムの移動手段と保管上安全な場所の探索は容易ではなかった。電気が使えるなら今ある収蔵庫がおそらく最も安全だろうと、最終的にはスックウォンが判断した。職員はフィルム缶を棚の最上部に移し、収蔵庫の扉を閉め、多くが職場に寝泊まりして状況を見守った。自宅や通勤経路も浸水し、帰りたくても帰れない職員もいた。収蔵庫が浸水することはなかったが、水が引いても敷地内に取り残された人々がいた。隣の学校がこうした人々の避難所になると、我々は上映施設スリ・サラヤ劇場(Sri Salaya)で映画上映を再開した。結果的に我々は2ヶ月近く水に取り囲まれていたことになる。歴史上最悪の水害だった。

 新組織として予算を得た我々は、今まさに新時代へと入りつつある。2015年には収蔵庫およびアナログ設備とデジタル設備を備えた保存棟が完成する。時代が変わり、デジタル技術によって我々は過去30年間に取得した映画フィルムを蘇らせることができるようになった。どんなに状態が悪くても、それらを再び観客に提示することができるのである。

 もっとも「フィルムアーカイブ」とは、映画を上映するだけの場所を指すのではない。我々のモットー「Cinema Enlightens(映画は啓発する)」に従えば、教育から娯楽まで映画のあらゆる側面を提供するべき場所である。我々の「School Cinema」プロジェクトは、2014年12月に誕生した映画博物館やその野外展示(マーヤ・シティ)を使って子どもたちに映画を体験してもらう取り組みである。メディアテーク、展示室、そして350席の上映施設を備えた国立視聴覚センターは2017年に完成予定である。

 こうして過去を振り返ってみると、そのスタート地点からフィルムアーカイブがいったいどれだけ遠くまで歩んで来たのか、にわかに信じられないほどである。ここまでたどり着いた原動力は間違いなく映画への情熱、それもドーム・スックウォンの情熱だけではなく、過去30年間にフィルムアーカイブに関わったあらゆる人々の情熱である。

初出:Journal of Film Preservation #92(国際フィルムアーカイブ連盟 2015年4月)
(C)Chalida Uabumrungijt / FIAF
翻訳:映画保存協会(2015年12月)

訳注:
(★1)ハロルド・ブラウン Harold Godart Brown(1919-2008)はBFIの初代フィルムアーキビストとして、キーパーのアーネスト・リンドグレンと共にオリジナルの保存を重視する英国のフィルムアーカイブ活動の胎動期を実務面で支えた。著作に『Physical Characteristics of Early Films as Aids to Identification』(FIAF 1990年)がある。>> http://d.hatena.ne.jp/filmpres/00220001
(★2)インド国立フィルムアーカイブはP. K. ナイル(P. K. Nair)によって1964年に設立された。設立経緯やその後の展開はナイルのドキュメンタリー『Celluloid Man』(2012年)に詳しい。>> http://d.hatena.ne.jp/filmpres/14440012
(★3)ブリジット自身による「ボランティア・プロジェクト:タイ国立フィルムアーカイブにて」に詳しい。
>> http://filmpres.org/preservation/volunteer_thailand/

参考:
タイ・フィルムアーカイブ(公共機構)
http://www.fapot.org/en/home.php
タイ王国政府組織一覧
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2800/gov/thailand.html
バンコクポスト「The reels keep turning」
http://www.bangkokpost.com/print/430558/

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