TOP > 映画保存とは > フィルムアーカイブ物語 > 第三章
アーカイブにはありとあらゆる資料が積まれている。これらの資料の中には、題目不詳、入手場所および経路不詳などの不親切な資料がある。その破片をあれこれ繋ぎ合わせて資料の実体を明らかにする作業、そして無数の方式で存在した映画フィルムの痕跡を探す作業、正にこれがフィルムアーキビストの任務である。
アーカイブにはありとあらゆる資料が積まれている。資料の大部分はアーカイブに入ってきた直後に、出処、入手方法が記録され、資料を検査する過程で題名が確認される。例えば、ホン・ギルドン氏が2009年3月20日、35mmプリント1本を韓国映像資料院に寄贈したとしよう。すると、「出処」は「ホン・ギルドン」 であり、「入手方法」は「寄贈」である。「入手日時」は「2009年3月20日」となる。収集を担当しているチームでこのような基本情報を記録した後、プリントは資料を実際に管理するチームに渡り検査される。フィルムの規格(35mm)と種類(プリント、即ちポジ)そしてフィルムの材質(アセテートもしくはポリエステル)、色(白黒もしくはカラー)は肉眼で確認できるであろう。フィルムは、検査台の上で全体の長さを測定され、その長さから上映時間が計算される。全体の長さが4,936ftなら54分ほどになる。(35mmの場合、全体の長さを90で割れば上映時間を算出できる)プリントであるから、イメージの横にサウンドがあれば音付き、なければ無声映画である。これで基本情報が完成したので、次に詳細情報のためにプリントを編集機にかけてみる。編集機の画面を見ると、映画の画面の種類(スタンダードやシネマスコープなど)を正確に確認できる。そして音のある映画の場合、使用言語(韓国語)と字幕(英語)などを確認する。殆どの映画は、題名とキャストがわかるような字幕が、該当プリントの始まりや終わりに付いているので、題目、制作会社、キャストなどの作品情報を確認してデータベースに入力すればよい。その後、資料に保管場所(位置)が与えられ、保管庫に保存される。
しかし、全ての資料がこんなに親切なわけではない。大分前に、大量の資料をー資料は何台かのトラックで入ってくることもあるー同時に入手したが、出所や入手日が不明瞭であったり、フィルムが損傷し字幕部分がなかったり、俳優の顔だけがくっきり写る褪せた白黒写真、誰かが殴り書きしたある映画のメモなどが入っていることもあった。このような不親切な資料の情報を確認し、正確に目録化(カタロギング)して保管するのがフィルムアーキビストの仕事の一つであるが、時としてこの仕事は、パズル合わせのようである。
現在私たちが保有している無声映画がいくらもないので、外国の無声映画を例にとり説明するが、まず一つの例を見てみよう。題名を知るためのクレジットの部分が消失して、本編だけが残されていると仮定する。無声映画を多く鑑賞した人なら、画面からリリアン・ギッシュという女優であることがわかる。無声映画であるから、1927年以前に制作されたはずだろうが、リリアン・ギッシュが 1927年以前に出演し た作品は約70編を超える。インタータイトル(中間字幕)を見ると、主人公の名前ーSandersonとAnnaーとDGという制作会社のロゴがある。DGというロゴはデイヴィッド・グリフィスの略で、この資料がグリフィス作品であることを確認できる。
ここまでの情報をまとめると、監督及び制作会社はD. W. グリフィス、キャストはリリアン・ギッシュ、制作年は1927年以前、主人公の名前がアンナとサンダーソンである。この情報を総合してデータベースで作品名を確認してみよう。当然この映画の後半部に、主人公デイヴィッドが恋人のアンナを救出する有名な場面があるから、簡単にグリフィスの1920年の作品『東への道 Way Down East』であることがわかる。ではもう一つの例の場合はどうだろう。こちらはフランク・ボーゼージが1915年に制作した短編映画の一場面で、親切に中間字幕に監督と制作会社、題名の情報が全て収められている。こちらはどうだろう。このシーンの中間字幕を見るとJ.&G.というロゴがあるが、これはジョンソン・アンド・ギブソンというオーストラリアの映画会社で、IMDBを検索すればこの会社のフィルモグラフィーを参照できる。中間字幕に主人公の名前がネッド・ケリーとなっている。いくつかの情報から、この映画が1906年にオーストラリアで製作された『ケリー・ギャングの物語』であることが確認できる。
上記の例はマシな方だ。実は、無声映画時代の多くの作品は、題名が不明な短編だけではなく、海外配給のために様々なバージョンで製作された。ある時、イタリア語の中間字幕が入った短編映画を引き受けたのだが、字幕には当時有名だったロン・チェイニーの名前があり、彼が出演した映画をわざわざ検索したことがあった。しかし本編を何度見返しても、その俳優が見当たらない。理由は、観客の注目を引くために有名俳優の名前をクレジット上にこっそり載せてしまったからであった。主人公の名前も国によって変わるし、内容も上映する国の趣向によって変えられたりもする。題目は言うまでもない。染色や調色のような様々な着色法があり、同じシーンでもある地域では白黒で、ある地域ではセピア調を帯びているような場合もある。ニュース映画だと、画面上のあらゆる情報を集めて製作年を推定するのが最善の方法である場合が多い。写真資料の場合、出処を割り出すのがさらに困難である。まず、分かり易い例を見てみよう。中央に写る看板に、聖峰映画園(ソンボン映画園)と記されており、容易に制作会社を割り出すことができる。聖峰映画園は、俳優のワン・ピョン、ムン・イェボン、企画者のホン・チャンなどが集い立ち上げた映画会社で、『ナグネ(旅人)』(1937 イ・ギュファン監督)、『グニョンリョルチャ(軍用列車)』(1938 ソ・ グァンジェ監督)の2作品を制作した。写真にはキム・インギュ、ドク・ウンギ、ムン・イェボン、ワン・ピョンの姿を確認できるし、ワン・ピョンの服装から『軍用列車』の現場写真であることがわかる。別の写真を見ると漢陽映画という制作会社のロゴがある。漢陽映画社は 1935年『カンコンノマウル(対岸の村)』(ナ・ウンギュ監督)を製作し、1942年『シンゲジ(新開地)』(ユン・ボンチュン監督)まで6作品を制作したが、残念ながら私はこの写真の俳優たちを知らないので、題名がわからない。
このように資料に隠れている情報の破片を一つ一つ取り出し繋ぎ合わせることで、映画の正体が明らかになるのである。しかしこの作業は、米国のTVドラマで犯人を確実に暴き出すような単純明快なものではない。それでもこの作業に対して未だに興味津々であるのだから、フィルムアーカイブで働くことが私の運命なのかもしれない。
2007年に東京で開かれたFIAF会議のシンポジウムとワークショップは、非常に興味深いものであった。4月7日〜8日の2日間にわたり、東京国立近代美術館フィルムセンターの大ホールで開催されたシンポジウムは、「短命映画規格の保存学的研究」というテーマで行われた。映画史は主に、「正典」とみなされるような作品と作家と称されるような監督たち、そしてハリウッドを中心に扱っており、映画に関心を持つ人々は、観客による映画とそのスタイルの解釈や、映画産業に関する話題を好んでいる。映画は感光性を持つフィルムという物質に始まり、損傷を受けやすいので細心の注意を払う必要がある、などということが話題になるのは珍しい。映画をみるということは、セルロースフィルムの上に光を当て、撮影したイメージを現像し、焼き付けによって作成されたプリントをスクリーン上に投射するまでの全プロセスを意味するのだ。しかし、技術的な観点から映画の話をするにしても、議論の中心となるのは標準規格である。利用価値のない規格は、発明されても映画産業の現場からは忘れられていく運命であり、これは当然の帰結なのかもしれない。
一般の人々とは違い、過去の痕跡を残すすべてのものを保存するフィルムアーキビストは、一時的に存在しただけのあらゆる映画規格を集め、保存し、研究する必要がある。フィルムに記録されたイメージだけでなく、その媒体自体の歴史が重要なのだ。例えば、Aという作品が9.5mmフィルムで制作されたのであれば、その映画は9.5mmの規格で保存されなければならない。Aという作品を35mmにブローアップしたり、DVDで鑑賞したりすることがあっても、その映画の内容は一般の観客にとって何ら変わりがないとも言える。しかしフィルムアーキビストにとっては、媒体の中に記録されている内容だけではなく、媒体そのものが、そしてその規格を通して観客に与える特別な経験こそが重要なのである。東京でのシンポジウムにおける映画フィルムの多様な短命規格に関する研究発表は、フィルムアーキビストの使命を再認識させてくれる場であった。
画像:ステレオスコープ
では、全世界の映画フィルムの短命規格の幾つかに言及しよう。まず、1960年代前半にイタリアで使用され、韓国でも1970年代に生フィルムを節約するために使用されたテクニスコープがある(韓国では1つのイメージあたり半フレームを使用したことから、ハーフフィルムと呼ばれた)。つまり、フィルムの1フレームを二等分して2つのイメージを入れた規格だ。フィルムを節約できるが、イメージの解像度は落ちる。カラーフィルムが登場する前には白黒フィルムを用いた多様なカラープロセスが考案されたが、香港の手彩色は、アクション映画の場面の中で、神秘的な力を表現するために利用されたとされる。1970年代〜1990年代まで日本の科学博物館やテーマパークで使用されたワイドスクリーンには、8つのビスタビジョン映画の同時上映、3D映画、360度の全天式スクリーンなど巨大なスクリーン規格などがある。特注のフィルム、映写機、上映施設が必要であるため短期間しか存続できなかったが、このスクリーン規格のために当代の錚々たる監督である市川崑、勅使河原宏、押井守などが映画を製作した。1930年代中盤、日本で家庭用に生産された紙フィルムやゾートロープを使ったベビートーキーもある。ベビートーキーとは、蓄音機の上にスチル製のゾートロープを置くもので、レコード盤が回ると音楽が流れ、紙種(ストリップ)のイメージが動いているように見える。19世紀前半から20世紀初頭まで日本で流行した幻灯ショーである写し絵の場合には、数人が「風呂」と呼ばれる移動用の幻灯を持って歩き、イメージをスクリーンに投射し、物語を作っていく。西洋のマジックランタンが固定した一つの幻灯であるならば、日本の写し絵は、複数の幻灯を利用して多様なキャラクターとイメージを作るため、物語がさらに多彩である。
画像(上):写し絵、(下):マジックランタン
2007年4月、あるビジネス誌に「商品の寿命は3週間である」という見出しの記事を見つけた。映画産業の産物である映画規格も例外ではない。つまり、短期間だけ存在した無数の映画規格をどのように発掘、保存、復元するのかという課題が、フィルムアーキスビストに課されているのである。
映画に対する愛の深さを段階に分けて、その最終段階は映画を撮ることだと言う人がいた。想像力も才能もなく、幼い頃から美術の時間を嫌っていた私は、いくら映画を好きと言えど、この段階に踏み入れることはできないと悟り、いつからか自分の究極的な目標として、映画の起源を見つけることになった。そうした理由から、初期の映画だけではなく、映画が発明される前の人々の想像力を刺激した視覚的な玩具が、私の大きな関心事となったのである。そんな中、ある日のことイタリアのジェモナから来たフィルムアーキビストが、我々の博物館のプレシネマをテーマにした企画展「オールアバウト・ムービングイメージ」を観覧した後、トリノ映画博物館にはこの数十倍の展示館があるのだと教えてくれた。「ほお!トリノ映画博物館!」
画像:トリノ映画博物館
というわけで、博物館担当でチーム最年少のムンさんと共にイタリア行きの飛行機に乗った。複数の都市を跨る列車に乗り、トリノに到着。先方が用意してくれたホテルを探して、『トリノ、24時からの恋人たち』(2004年 デヴィデ・フェラーリオ監督)の舞台になった街を1時間半程彷徨った。やっとの思いでホテルを見つけたときは、既に深夜の12時半をまわっていた。「はー、観光も楽じゃないわね」。
FIAF会議のときにお会いしたルカ・ジュリアーニさんは休暇中であったため、代わりにアルベルト・バルベラ館長とドナタ・ ペゼンティ・カンピオーニ主席キュレーターにお会いしたのだが、よく見るとアルベルト館長は、『トリノ、24時からの恋人たち』の中でマルティーノが博物館をやめると言ったときに登場したおじさんではないか!近所のおじさんのような館長に博物館を口が渇くほど賞賛すると、気分を良くしたのか、今後KOFAと一緒に仕事する機会があればいいねとおっしゃった。すぐにでも、韓国古典映画をそちらのシネマテークで上映してほしいと願い出たところ、プログラマーを紹介するから掛け合ってみるようにとのことだった。ミーティングを終え、キュレーターのドナタさんが、私たちを引き連れ、展示室に入ってあれこれ説明して下さったが、博物館の構成に深く関わったせいか、興奮して2時間以上経っても説明は終わらなかった。しかし、映画博物館は2時間の説明では足りないくらい美しく、まるで魔術のような空間であった。天井に俳優たちの姿が投射され、もの悲しい音楽が流れたとき、私は思わす驚嘆の声をあげた。「God, it is so beautiful!」。
画像:影絵の展示と、著者に同行したKOFA職員のムンさん
しかしこれは、映画が発明される直前の時間の痕跡を求めて、イタリアを訪れた私たちの任務を完遂させた場所でもあり、映画の考古学とも呼べる空間でもあった。赤いカーテンを開け中へ入ると、白いカーテンが張られた迷路のような空間が現れるのだが、この白いカーテンに独特な人形たちの影が映っている。中国の漢時代に端を発する影絵遊び劇場は、18世紀後半にヨーロッパで人気を博した。白いスクリーンに投射された人形の影によって、物語が構成される。影絵遊び劇場の通路を伝って中へ入ると、大きな空間が現れ、左側には『トリノ、24時からの恋人たち』でアマンダとマルティーノが楽しんだカメラオブスキュラが、右側には多様な視覚玩具がそれぞれ展示されている。暗い部屋という意味のカメラオブスキュラは、カメラの基本原理を利用した装置である。暗い箱の中に小さな穴を開けると、光によって箱の外にあるものが、箱の中で逆さに映るのである。現在、KOFAの映画博物館の展示室でも、この暗い部屋を設置している。15世紀から19世紀までの光学(光)と医学(視覚)を土台として作られた視覚玩具の発展過程を見せてくれる視覚装置の展示は、いくつもの部屋で構成され、まさにあらゆるものが集められていたのである。
私とムンさんは、風雨でーイタリアに滞在した1週間雨続きで、あるときには強風に加え雷まで鳴っていたーかじかんだ手で膝をついてハンス・カストロフのように装置を一つ一つ入念に見ていった。
19世紀、人々の世界に対する関心が大きくなるにつれ、富裕層の世界一周旅行が始まった。しかし、全ての人が旅行に行けたわけではないため、疑似体験によって欲求を満たすための、あらゆる視覚玩具が発明された。そのうちの一つがカイザーパノラマであった。レンズを通して小さな箱の中、もしくは大きな部屋の立体効果を帯びた世界各国の光景を鑑賞するための装置である。この装置を通じて人々はアフリカ、北米、南米、欧米など、安くて快適な「世界旅行」にでかけることができた。しばしばこのパノラマは光を利用して、昼と夜を演出したりも した。一定の時間が過ぎると、光が変化して建物の窓辺と湖畔の街灯などに様々な色の灯りが灯るのである。
この他にも、一連の絵が描かれた帯を箱の中に入れて器具を回し、箱の穴を通じて動くイメージを観ることのできるプラキシノスコープ、ゾートロープ、フェナキストスコープなどの玩具が流行した。また、中年男性のためのエロティックな視覚装置も発明された。半裸もしくは 全裸で赤裸裸にポーズをとる女性をレンズを通して観るのである。トリノ映画博物館において、この18禁の赤い部屋では客足が途絶えることがなかったそうだ。本当に昔も今も男は変わらないわね。
画像(上):カイザーパノラマ、画像(下):ゾートロープ
この視覚玩具の部屋は、マジックランタンの部屋とつながっている。片側の壁に5台のほ かのマジックランタンの美しい映像が映るこの部屋は、光とイメージの魔術の試験場であった し、壁面を覆うような全種類のマジックランタンとスライドは、その量で私たちを圧倒した。
ああ、私もやはりマルセルのようにこのすばらしい、そしてこの驚くほどたくさんの幻燈に 大きな魅力を感じているのだわ。そんなことを考えながらため息をついた。「一つだけでもくれないかしら」。
マジックランタンの部屋から出ると、映画発明される直前のエドワード・マイブリッジとマレーの映像を鑑賞できる大きな部屋へ導かれ、その部屋の横にはエジソンのキネストスコープが3台ーこれも1台もらえないかしらー設置されており、「蝶の舞」を鑑賞することができる。そして最後の部屋はリュミエールのシネマトグラフの部屋。1895年 12月28日、パリのグランカフェで一般の観客にお目見えした『ラ・シオタ駅への列車の到着』が上映されていた。微笑ましいのは、この映画が終わってスクリーンが脇へ納められると、突然滑稽な列車が出てくることであった。私もあのときの観客と同じように叫びそうになった。「あら、びっくり!」。
画像:エジソンのキネトスコープを覗く筆者
館長によると、約2万点の映画装置を所蔵するこのトリノ映画博物館は、シネマテーク・フランセーズとともにプレシネマ展示を翌年の2010年3月まで開催した後、巡回展示を行う予定だそうだ。いくら考えても、300坪の韓国映像資料館(KOFA)の中の30坪の企画展示空間の中に、この展示を誘致するのは並大抵のことではなさそうだ。
シネマは西洋の産物であるから、その痕跡を求めてまる一日を費やし、海を越え山を越えてここまでやってきたが、19世紀末の西洋の観客たちの経験と20世紀初頭の李氏朝鮮の観客たちのそれと何が違うのかと考えてみたところ、とりわけ違いはなさそうだった。
*1 原訳:トーマス・マン, <魔の山 Der Zauberberg >, 上巻, ホン・ギョンホ訳, 汎友社 1987,106 ページ. 邦訳:トーマス・マン, <魔の山 Der Zauberberg >, トーマス・マン全集 3, 高橋義孝 訳, 新潮社, 1972, 99 ページ.
*2 原訳:ヴァルター・ベンヤミン, <ベルリンの幼年時代 Berliner Kindheit um Neuzehnhundert >, ユン・ ミエ 訳, 図書出版 キル, 2007, 43 ページ. 邦訳:ヴァルター・ベンヤミン, <ヴァルター・ベンヤミン著作集 12 >, 編集解説 小寺昭次郎, 晶文社, 1971, 15 ページ.
*3 原訳:マルセル・プルースト, <失われた時間を求めて>, キム・インファン訳, 学園社, 1984, 23-24 ページ. 邦訳:マルセル・プルースト, <失われた時間を求めて 1 >, 淀野隆三 井上究一郎 訳, 新潮社, 1974, 14-15 ページ.
*4 原訳:トーマス・マン, <魔の山 Der Zauberberg >, 上巻, ホン・ギョンホ訳, 汎友社 1987,363 ページ. 邦訳:トーマス・マン, <トーマス・マン全集 3 >, 高橋義孝 訳, 新潮社, 1972, 344 ページ.
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