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光影流年―アジアの映画保存/ Film Archiving in ASIA

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光影流年―アジアの映画保存

お隣の国、中国や台湾では最近古い映画の見直しとデジタル化が進んでいますが、その関連ニュースの和訳を抜粋してお届けします。「光影流年」とは過ぎ去りし日、時間という意味ですが、光と影=映画の二大要素が入っており、古い映画のことを取り上げるのでこの言葉を使うことにしました。アジアの映画保存事情の一端を知っていただけると幸いです。(天野園子)

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第18回 タイムトンネルから引き揚げられた映画の記憶

「人民日報」2015年10月7日より

中国でも映画復元の分野で若者が頑張っています。今回は、中国の国立フィルムアーカイブ「中国電影資料館」で記録映画のデジタル修復に携わる若きスタッフたちの声が聞ける記事です。

2014年以降、中国電影資料館(China Film Archive、以下「CFA」)のスタッフはCFAが所蔵する500本余りの抗日戦争の記録映画をデジタルスキャンした。その内、284本から抜き出した13.3万フレームを念入りにデジタル修復し、最終的には95分の新たなドキュメンタリー『燃焼的影像〔燃え盛る映像〕』を完成させた。

半年のあいだ、この平均年齢わずか24歳の修復担当チームは不眠不休だった。2015年9月18日、CFAの劇場で自分たちが修復した映画がはっきりとスクリーンに映し出されたのを目にして、彼らはようやく緊張から解き放たれた。

100万回のクリックで歴史の窓を開く

今回、デジタル修復を主導した王ジョウさんは率直に「本当に疲れた」と話す。彼のチームは3カ月かけて18万コマの画に細かい〔パラ消しやガタツキ補正等の〕デジタル修復を施した。1人の1日当たりの作業量は平均1万から2万コマ。また、作業は朝9時から夜10時までずっと続き、徹夜貫徹も当たり前。そのような時は多くのスタッフが腹をくくり、作業室で夜を明かした。
王さんは、この500本の抗日記録映画のオリジナル・フィルムに多くの問題があったと話す。ノイズが多く、傷もひどい。画面は常にちらつき、鑑賞に耐えられない。他にも、フィルムごとに色調や濃度が違った。

当初、彼らはデジタルスキャナでオリジナル・フィルムを処理し、デジタル化していった。しかしオリジナルそのものに褪色や変形、亀裂などがあったため、スキャン終了後にも依然として様々な問題が残り、ここから更に修復を進める必要があった。

実際には、最も面倒な作業工程がここからスタートしたのだ。チームはデジタル化された映像を1コマずつ修復しなければならない。通常は1フレーム30クリック、1人が毎日修復するのはおよそ3000コマ。ということは毎日9万回余り、マウスをクリックしなければならない。しかし『燃焼的影像』の作業量は、れより遥かに多かった。

映画復元ラボのスタッフ、張騫月さんは「当時は各コマに必要なクリック数なんて数えきれなかった」と話す。「『燃焼的影像』は他の映画と比べて、作業量以外にも内容が違った」と張さんは付け加えた。彼女が以前に復元したのはすべて劇映画で、一種の平和的な心理描写が人物の造詣に反映されていた。しかし、今回のドキュメンタリーは心を重苦しくさせるものだった。最も印象に残っているのは廃墟に座り、怖ろしさに満ちた目で砲火が続く世界を見ている4、5歳の男の子。1発の爆弾がその子の命を終わらせるかもしれないという情景である。張さんだけでなく、他の多くのメンバーも画面に映る残忍な映像を見て涙を流しながら作業を進めた。王さんいわく『燃焼的影像』は10本ある、生々しい歴史の授業と同じものだ。夜な夜な修復作業に携わったメンバーに本当の意味での歴史を知るための窓口を提供した映像に、王さんは「自分たちの仕事にいいね!を送りたい気分です」と語った。

復元中のある「偶然」が中国映画史を変えた

4年前に復元した白黒の無声映画『ネズミと蛙』を思い出しながら張さんは話した。「『ネズミと蛙』は、冒頭3分間が実写になっています。先生が授業を行っている画面が突然アニメに切り替わるのです」

スタッフがフィルムを整理していた際、偶然にも1931年に撮影、製作された『ネズミと蛙』のアニメ部分が見つかった。意外にも、それは中国映画史を書き換える発見だった。『ネズミと蛙』は中国に現存する実写場面を含む、最も古いアニメ映画だったのである。

しかし、2011年にスタッフが発見した時、この映画のフィルムベースは大変傷んでおり、急いで救う必要があった。フィルムはデジタルスキャンされたが、画面中の背景が完全に表現されず、スタッフは手描きで絵を描く手法をとった。まず、背景のベースを作り、各フレームの人物や動物を取り出して、これらを手描きの背景に置くという方法だ。最終的に復元された画面には、ほとんどノイズやちらつきが無くなった。

今回の復元で王さんは、「修旧如旧(オリジナルのままに修復する)」という重要な原則を繰り返し強調した。「我々は背景の絵を手描きしましたが、これらは完全にオリジナルに基づくものです」と彼は話す。この「オリジナルのままに復元する」過程で、チームは鑑賞性を保証すると同時に、人物の髪の毛1本1本もはっきりと見えるようなフィルム映画の立体感に注意しなければならなかった。

『本命年』〔邦題『黒い雪の年』、1990年ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞〕を復元する際、CFAは監督の謝飛氏を招いた。オリジナルの味わいを残すため、当時の創作の意図に基づいて作品の風格を残した。『本命年』に限らず、CFAは常に監督やプロデューサーを映画復元に参加させる。「現在、修復スタッフの多くは「90後」〔1990年代以降に生まれた若者〕で、昔の映画の作り方や当時の考え方をよく知らないのです。だから、昔の映画人たちの考えを聞くことはとても重要です」と王さんは解説した。

張さんは『智取威虎山』〔1969年制作の映画〕を復元し、品質チェックを担当する上司に見せた。上司と何度も話し合いを重ね、公開当時の上映の様子が分かり、画面での映り方が最終的に完成した。こうした話し合いや相談を重ね、王さんのチームは『神女(女神)』(1934年)、『小城之春(田舎町の春)』(1948年)、『永不消逝的電波(永遠に消えない電波)』(1958年)など一連のクラシック映画の復元に成功した。

中国映画初期のクラシック作品、例えば『八千里路雲和月(八千里の雲と月)』〔1947年〕や『鶏毛信(小さな密使)』(1954年)等が作られた時代は制作技術が未発達だったものの、その優れた芸術的表現力は現在の映画界が参考すべきものであり、また、こうしたフィルムはある時期の国や民族の生活様式を表しており、将来の歴史や文化研究に重要な意味を持つ」とCFAのスタッフは紹介する。

王さんのチームにしてみれば、映画復元とは中国映画史を復元すること、さらには民族の記憶を映画という方法で表現することなのだ。

後世の人に100年前の映像を見せられたら、この仕事はとても光栄

1本の映画を復元するためには、映画を何回見る必要があるのか。この問いに答えるため、張さんがざっと計算すると、内容を把握してから最終チェックを経て評価を下すまでに平均して15回はみなければならない。「優れた監督が苦心し、心血を注いで作った映画フィルムがダメージを受けていると心が痛みます」、「デジタル修復は単調な作業の連続ですが、夢中になります」と張さんは語る。毎回、自分がデジタル修復した映画が品質チェックを受ける時、彼女は異常なほど興奮するのだそうだ。「100年後を考えて、後世の人が過去の映画を見ることができるなら、私はこの仕事をとても誇らしく思います」。

収入は高くないが、王のチームは相変わらず疲れを知らない。「僕らは毎日8時間の仕事で2本の指しか動かしていませんよ」、と冗談めかして話す彼らだが、映画復元をすでに立派な事業にしている。

30歳になる王さんの最も大きな願いは、家を買うことでも車を買うことでもない。「生きている間にもっと多くの人に中国の古い映画をみてもらうこと」なのだそうだ。また張さんも自らの生活に対する物質的な欲求は低く、「チームがもっとプロフェッショナルになることを願っている」と堅実だ。(了)

出典:https://www.sohu.com/a/34450066_114812

映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.122(2015.10.30)より

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  • 第17回 絵画の修復以上に切迫するのは、古い台湾映画の復元

    台湾のビジネス誌『遠見』2015年8月31日より、記者:王美珍

    今回は台湾の映画修復について、台湾のビジネス誌「遠見」に掲載されたコラムを取り上げます。台湾で「国宝クラス」と呼ばれ、1970年代から80年代にかけて大変な人気を博した歌手、鳳飛飛(ホァン・フェイフェイ)の映画復元をめぐる内容です。

    ある男の子が展示されていた海外の絵画を誤って破ってしまったおかげで、「絵画修復」の仕事は全台湾の注目を集めた〔12歳の少年が美術展の会場で転倒して17世紀のイタリアの名画に穴を開けてしてしまった出来事を指す〕。しかし、多くの人は知らない。自国の文化的資産――歴史的意義が極めて高い古い台湾映画――が、時代とともに次第に劣化し、急ぎの救助を待っていることを。

    物語を2人の重要な人物から始めよう。1人はすでに逝去した往年の歌姫、鳳飛飛、もう1人は国際的に知られる台湾の映画監督、侯孝賢だ。

    先週、私は「国家電影中心」〔台湾の国立フィルムアーカイブ〕が開催した『秋蓮』の復元資金募集の記者会見に出席した。1979年に撮影され、侯孝賢が脚本を担当した映画だ。公開から長い時代が経ち、このフィルムのプリントには傷やひどい褪色、パーフォレーションが壊れている等の問題が出ている。

    映画、それは教科書より鮮明な歴史の記録

    記者会見の当日、カンヌ国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した1980年の侯孝賢初監督作品で、鳳飛飛と鐘鎭濤(ケニー・ビー)が共演した『就是溜溜的她(ステキな彼女)』が上映された。鑑賞中、多くの参加者がみな驚き、興奮した。鳳飛飛が友達と会う場所は、もう取り壊されてしまった台北の老圓山動物園で、映画に出てくるゾウの林旺(リンワン)は多くの台湾人にとって大切な思い出だ。まさか、映画がそれらをすべて留めているとは。

    ストーリー以外にも、この映画が貴重なのは歴史の流れとともにある台湾の生活スタイルを、教科書よりも鮮明な歴史的記録として残していることだ。とりわけ、侯孝賢の初期作品にはそれが顕著だ。『風櫃の少年』の澎湖(ほうこ)の漁村の様子、『少年』の淡水の眷村(けんそん)〔外省人が居住する地区〕、『童年往事 時の流れ』の鳳山(ほうざん)の古い駅……こうした台湾にかつてあった景観はすべて失われてしまった。

    映画の中のスターも、台湾社会における集団的歴史の重要な一部分だ。なぜ鳳飛飛は尊敬されるのか。彼女は1970年代の台湾のどのような心を体現しているのだろうか。

    「映像の記録は何代にも渡って伝えられる。もし、鳳飛飛の映像が新たにデジタル化されれば、次世代の若者は若くて美しい鳳飛飛を目にすることができる。それがどんなに意義があることか!」。鳳学読書会〔鳳飛飛ファンクラブ〕会長の陳文文さんはそう語る。

    国内で復元を待つ映画は100本、しかし企業の支援は少なく

    歴史を重視する国家は、映画保存も重視しなければいけない。しかし多くの人は、台湾の初期映画作品の保存が現在極めて大きな危機にあることを知らない。

    台湾は島しょ型気候で湿度が高い。初期の映画はすべてフィルムで撮影されたためカビが生えやすく、その寿命を大幅に縮めている。その上、上映する度に物質的な損傷が起こり、プリントのキズは避けられない。長い間放置すればさらに深刻なビネガーシンドローム―フィルムが化学変化を起こして酸っぱい匂いを放つ―可能性もある。その場合もし大量のフィルムが同じ空間に置いてあれば互いに感染してフィルムの劣化を更に進めてしまう。

    フィルムの復元には、パラ消し、色補正、音声処理などデジタル修復の多くの段階が必要だ。35mmフィルムは1秒24コマで成り立ち、1分間に1440コマ。120分の映画を例に取ると、デジタル修復のスタッフは17万2800コマを1コマずつ処理しなければならない。そこに投入するマンパワー、精神力、消費する時間と予算は膨大なもので、1本の映画フィルムをデジタル化するのに少なくとも300万元〔約5000万円〕の経費がかかる。

    しかし、国家電影中心の1年間の運営予算はわずか3600万元〔約6億円〕で、台湾より規模の小さい香港電影資料館の運営予算はその4、5倍にも上ると同中心の執行長、林文淇さんは明かした。そのため、1年にわずか4、5本の映画しか復元できないという。しかし、新北市樹北にある10棟のフィルム倉庫には1万8000本の中国語映画があり、その中で復元を待つフィルムは100本に達する。

    古い映画を救うために、国家電影中心はかつて企業に対し募金を呼びかけた。映画の復元は台湾文化史の保存にとって大変重要だが、この考えは台湾国内に普及していない。企業のスポンサードには通常、メディアへの露出が求められ、企業イメージがプラスされることだが、古い映画の復元が社会的に重視されていないため、自ずと企業の意欲も高まらない。古い国産映画の復元に話が及んでも、多くの企業の回答は「企業イメージとの関連度が低いので、支援できないことをご容赦いただきたい」となってしまう。

    ベルギーが無償で侯孝賢の古い作品を修復――台湾は?

    こうした状況の中、国家電影中心がかつて資金を募った2作品の復元では、映画に関係した当事者が自腹を切るしかなかった。例えば、胡金銓(キン・フー)が1975年のカンヌ国際映画祭高等技術委員会グランプリ(これは台湾映画が最初に獲得した国際映画祭の賞)を受賞した『侠女』は、主演女優の徐楓(シュー・フォン)が510万元を寄付して復元にこぎ着けた。

    もう1本の鳳飛飛主演『春寒』は、国家電影中心がFlyingVというクラウドファンディングを通じて資金を募り、鳳学読書会の呼びかけによってファンによる募金で復元された。

    台湾映画の巨匠、侯孝賢の初期作品ですらもベルギー王立シネマテークが復元した。ベルギー王立シネマテークで侯孝賢レトロスペクティブの共同プロデューサーを務める王雅倫さんは「準備を進めて分かったのは中影〔台湾のセントラル・ピクチャー・コーポレーション〕が復元した『童年往事 時の流れ』と『恋恋風塵』以外の侯孝賢の初期の作品は、台北や東京、香港等に散逸しており、ネガフィルムの保存状況はどれも同じではなかった」と話す。

    このため2014年11月から、ベルギーが仲立ちして侯孝賢監督の映画を無償で復元し、これがベルギー王立シネマテーク設立以来の「ヨーロッパ映画以外」に行った初の復元となった。完全に無償ということは、ベルギーは映画芸術の価値に重きを置いていると見てよいだろう。

    意外にも海外の映画博物館は台湾映画の巨匠のフィルムを復元したいと考えて
    いる。では、台湾自身はどうか?現在、国家電影中心はFlyingVを通じて鳳飛飛の二作目となる映画『秋蓮』の復元に寄付を呼びかけている。最低でも200万元〔約3000万円〕の支援が必要だ。

    鳳飛飛は生涯にレコードを100枚以上リリースしたが、出演した映画はわずか6作品しかなく、これらの映画を復元することは台湾映画史にとって大変重要な意味を持つ。

    台湾はここ数年、「文化創造」の発展と「歴史」の重視を大きな声で呼びかけてきた。もしかすると、我々は古い映画の復元を重視するようになるかもしれない。将来、より多くの企業がスポンサーとして参加してもらいたいと思う。スポンサー費用を検討する時、一時的な影響力しかないメディア露出より、台湾の貴重な映画を守ることのほうが遥かに重要ではないか。それこそその影響力は永遠なのだから。(了)

    出典:http://www.gvm.com.tw/webonly_content_6150_1.html

    参考:FlyingV

    映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.121(2015.9.30)より

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  • 第16回 ここでかつて珠影のフィルム時代が現像された

    中国紙「南方都市報」(深セン)2015年7月27日より

    今回は中国・広州にある珠影=珠江電影制作廠(珠江映画製作所)の現像ライン終了に関する記事です。珠影は中国南部最大の映画製作所として1960年から数々の映画を制作してきた中国7大映画製作所の一つですが、ついに自前の現像業務を終了しました。写真特集もあわせてご覧ください。

    珠影現像所の建物2階に進むと、タイムトンネルに入ったようだった。

    ここでは1970年代のフィルム・アナライザーや、80年代の70mm映画用の磁気音声テープ塗装マシンを見ることができる。壁には「わずかな改善の累積が完璧な品質に出会う」という生産スローガンがまだ残っていた。廊下のもう一方には現像ラインの機械がまだブンブンと音を立て、ベテランのスタッフが手馴れた様子でフィルムを現像し、最後の当番に立ち会っていた。

    その昔、映画フィルム時代は、現場のクルーはすぐに画を見ることができず、まずネガフィルムを現像場のラインに送ってポジフィルムを作り、それを再び撮影現場に戻してやっと映像を目にすることができた。ラッシュフィルムが期待のレベルに達していれば、撮影チームはようやく次の現場に移ることができる。こうしたプロセスは非常に時間がかかり、早くても1週間、長い場合は半月が必要となり、一旦うまく撮れていないとわかれば再び撮影しなければいけなかった。

    現像ラインで鍛錬された技術は、映画フィルム時代の最も代表的なものだ。現像には前浴、現像、プリント、光の調整と確認、カラー・グレーディング等、技術的に34もの段階があり、大変複雑だ。

    珠影現像所は1959年に設立した。1980年代から90年代初頭が最も輝かしい時代であり、かつては1年に8-9本の映画、最も多い年では12本の映画を仕上げ、従業員は多い時で60人以上、フィルムが送られる機械は20-30台あったという。当時、作品ごとのプリント本数は800から1000あった。映画の上映時間が決まり、作成するプリント本数が決まると、現像ラインではにわかに緊張が高まったという。現像ラインは平日2交代制だったが、短時間の間に十分な量のコピーを作るため、時には3交代制がとられることもあった。

    生産量の拡大以外に珠影は技術改造も行った。一般的に昔の映画はすべて35mmフィルムで撮影されたが、珠影の研究開発スタッフは1988年に70mmの映画フィルムの現像・プリント設備を開発した。70mmは現在の巨大スクリーンIMAXに似たものであり、遊園地等で上映する特殊フィルムとして用いられ、当時、この技術は全国で唯一のものだったという。

    約5年前から映画の上映プリントはデジタルコピーに取って代わられた。それは、映画製作からネガフィルムの生産部分が無くなるということであり、映画産業から現像ラインが持つ作業が次第に消えることを意味する。かつて中国の7大映画製作所はすべて自前の現像ラインを持っていたが、現在もまだ生産を維持しているのは八一映画製作所のみとなった。

    今月末、珠影の現像ラインはすべて生産を停止する。古い現像場にある映画設備はすべて取り壊し、跡地は不動産として貸し出す。珠影集団は珠江電影博物館の建設を計画しており、「取り壊されたこれら大小の施設を使って、かつて映画産業の中にどのようなフィルムの時代があったのかを後世の人々に伝えたい」としている。(了)

    参考:以下リンクから当時の記事(2015年)と同じ現像所の写真特集が見られます。
    http://money.163.com/api/photoview/5BNT0025/20198.html#p=AVMRCVVB5BNT0025&from=tj_wide&from=tj_review

    映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.120(2015.8.31)より

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  • 第15回 フィルムのコマから忘れられた時を呼び起こす

    台湾の雑誌「経理人」2015年5月16日より

    台湾南部にある台南藝術大学は動的映像の復元に力を入れる大学です。過去にも日本統治時代の台湾を記録した映画を復元し、ネットで公開しています。今回はこの大学で指揮を執る井迎瑞氏にスポットをあてた記事を紹介します。

    台湾の記憶を保存する台南藝術大学の音像ビル(訳注:音像はオーディオビジュアルの意味)1階は外に開かれた「埠頭」だ。いつもトラックが接岸し、廃棄されたフィルムが何回かに分けて送られてくる。

    「これは数日前に入ってきたものです」入口に置かれた黒色のゴミ袋を拾い上げながら、台南藝術大学音像資料保存展示センターの井迎瑞主任(当時)が結ばれた口を緩めると、中から家庭用ビデオテープが現れた。「もし別の場所でビデオテープやフィルムが見つかったら私の所に持ってきて。絶対に捨てないように」と井さんは何度も念を押した。

    古いテープはホコリにまみれ、それを積んできた黒いゴミ袋と十分に「お似合い」だ。本来はリサイクルセンターに送られる物だが、井迎瑞にとっては宝物であり、そっと注意深く新たな袋を開け、念入りにケアをする。

    井さんの毎日の仕事は学生を伴って古いフィルムを探し出し、修復することだ。それらの時代が刻まれていることを期待し、いつか再び世に出るために。「フィルムは記憶の宮殿です。表象や内在的なもの、時代の精神を残しています」表象、それは人々が着ていた服装や生活環境であり、内在とは言葉の語調や行動、ふるまいである。また、監督による編集や音響効果は当時の観客が持っていた美学を表すなど、その時代すべての意識が含まれている。こうしたものはすべて文字や画像の貴重な史料り以上に、保護する価値は十分ある。

    うず高く積み上げられた一角のフィルムを指差しながら井さんは話す。「これらの9割は破損がひどく、ほとんどがもう見ることができないフィルムです。私たちはそれを1巻1巻検査します。なぜなら、やはり眠った宝が見つかるチャンスがあるからです」

    隣の作業エリアでは学生がフィルムについた土ぼこりや腐食した部分をきれいにしているところだった。もしフィルムがまだ上映できるとなれば、温度と湿度が保たれた倉庫にフィルムを送り、変質しないようにして保存できる期間を延ばし、余力がある時に再度復元するという。
    フィルムを修復する専門エリアはさながら病院の手術室のようだ。フィルムを修復する人は執刀する「医者」のように作業着と手袋を身につけ、視力と手先を頼りに、用心しながら作業台に置かれた「患者」──フィルム──を治療していく。

    修復スタッフは息をこらして注意しながら親指と人差し指でフィルムの縁をなぞり、パーフォレーションに破損があるかどうか、を感覚で判断する。同時に、リワインダーで一コマずつフィルムをたぐりながら破損した箇所を見つけ、欠損した部分は他のフィルムとフィルムをつなぎ合わせて「縫合」し、フィルムに欠損が無い状態にまで回復させ、完成となる。

    もしフィルムの後ろ部分にねじれや変形があった場合は判読不可能だ。修復スタッフは細心の注意をはらって同じ映画のいろいろなコピーフィルムと見比べながら切り貼りし、組み合わせて、完全な状態にしてからフィルムを現像所に送り、コピーを作ってやっと上映可能な新しいフィルムが出来上がる。

    こうした「ハンドメイドのつくろい」に加え、井さんはデジタル修復チームも立ち上げた。フィルムをスキャニングしてデジタルデータに落とし、映像ソフトを使って再度画面に手を入れていく。この作業は写真の修復と似ているが、映画1本には数多くの画面が集合しているため、修復する作業スタッフはじっと我慢し、目のかすみという苦痛にも耐えながら1枚ずつ修正し、前後の明度や色調が一致するよう注意しなければならない。

    昨年、井さんは学生と共に台湾映画史では初の35ミリ台湾語フィルム『王宝釧と薛平貴』(1955年製作)のコピーフィルムを探し出した。この台湾語フィルムを思い出して井さんは「意外にも客家語で、音楽もやはり客家風でした」と笑いながら話す。最初は驚いたものの、比べようもない喜びを感じたという。「これは映画史に記録がないものですが、福建と客家が共生していたという証拠です。民族グループが融合する過程を新たに見直すものでしょう」

    1980年代末、井さんは世新専校(世新大学の前身)放送テレビ学科で教えており、過去の台湾映画が記録保存されておらず、また古い映画館が次々に無くなっていくのを見て「多くの物が歴史に組み込まれていく、今救わなければもう無くなってしまう」と感じた。当時、台湾では似たようなことをする人はおらず、関連する法律も不足していた。だが井さんは前例が無いからといって諦めず、却って開拓者となる決心を固めて台湾の動的映像資料の保護に乗り出した。

    1989年、井さんは国家電影資料館の館長となり、資料館の地位を「金馬賞(台湾で最も権威ある映画賞)の準備、映画文化の紹介」から「動的映像遺産の保存、台湾映画史料の整理」へと変えた。ここから台湾の映画保存事業は始まり、古い映画のために奮闘するという彼の一生の起点となった。

    その後、フィルム工場や映画館の廃業を聞きつけると、一も二もなく現場へと駆けつけ、倉庫やがれきの中から腐食したフィルムを掘り出し、また辺鄙な場所でリサイクルセンターを見るとまずフィルムのような長いものやスチールの缶がないか、辺りを見回す。また、海外に飛び出して台湾に関連する映画の原版を捜し求め、1巻ずつ買って帰る。各国のフィルムアーカイブやコレクターと連絡を取り合い、彼らが東洋の資料を所有していたらそれを東洋の観客に返してもらえるよう説得する。

    館長を務めた8年間、井さんは1万本に近い台湾語映画と、過去の台湾のニュースフィルムを探し出した。それらはすべて電影資料館に収蔵され、歴史、芸術あるいは映画研究の重要な文献となっている。館長の身分はすでに辞したが、教職に戻ってからも彼はその志を変えることなく、古いフィルムを救うべく学生を伴い、少しずつ拾い集め、台湾の記憶を守り続けている。

    映像の修復と保存は、古跡を保護することと同じだ。効果を計ることは難しいが、井さんは「歴史は失われない。これはすべての民族の伝言だ」と考えている。今のちょっとの努力が50年後の台湾を残し、保存資料があれば自身がどこから来たのかをたぐることができると、私たちも信じるほかない。(了)

    出典:http://news.ltn.com.tw/news/local/paper/854913

    参考:國立台南藝術大学 音像記録與影像維護研究所(Graduate Institute of Studies in Documentary & Film Archiving)(中国語、英語)

    映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.119(2015.7.31)より

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  • 第14回 イタリアの映画復元会社がアジアに拠点を開設

    「香港政府新聞網 新聞公報」2015年6月12日より

    今回はいつものニュースとは違い、香港政府のプレスリリースからお送りします。イタリアの映画復元会社が香港に拠点を構えたというニュースです。デジタル化と今後の新興エリアであるアジアを見据えた戦略が背景にあります。

    L’Immagine Ritrovata(中国語名「博亞電影修復所」)は本日(2015年6月12日)、香港で初となる海外事務所を開設した。アジア地域で増え続ける需要にあわせ、アジアにおける映画復元サービスを香港を拠点に拡大する。

    博亞電影修復所は1992年にボローニャで設立。全世界で唯一の(ママ)35ミリ、16ミリ映画を専門的に復元・保存する企業であり、これらの映画をデジタルアーカイブしている。同社ディレクターのダビデ・ポッジ(Davide Pozzi)氏によると、香港の持つ地理的優位性から同社はアジアの顧客に直接アクセスできるとしている。

    ポッジ氏は「新しいデジタル技術が出現するにつれて、映画も次第にデジタル形式でリリースされている。クラシック映画のデジタル化も増加中だ。アジアにおける映画専門の復元ラボが足りないことや、博亞電影修復所が過去にアジアで培ってきた豊富な経験も加えて、香港での開設を決定した」と語った。(了)

    出典:http://www.info.gov.hk/gia/general/201506/12/P201506120360.htm

    参考:博亞電影修復所を取材した別媒体(香港のメディアです)のリンクです。写真が多いので様子がわかるかと存じます。

    映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.118(2015.6.30)より

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  • 第13回 台北初の野外映画劇場が取り壊しへ

    「自由時報」2015年4月28日より

    台北の古い映画館、社子大劇院が2015月5月に取り壊されました。台北は投資目的の不動産購入熱もあり、地価が高騰しています。その影響もあるのでしょうか。

    台北市で最初の野外劇場は社子地区にある「社子露天大劇院」だ。社子の人々に30年連れ添ってきた劇院は、テレビの普及やシネコンチェーンの台頭により1996年に閉鎖し、社子の盛衰の証人であるこの劇場は消滅した。人々は2015年3月に社子大劇院の復活に向けた活動を始めたが、近く再開発が行われることになり、来月には取り壊されて新しいビルが建つことになる。「救えなかった」この社子露天劇院に人々は残念な思いを抱いている。

    士林区永倫里長の宋旭曜さんはこの劇院の経営者の息子だ。子供の頃から劇場との間を行ったり来たりし、モノクロ映画からカラー映画まで観てきたという。宋さんは社子劇院の一部始終を話してくれた。この劇場は父親がある人と共同で始めたもので、1965年2月に始めた頃はたった1枚の布製の幕に竹製の垣根で囲んだ空き地があるだけで、板敷きの床を敷いて映画を観ていたという。

    「固定の建物ではなく、屋根も無かった。これが台北市で最初の、そして唯一の野外劇場でした」と宋旭曜さんは思い出しながらそう語った。当時、劇院は社子で最も賑やかな場所だった。近くには多くの工場や住宅があり、夜になると皆が劇院に映画を観にやって来るとても賑やかな場所で、黒山の人だかりができた。劇院は満員で500人が座れたという。開業してから3年が経つ頃、観客からの希望で半露天の劇場に改装し、その後2階部分を増築して屋根をつけ、正式に現代的な娯楽スペースとなった。

    「幸せは常にあるものではないと本当に思います」と宋さんは語った。1980年代にはビデオの隆盛とテレビの普及が劇場に取って変わった。時代の流れに合わせて上映回数を増やすなどしたが、やはり営業停止の運命を止めることはできなかった。宋さんは、最後に上映された映画は香港の『慈禧秘密生活』(1995年公開)だと話す。そのポスターは今でもチケット売り場に貼られている。劇院を救う活動の発起人、林さんは社子地区の出身で、特に強い思い入れがある。林さんは、この劇場は自分の成長に寄り添い、荒れ果てていくのを見るにつれてとても名残惜しく、今でも取り壊しについては残念だと林さんは話す。

    再開発を進める建設会社によると、社子劇院は5月中に取り壊されるが、その歴史を残すため会社側は劇院の映写技師やスタッフにインタビューして記録映画を作り、社子地区の文化的記憶として将来の地区管理委員会や当地の住民に提供する予定だという。(了)

    出典:http://news.ltn.com.tw/news/local/paper/875580

    参考:劇院の取り壊しに関するニュースが見られます(2019年3月15日確認)。劇場支配人のご子息、宋旭曜さんも取材に答えています。

    https://youtu.be/I6OFULj_Rd8

    映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.117(2015.4.30)より

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  • 第12回 広東語映画が記録する香港歴史の空白

    「星島日報」2015年3月4日より

    アジア映画の中心地、香港では広東語、英語、華語(普通話)等さまざまな言語が飛び交う街ですが、やはり広東語がメインです。昔作られた広東語映画は今どのような状況にあるのか。その一端をお伝えします。

    星島日報の紙面

    星島日報の紙面

    先日、亜洲電視〔訳注:Asia Television、香港の民間テレビ局〕が財政問題から売りに出した600本近くの広東語、普通話の長編映画は同業者のテレビ局が購入したほか、一部は謎のコレクターによって購入され、香港電影資料館に寄贈されたと推測される。

    かつて長い間軽視されていたこれらの「残存する広東語フィルム」は、年代が古いためにきちんと修復されず、さまざまな程度で破損があるため、修復費用にはおそらく6桁の数字がすぐに動くだろう。まだ価値があるとしても、その価値は一体どこにあるのか?映画の版権がこのように「売り切り」されれば、人々にどのような影響が出るのだろうか。

    近年、2社の無料テレビ局は広東語長編の放映を減らし始め、さらには深夜放送の番組を取り消した。広東語映画のベテラン愛好家、蘆子英(蘆Sir)は、テレビ局が各フィルムの版権を売って鑑賞方法を狭めることについて心配していないと断言する。

    「フィルム倉庫にある全編放送可の映画シリーズは少ないと考えています。問題は見るべきか否かということではなく、見たくても難しいということです。オリジナルのフッテージはどんどん少なくなっているのです」

    1980年代から広東語映画の保存方法について考えていた蘆Sirにとって、当時、電影資料館はまだ無く、国際的な映画祭を除けば深夜の映画鑑賞が広東語映画を見る主な方法だった。「テレビ局はみなビデオやフィルムを直接放送していました。当時は毎回1度放送するたびに質が悪くなっていくから、注意していました。時にはフィルムが切れたり、ホワイトノイズが出たり、ある映画などは何回も放送された後、頭の部分が無くなっていました」

    彼はかつて2、3年の時間をかけてテレビ局が放映した広東語映画を一つ一つ録画し、同時に合間を縫って元となるフィルムを探したが、版権問題があることがわかり、ビデオディスクも少なかった。

    広東語長編映画は1950年代や60年代に趨勢を極め、制作本数も大変多く、当時の人々にとってはメインの娯楽だった。観客の需要を満足させるべく、多くの作品はクランクインしてからたった7日間で上映されたため「七日鮮」と呼ばれた。映画産業は盛んとなったが、その質にはバラつきがあり、観客の鑑賞に対する信頼にも影響を与えた。

    後に映画に関心を持つ多くの人々が制作会社を立ち上げ、質より量の映画を生産したが、いかんせん中国語映画やテレビ局の衝撃には敵わず、70年代には徐所に先細りとなり、多くの小さな会社は倒産、撤退した。そして大量の貴重なフッテージが失われた。

    「1950年代から90年代、香港には7000本を超える中国語、広東語映画が作られましたが、その半分近くはオリジナルのフィルムや資料が散逸し、中でも60年代、70年代前の広東語映画がその大半を占めています」と、かつて『香港映画ポスター選:1950-1990』を編集した蘆Sirは話した。

    電影資料館の開館前、香港に現存する広東語映画のデュープネガは2大テレビ局の倉庫に保管されたと蘆Sirは明らかにした。ゆえにテレビ局が広東語映画を再放送することはなくても将来見ることができるチャンスは残り、フィルムが流失する心配も無くなった。しかし、まだ見られたことがない、あるいは珍しい映画のフィルムが見つかれば、フィルムの欠損を避けるため急いで修復する必要がある。

    香港電影資料館

    香港電影資料館

    香港の映画文化を守り育てる電影資料館には復元チームがあり、フィルムを清潔にしてから検査し、修復して保管した10万本近いフィルムを所蔵している。電影資料館復元チーム担当の労氏によると、所蔵するその多くのフィルムが寄贈されたものであり、フィルムが到着すると初歩的な検査を行い、同時に油汚れやホコリ、変色や破損を防止する処理を行い、その後適切に保存・記録され、もし上映の必要がある場合はさらに一歩進んで復元作業を行うという。

    例えばオプチカル方式でフィルムの収縮やひっかき傷などの問題を処理する。時には違ったルートでのデュープを合わせて最終的な完成バージョンを作ることもあるという。

    「大部分の映画フィルムは少なくとも保存用と上映用のコピーフィルムを保存するのですが、もしフッテージのデュープネガが1本しかない場合は、デジタルスキャンでデジタル版を作る必要があります」

    続いて、労氏が指摘したのはより古い時期の映画ほど復元する難度が高くなり、一部には燃えやすい硝酸系の映画もあるためイタリアやオランダ等の海外ラボへ処理を依頼することもある。価格も安くは無い。

    「我々修復者からすれば、こうしたフィルムは文化財と同じで、皆さんが昔の社会的様相や香港の社会、歴史を理解する重要な視覚的資料となります。ありのままの姿を保存したいのです」

    香港電影資料館は近く「早期香港映画の至宝と再発見」として米サンフランシスコから香港に戻った1930、40年代の香港映画8作品を上映する。中でも6作品は過去数十年にわたって公開されたことがない作品だ。有料上映以外にも、資料館では2回の野外上映を計画しており、広東語映画の『天上人間』(訳注:1941年のモノクロ映画。2012年に米サンフランシスコの映画館倉庫で発見された)と『蓬門碧玉』(訳注:1942年のモノクロ映画)が無料で上映される。(了)

    出典:http://std.stheadline.com/yesterday/sup/archive_details.asp?cid=20150304m01&ac=4

    参考:香港電影資料館(英語、中国語)

    http://www.lcsd.gov.hk/CE/CulturalService/HKFA/

    映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.116(2015.3.31)より

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  • 第11回 古い映画100作品を寄贈 台南芸術大学が定期上映へ

    記者:洪瑞琴、「自由時報」2015年2月10日より

    今回は台湾からのニュースです。フィルムと一緒に映写技師の方々も大切に「保存」し、経験や技術を後世に繋げなければなりませんね。台湾は映画保存に熱心な国。今回のニュースは大学とコラボできた好例といえます。

    元台南国華劇院の映写技師、李水和さんが古い映画100本余りを台南芸術大学に寄贈し、音響映像芸術学院の井迎瑞院長が代表してこれを受け取った。古い映画は整理された後、設立予定の「台湾電影博物館」で定期上映される予定だ。

    ■元国華劇院映写技師、セカンドラン上映のフィルムを寄贈

    寄贈を伝える記事

    寄贈を伝える記事

    台湾は民国60年代(訳注:1970年代)に野外映画上映がブームとなり、寺院やお廟でお祈りやおみくじを引くだけで、板で作られた椅子に座り、無料で映画を見ることができた。

    李水和さんは国華劇院を離れた後、各地の寺院や学校、軍のキャンプにまで赴いて映画を上映してきたが、野外上映が次第に廃れるにつれ、自分と数十年ともに連れ添ってきた映画フィルムや映写機も埃をかぶっていった。

    しかし、これらを廃棄するには惜しいと残してきたところに、台南芸術大学・音響映像資料保存センターが長年苦労して映画を保存していることを知り、気前よく100作品余りの映画フィルムと映写機を寄贈することにした。

    李水和さんは台北にある西門町(訳注:台北市内の繁華街。映画館が多い)で二番館興行の映画フィルムのコピーを購入した。これらはすべて当時最も座席を売った映画だが、民国80年代(訳注:1990年代)にレンタルビデオ店が繁盛した上、映画チャンネルが次々と作られて映画の版権法規が厳しくなったため、野外上映は衰退してしまった。

    寄贈されたフィルムは多くが70年、80年代の35ミリ国産商業映画で、『紅葉手札』(訳注:1982年作品)、『天天天亮』(訳注:1984年作品)、『楚留香傳奇』(訳注:1980年作品)、『大地飛鷹』(訳注:1982年作品)、『田庄阿哥』(訳注:1983年)等が含まれる。

    井迎瑞氏によると、台南芸術大学にはこれまでに台南地区の映写技師3名から計300部の映画が寄贈され、台南芸術大学と国家電影中心は整理後、将来は台湾電影博物館に「野外上映コーナー」を設立し、プロの映画上映技師に上映・解説してもらうという。台湾民間の映像経験と文化を保存し、台湾では唯一フィルム映画が観られる場所になるだろうと話した。(了)

    出典:http://news.ltn.com.tw/news/local/paper/854913

    映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.115(2015.2.28)より

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