TOP > プロジェクト > 光影流年―アジアの映画保存第1回〜第10回
お隣の国、中国や台湾では最近古い映画の見直しとデジタル化が進んでいますが、その関連ニュースの和訳を抜粋してお届けします。「光影流年」とは過ぎ去りし日、時間という意味ですが、光と影=映画の二大要素が入っており、古い映画のことを取り上げるのでこの言葉を使うことにしました。アジアの映画保存事情の一端を知っていただけると幸いです。(天野園子)
台湾の雑誌「経理人」2015年5月16日より
台湾南部にある台南藝術大学は動的映像の復元に力を入れる大学です。過去にも日本統治時代の台湾を記録した映画を復元し、ネットで公開しています。今回はこの大学で指揮を執る井迎瑞氏にスポットをあてた記事を紹介します。
台湾の記憶を保存する台南藝術大学の音像ビル(訳注:音像はオーディオビジュアルの意味)1階は外に開かれた「埠頭」だ。いつもトラックが接岸し、廃棄されたフィルムが何回かに分けて送られてくる。
「これは数日前に入ってきたものです」入口に置かれた黒色のゴミ袋を拾い上げながら、台南藝術大学音像資料保存展示センターの井迎瑞主任(当時)が結ばれた口を緩めると、中から家庭用ビデオテープが現れた。「もし別の場所でビデオテープやフィルムが見つかったら私の所に持ってきて。絶対に捨てないように」と井さんは何度も念を押した。
古いテープはホコリにまみれ、それを積んできた黒いゴミ袋と十分に「お似合い」だ。本来はリサイクルセンターに送られる物だが、井迎瑞にとっては宝物であり、そっと注意深く新たな袋を開け、念入りにケアをする。
井さんの毎日の仕事は学生を伴って古いフィルムを探し出し、修復することだ。それらの時代が刻まれていることを期待し、いつか再び世に出るために。「フィルムは記憶の宮殿です。表象や内在的なもの、時代の精神を残しています」表象、それは人々が着ていた服装や生活環境であり、内在とは言葉の語調や行動、ふるまいである。また、監督による編集や音響効果は当時の観客が持っていた美学を表すなど、その時代すべての意識が含まれている。こうしたものはすべて文字や画像の貴重な史料り以上に、保護する価値は十分ある。
うず高く積み上げられた一角のフィルムを指差しながら井さんは話す。「これらの9割は破損がひどく、ほとんどがもう見ることができないフィルムです。私たちはそれを1巻1巻検査します。なぜなら、やはり眠った宝が見つかるチャンスがあるからです」
隣の作業エリアでは学生がフィルムについた土ぼこりや腐食した部分をきれいにしているところだった。もしフィルムがまだ上映できるとなれば、温度と湿度が保たれた倉庫にフィルムを送り、変質しないようにして保存できる期間を延ばし、余力がある時に再度復元するという。
フィルムを修復する専門エリアはさながら病院の手術室のようだ。フィルムを修復する人は執刀する「医者」のように作業着と手袋を身につけ、視力と手先を頼りに、用心しながら作業台に置かれた「患者」──フィルム──を治療していく。
修復スタッフは息をこらして注意しながら親指と人差し指でフィルムの縁をなぞり、パーフォレーションに破損があるかどうか、を感覚で判断する。同時に、リワインダーで一コマずつフィルムをたぐりながら破損した箇所を見つけ、欠損した部分は他のフィルムとフィルムをつなぎ合わせて「縫合」し、フィルムに欠損が無い状態にまで回復させ、完成となる。
もしフィルムの後ろ部分にねじれや変形があった場合は判読不可能だ。修復スタッフは細心の注意をはらって同じ映画のいろいろなコピーフィルムと見比べながら切り貼りし、組み合わせて、完全な状態にしてからフィルムを現像所に送り、コピーを作ってやっと上映可能な新しいフィルムが出来上がる。
こうした「ハンドメイドのつくろい」に加え、井さんはデジタル修復チームも立ち上げた。フィルムをスキャニングしてデジタルデータに落とし、映像ソフトを使って再度画面に手を入れていく。この作業は写真の修復と似ているが、映画1本には数多くの画面が集合しているため、修復する作業スタッフはじっと我慢し、目のかすみという苦痛にも耐えながら1枚ずつ修正し、前後の明度や色調が一致するよう注意しなければならない。
昨年、井さんは学生と共に台湾映画史では初の35ミリ台湾語フィルム『王宝釧と薛平貴』(1955年製作)のコピーフィルムを探し出した。この台湾語フィルムを思い出して井さんは「意外にも客家語で、音楽もやはり客家風でした」と笑いながら話す。最初は驚いたものの、比べようもない喜びを感じたという。「これは映画史に記録がないものですが、福建と客家が共生していたという証拠です。民族グループが融合する過程を新たに見直すものでしょう」
1980年代末、井さんは世新専校(世新大学の前身)放送テレビ学科で教えており、過去の台湾映画が記録保存されておらず、また古い映画館が次々に無くなっていくのを見て「多くの物が歴史に組み込まれていく、今救わなければもう無くなってしまう」と感じた。当時、台湾では似たようなことをする人はおらず、関連する法律も不足していた。だが井さんは前例が無いからといって諦めず、却って開拓者となる決心を固めて台湾の動的映像資料の保護に乗り出した。
1989年、井さんは国家電影資料館の館長となり、資料館の地位を「金馬賞(台湾で最も権威ある映画賞)の準備、映画文化の紹介」から「動的映像遺産の保存、台湾映画史料の整理」へと変えた。ここから台湾の映画保存事業は始まり、古い映画のために奮闘するという彼の一生の起点となった。
その後、フィルム工場や映画館の廃業を聞きつけると、一も二もなく現場へと駆けつけ、倉庫やがれきの中から腐食したフィルムを掘り出し、また辺鄙な場所でリサイクルセンターを見るとまずフィルムのような長いものやスチールの缶がないか、辺りを見回す。また、海外に飛び出して台湾に関連する映画の原版を捜し求め、1巻ずつ買って帰る。各国のフィルムアーカイブやコレクターと連絡を取り合い、彼らが東洋の資料を所有していたらそれを東洋の観客に返してもらえるよう説得する。
館長を務めた8年間、井さんは1万本に近い台湾語映画と、過去の台湾のニュースフィルムを探し出した。それらはすべて電影資料館に収蔵され、歴史、芸術あるいは映画研究の重要な文献となっている。館長の身分はすでに辞したが、教職に戻ってからも彼はその志を変えることなく、古いフィルムを救うべく学生を伴い、少しずつ拾い集め、台湾の記憶を守り続けている。
映像の修復と保存は、古跡を保護することと同じだ。効果を計ることは難しいが、井さんは「歴史は失われない。これはすべての民族の伝言だ」と考えている。今のちょっとの努力が50年後の台湾を残し、保存資料があれば自身がどこから来たのかをたぐることができると、私たちも信じるほかない。(了)
出典:http://news.ltn.com.tw/news/local/paper/854913
参考:國立台南藝術大学 音像記録與影像維護研究所(Graduate Institute of Studies in Documentary & Film Archiving)(中国語、英語)
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.119(2015.7.31)より
「香港政府新聞網 新聞公報」2015年6月12日より
今回はいつものニュースとは違い、香港政府のプレスリリースからお送りします。イタリアの映画復元会社が香港に拠点を構えたというニュースです。デジタル化と今後の新興エリアであるアジアを見据えた戦略が背景にあります。
L’Immagine Ritrovata(中国語名「博亞電影修復所」)は本日(2015年6月12日)、香港で初となる海外事務所を開設した。アジア地域で増え続ける需要にあわせ、アジアにおける映画復元サービスを香港を拠点に拡大する。
博亞電影修復所は1992年にボローニャで設立。全世界で唯一の(ママ)35ミリ、16ミリ映画を専門的に復元・保存する企業であり、これらの映画をデジタルアーカイブしている。同社ディレクターのダビデ・ポッジ(Davide Pozzi)氏によると、香港の持つ地理的優位性から同社はアジアの顧客に直接アクセスできるとしている。
ポッジ氏は「新しいデジタル技術が出現するにつれて、映画も次第にデジタル形式でリリースされている。クラシック映画のデジタル化も増加中だ。アジアにおける映画専門の復元ラボが足りないことや、博亞電影修復所が過去にアジアで培ってきた豊富な経験も加えて、香港での開設を決定した」と語った。(了)
出典:http://www.info.gov.hk/gia/general/201506/12/P201506120360.htm
参考:博亞電影修復所を取材した別媒体(香港のメディアです)のリンクです。写真が多いので様子がわかるかと存じます。
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.118(2015.6.30)より
「自由時報」2015年4月28日より
台北の古い映画館、社子大劇院が2015月5月に取り壊されました。台北は投資目的の不動産購入熱もあり、地価が高騰しています。その影響もあるのでしょうか。
台北市で最初の野外劇場は社子地区にある「社子露天大劇院」だ。社子の人々に30年連れ添ってきた劇院は、テレビの普及やシネコンチェーンの台頭により1996年に閉鎖し、社子の盛衰の証人であるこの劇場は消滅した。人々は2015年3月に社子大劇院の復活に向けた活動を始めたが、近く再開発が行われることになり、来月には取り壊されて新しいビルが建つことになる。「救えなかった」この社子露天劇院に人々は残念な思いを抱いている。
士林区永倫里長の宋旭曜さんはこの劇院の経営者の息子だ。子供の頃から劇場との間を行ったり来たりし、モノクロ映画からカラー映画まで観てきたという。宋さんは社子劇院の一部始終を話してくれた。この劇場は父親がある人と共同で始めたもので、1965年2月に始めた頃はたった1枚の布製の幕に竹製の垣根で囲んだ空き地があるだけで、板敷きの床を敷いて映画を観ていたという。
「固定の建物ではなく、屋根も無かった。これが台北市で最初の、そして唯一の野外劇場でした」と宋旭曜さんは思い出しながらそう語った。当時、劇院は社子で最も賑やかな場所だった。近くには多くの工場や住宅があり、夜になると皆が劇院に映画を観にやって来るとても賑やかな場所で、黒山の人だかりができた。劇院は満員で500人が座れたという。開業してから3年が経つ頃、観客からの希望で半露天の劇場に改装し、その後2階部分を増築して屋根をつけ、正式に現代的な娯楽スペースとなった。
「幸せは常にあるものではないと本当に思います」と宋さんは語った。1980年代にはビデオの隆盛とテレビの普及が劇場に取って変わった。時代の流れに合わせて上映回数を増やすなどしたが、やはり営業停止の運命を止めることはできなかった。宋さんは、最後に上映された映画は香港の『慈禧秘密生活』(1995年公開)だと話す。そのポスターは今でもチケット売り場に貼られている。劇院を救う活動の発起人、林さんは社子地区の出身で、特に強い思い入れがある。林さんは、この劇場は自分の成長に寄り添い、荒れ果てていくのを見るにつれてとても名残惜しく、今でも取り壊しについては残念だと林さんは話す。
再開発を進める建設会社によると、社子劇院は5月中に取り壊されるが、その歴史を残すため会社側は劇院の映写技師やスタッフにインタビューして記録映画を作り、社子地区の文化的記憶として将来の地区管理委員会や当地の住民に提供する予定だという。(了)
出典:http://news.ltn.com.tw/news/local/paper/875580
参考:劇院の取り壊しに関するニュースが見られます(2019年3月15日確認)。劇場支配人のご子息、宋旭曜さんも取材に答えています。
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.117(2015.4.30)より
「星島日報」2015年3月4日より
アジア映画の中心地、香港では広東語、英語、華語(普通話)等さまざまな言語が飛び交う街ですが、やはり広東語がメインです。昔作られた広東語映画は今どのような状況にあるのか。その一端をお伝えします。
先日、亜洲電視〔訳注:Asia Television、香港の民間テレビ局〕が財政問題から売りに出した600本近くの広東語、普通話の長編映画は同業者のテレビ局が購入したほか、一部は謎のコレクターによって購入され、香港電影資料館に寄贈されたと推測される。
かつて長い間軽視されていたこれらの「残存する広東語フィルム」は、年代が古いためにきちんと修復されず、さまざまな程度で破損があるため、修復費用にはおそらく6桁の数字がすぐに動くだろう。まだ価値があるとしても、その価値は一体どこにあるのか?映画の版権がこのように「売り切り」されれば、人々にどのような影響が出るのだろうか。
近年、2社の無料テレビ局は広東語長編の放映を減らし始め、さらには深夜放送の番組を取り消した。広東語映画のベテラン愛好家、蘆子英(蘆Sir)は、テレビ局が各フィルムの版権を売って鑑賞方法を狭めることについて心配していないと断言する。
「フィルム倉庫にある全編放送可の映画シリーズは少ないと考えています。問題は見るべきか否かということではなく、見たくても難しいということです。オリジナルのフッテージはどんどん少なくなっているのです」
1980年代から広東語映画の保存方法について考えていた蘆Sirにとって、当時、電影資料館はまだ無く、国際的な映画祭を除けば深夜の映画鑑賞が広東語映画を見る主な方法だった。「テレビ局はみなビデオやフィルムを直接放送していました。当時は毎回1度放送するたびに質が悪くなっていくから、注意していました。時にはフィルムが切れたり、ホワイトノイズが出たり、ある映画などは何回も放送された後、頭の部分が無くなっていました」
彼はかつて2、3年の時間をかけてテレビ局が放映した広東語映画を一つ一つ録画し、同時に合間を縫って元となるフィルムを探したが、版権問題があることがわかり、ビデオディスクも少なかった。
広東語長編映画は1950年代や60年代に趨勢を極め、制作本数も大変多く、当時の人々にとってはメインの娯楽だった。観客の需要を満足させるべく、多くの作品はクランクインしてからたった7日間で上映されたため「七日鮮」と呼ばれた。映画産業は盛んとなったが、その質にはバラつきがあり、観客の鑑賞に対する信頼にも影響を与えた。
後に映画に関心を持つ多くの人々が制作会社を立ち上げ、質より量の映画を生産したが、いかんせん中国語映画やテレビ局の衝撃には敵わず、70年代には徐所に先細りとなり、多くの小さな会社は倒産、撤退した。そして大量の貴重なフッテージが失われた。
「1950年代から90年代、香港には7000本を超える中国語、広東語映画が作られましたが、その半分近くはオリジナルのフィルムや資料が散逸し、中でも60年代、70年代前の広東語映画がその大半を占めています」と、かつて『香港映画ポスター選:1950-1990』を編集した蘆Sirは話した。
電影資料館の開館前、香港に現存する広東語映画のデュープネガは2大テレビ局の倉庫に保管されたと蘆Sirは明らかにした。ゆえにテレビ局が広東語映画を再放送することはなくても将来見ることができるチャンスは残り、フィルムが流失する心配も無くなった。しかし、まだ見られたことがない、あるいは珍しい映画のフィルムが見つかれば、フィルムの欠損を避けるため急いで修復する必要がある。
香港の映画文化を守り育てる電影資料館には復元チームがあり、フィルムを清潔にしてから検査し、修復して保管した10万本近いフィルムを所蔵している。電影資料館復元チーム担当の労氏によると、所蔵するその多くのフィルムが寄贈されたものであり、フィルムが到着すると初歩的な検査を行い、同時に油汚れやホコリ、変色や破損を防止する処理を行い、その後適切に保存・記録され、もし上映の必要がある場合はさらに一歩進んで復元作業を行うという。
例えばオプチカル方式でフィルムの収縮やひっかき傷などの問題を処理する。時には違ったルートでのデュープを合わせて最終的な完成バージョンを作ることもあるという。
「大部分の映画フィルムは少なくとも保存用と上映用のコピーフィルムを保存するのですが、もしフッテージのデュープネガが1本しかない場合は、デジタルスキャンでデジタル版を作る必要があります」
続いて、労氏が指摘したのはより古い時期の映画ほど復元する難度が高くなり、一部には燃えやすい硝酸系の映画もあるためイタリアやオランダ等の海外ラボへ処理を依頼することもある。価格も安くは無い。
「我々修復者からすれば、こうしたフィルムは文化財と同じで、皆さんが昔の社会的様相や香港の社会、歴史を理解する重要な視覚的資料となります。ありのままの姿を保存したいのです」
香港電影資料館は近く「早期香港映画の至宝と再発見」として米サンフランシスコから香港に戻った1930、40年代の香港映画8作品を上映する。中でも6作品は過去数十年にわたって公開されたことがない作品だ。有料上映以外にも、資料館では2回の野外上映を計画しており、広東語映画の『天上人間』(訳注:1941年のモノクロ映画。2012年に米サンフランシスコの映画館倉庫で発見された)と『蓬門碧玉』(訳注:1942年のモノクロ映画)が無料で上映される。(了)
出典:http://std.stheadline.com/yesterday/sup/archive_details.asp?cid=20150304m01&ac=4
参考:香港電影資料館(英語、中国語)
http://www.lcsd.gov.hk/CE/CulturalService/HKFA/
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.116(2015.3.31)より
記者:洪瑞琴、「自由時報」2015年2月10日より
今回は台湾からのニュースです。フィルムと一緒に映写技師の方々も大切に「保存」し、経験や技術を後世に繋げなければなりませんね。台湾は映画保存に熱心な国。今回のニュースは大学とコラボできた好例といえます。
元台南国華劇院の映写技師、李水和さんが古い映画100本余りを台南芸術大学に寄贈し、音響映像芸術学院の井迎瑞院長が代表してこれを受け取った。古い映画は整理された後、設立予定の「台湾電影博物館」で定期上映される予定だ。
■元国華劇院映写技師、セカンドラン上映のフィルムを寄贈
台湾は民国60年代(訳注:1970年代)に野外映画上映がブームとなり、寺院やお廟でお祈りやおみくじを引くだけで、板で作られた椅子に座り、無料で映画を見ることができた。
李水和さんは国華劇院を離れた後、各地の寺院や学校、軍のキャンプにまで赴いて映画を上映してきたが、野外上映が次第に廃れるにつれ、自分と数十年ともに連れ添ってきた映画フィルムや映写機も埃をかぶっていった。
しかし、これらを廃棄するには惜しいと残してきたところに、台南芸術大学・音響映像資料保存センターが長年苦労して映画を保存していることを知り、気前よく100作品余りの映画フィルムと映写機を寄贈することにした。
李水和さんは台北にある西門町(訳注:台北市内の繁華街。映画館が多い)で二番館興行の映画フィルムのコピーを購入した。これらはすべて当時最も座席を売った映画だが、民国80年代(訳注:1990年代)にレンタルビデオ店が繁盛した上、映画チャンネルが次々と作られて映画の版権法規が厳しくなったため、野外上映は衰退してしまった。
寄贈されたフィルムは多くが70年、80年代の35ミリ国産商業映画で、『紅葉手札』(訳注:1982年作品)、『天天天亮』(訳注:1984年作品)、『楚留香傳奇』(訳注:1980年作品)、『大地飛鷹』(訳注:1982年作品)、『田庄阿哥』(訳注:1983年)等が含まれる。
井迎瑞氏によると、台南芸術大学にはこれまでに台南地区の映写技師3名から計300部の映画が寄贈され、台南芸術大学と国家電影中心は整理後、将来は台湾電影博物館に「野外上映コーナー」を設立し、プロの映画上映技師に上映・解説してもらうという。台湾民間の映像経験と文化を保存し、台湾では唯一フィルム映画が観られる場所になるだろうと話した。(了)
出典:http://news.ltn.com.tw/news/local/paper/854913
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.115(2015.2.28)より
「人民日報海外版」より
今回は2014年12月末に中国映画基金会が設立した「中国老電影修復基金」のニュースをお伝えします。
中国の国立フィルムアーカイブ「中国電影資料館」が所蔵するフィルムの修復作業を推進する動きに、民間が積極的に関与しているようです。2015年のお正月映画で大ヒットを記録したツイ・ハーク(徐克)監督『智取威虎山3D』の原作『林原雪山』は1960年に映画化され、さらにそれが革命京劇(!)『智取威虎山』として1970年に再映画化。そのオリジナル作が基金によって修復されます。現在の作品とクラシック映画の換骨奪胎はストーリーだけでなく、フィルム保存の世界にも広がっています。
2015年は中国映画誕生110周年に当たる。110年の間、中国映画は数多くの作品を作り、中には中国芸術史ないしは世界映画史でも重要な位置を占める名作も多く、国や民族、時代を象徴する歴史的記録となった。
しかし、これらの映画フィルムは簡単に保存できない。中国電影資料館の担当者によると、一般的に劣悪な環境下では、フィルムは4年しか保存できず、現在資料館に収蔵されている貴重なフィルムの一部にもすでに劣化が見られるという。
中国政府は過去8年間に3.7億人民元(訳注:約66億円余り)を投入して7000本近くのデジタル化と210作品の復元を行った。しかし、より早い修復が待たれるおびただしい映画フィルムにとってみれば、それはまだまったく足りない。先日、中国映画基金会は「中国老電影修復基金」を成立した。募った資金は中国電影資料館の古いフィルムの修復作業に充てる。
2014年12月26日、中国映画基金会は「名作に敬意を表して─中国老電影修復基金開幕式」を北京の中国電影資料館で開催した。5つの機構がすでに名作に寄付、修復することで表彰を受け、その内中央人民ラジオ局が『永不消逝電波(永遠に消えることのない電波)』(訳注:1958年)、中影股份有限公司が『駱駝の祥子』(訳注:1982年)、電影頻道節目中心が『漁光曲』(訳注:1934年)、博納影業集団が『林原雪原』(訳注:1960年)、小馬奔騰影業有限公司(訳注:ギャロッピングホースメディア)が『小兵張嘎』(訳注:1963年)に寄付し、復元する。現在、人気上映中の『智取威虎山3D』を制作した博納影業責任者の于冬氏は、今回撮影した新しい映画と古い映画の修復は共に名作『林原雪原』に対して敬意を表すものだと語った。
一つの作品の映画フィルムを復元するには十数万ドル、または数百万ドルの費用が必要となる。早急な修復が必要な膨大な数のフィルムとその資金は、アメリカやロシア、フランス、イタリア、インド、韓国など映画大国の政府と民間共同による投入という方法を取ってきた。1990年代初期、国際的に有名な映画監督、マーティン・スコセッシが主宰するフィルム・ファウンデーションは、全世界レベルでの名作映画の保存と復元に力を注いでいる。
2012年、中国電影資料館は上海国際映画祭と共同で、60万人民元の資金援助を得て『一江春水向東流(春の河、東へ流る)』(訳注:1947年)等の作品を復元した。また、先日の上海国際映画祭で上映された『神女(女神)』(訳注:1934年)は業界の内外で大きな反響を呼んだ。
映画チャンネル責任者の陸弘石氏は『漁火曲』を修復する機会に恵まれたことは、同チャンネルにとって光栄なことだとして「この映画は中国映画の名作中の名作で、当時、中国映画が海外に出て国外で受賞した最初の作品。芸術的にもこの作品が中国映画に与えた影響はとても重大で、監督の蔡楚生は国産映画の民族的な形作りに大きな影響を与えており、彼の美学面での追及は後の中国映画の芸術的実践だ」と述べた。
また、『小兵張嘎』で小玉英を演じた李小燕氏は、復元後の『小兵張嘎』を鑑賞後、「半世紀が過ぎたというのに、自分の幼い頃の映像を見るとタイムスリップしたように感じます。私たち、今はもうおじいちゃん、おばあちゃんだというのに!」と感慨深げに語った。
中国電影基金会の責任者は「我々はすべて社会に対する誠実な誓約として、資金を大切に使い、資金のすべてを古い名作映画の復元と救済に使いたいと思います。古い映画のひとコマひとコマを元通りに復元し、古い映画を美しいだけではなく、さらに輝かせ、スクリーンに戻すことで映画文化を後世に伝えていきたい」と話した。(了)
出典:http://www.chinanews.com/yl/2014/12-29/6920663.shtml
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.114(2015.1.30)より
筆者:宋立超(中国新聞網記者)「中国新聞網」2014年12月2日より
ドイツ・カールツァイスの旧式映写機、ウクライナの16ミリ映写機、中国最初の鉱石ラジオなど、山西伝媒学院放送・映画テレビ理解ラボでは20世紀初頭以降の各時代、各国の旧式放送・上映機材を現在展示中で、多くの観客が訪れている。
記者が現場を訪れると、3000以上に上る展示品がホールの各コーナーいっぱいに置かれ、中国や外国の各種映写機やテレビ、カメラ、ラジオ、録音機、撮影機材などがすべて揃っていた。これら以外にも、異なる時代、異なるフォーマットの映画フィルムやビデオテープ、レコード、フィルムなどが置かれている。
56歳になる王保明さんはベテランのテレビマンで、長年古い機材の収集に力を注いできた。今回展示した数千のコレクションは教育機関に所属する一部の物を除き、その多くは王さんが数十年間にわたって少しずつ集めてきたものだ。
「これは1944年に生産されたドイツのテレビ用放送カメラで、当時の生産台数は少なく、現在国内では大変珍しいものです。また、ウクライナの16ミリ映写機、これが中国に登場した話は、やはり周(恩来)総理が旧ソビエトを訪問した際の話と関係するでしょう」と、王さんは各コレクションに関する歴史を話した。
説明によると、ここに集められた多くは世界的にも初期のサイレントやトーキーの映写機で、さらに中国最初の鉱石ラジオや針金録音機は「中国最初のテレビ」である白黒テレビと同じ貴重なコレクションだという。
「ここには国内外の各時期・各段階での放送映写機材ものほか、文化大革命の時代に特殊なマークが付いたコレクションもあります」太原市無線コレクション協会の会長、楊四清さんはこう説明した。コレクション収集の過程に話が及ぶと、王さんは人々の認識不足のせいでたくさんの古い旧式機材が捨てられ、大変残念だと語った。「一部のめずらしい機材に至っては廃品回収ステーションから探してきました。多くの歴史的意義を持つ物はさらに見つけにくくなっています」。
また、王さんは「こうした旧式の機械は日進月歩の技術革新の中でひっそりと鳴りを潜めています。しかし、彼らが一つ一つ記録した時代を超えた偉大な発明は、輝かしい視聴覚を作り上げ、時代を証明し“歳月の時間”を支え続けてきたものです」と述べた。
現在、「山西老電影博物館」が太原市に建築中だという。王さんはこれらの歴史的意義を持つ「旧式の物」がキャンパスを出て、さらに多くの人に国内外の長年に渡る映画・放送文化を感じてもらいたいと述べた。(了)
出典:http://www.chinanews.com/cul/2014/12-02/6837580.shtml
※この後、2016年の文中の王保明さんの娘、王豊さんが山西省太原市陽曲県に山西老電影博物館をオープンしました。
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.113(2014.12.31)より
「北京Time out」2014年12月2日より
崔氏は中国では知らない人がいないほどの有名キャスター、ジャーナリストです。社会の矛盾を鋭く指摘し、かつユーモアのある語り口で人気を博しました。3年前の東日本大震災後では、NHKの招きで被災地を取材、「シリーズ震災後を歩く~海外ジャーナリストの見た日本」で番組化されています。彼が司会を務めた番組「電影伝奇」は中国映画史を紹介する人気番組で、その縁で多くの映画人との交流があり、自身も様々な映画コレクション所有しています。崔氏は昨年CCTVを退社し、中国放送分野教育のトップ校で彼の母校でもある中国伝媒(メディア)大学で教鞭をとっています。
2014年10月9日未明、崔永元は自身の微博(訳注:中国のSNS)に9枚の写真をアップした。その中には水墨画がぐるりと取り囲み、たくさんのヒョウタンがぶら下がった部屋、古い映画ポスターが一面に張られた長い廊下、風情ある漫画絵でいっぱいの教室、フィルム映写機が置かれたホール。これら9枚の写真に添えられた言葉は「昼間は博物館、夜は自習室。母校に捧げる贈り物」と簡単に記されている。これは中国伝媒大学のキャンパス内に最近出来た崔永元のコレクション展示館だ。
2012年に「崔永元口述歴史研究センター」を母校に開設し、昨年、中央電視台を退職してから母校で教壇に立つ崔永元は、大量にあるプライベート・コレクションを次々と持ち込んだ。コレクションは最初は口述史整理のためだったという。その後の十何年間で、崔永元は自身の資金でチームを作って数千人のお年寄りを取材し、100万分以上に上る口述史映像を収集した。
これ以外にも2004年から始まった番組「映画伝奇」で集めた150本の古い映画資料も整理した。その一旦胸に秘めた消えない映画の夢は2010年、彼に「映画伝奇館」を懐柔県(訳注:北京市郊外の県)に建てさせた。
中国伝媒大学南門近くの24号館は知る人ぞ知る場所である。それぞれのテーマに合わせた展示館があり、口述歴史館、映画伝奇館、連環画(訳注:挿絵と文章による絵本で、20世紀初頭に発行された中国における漫画の一形式)伝奇館、オスカー館、映画巨匠館と都本基(訳注:中国の著名な書画家。張芸謀作品ら映画のタイトル字も手がける)芸術館が含まれる。
マスコミ界を離れても、崔永元は相変わらず物事を語るようだ。率直に語るという方法だけではなく、実物を持ち出して語る。1階の「口述歴史館」では取材映像とともに所蔵品の実物が見学者に向かって置かれている。「抗戦」コーナーは当然重要なコーナーとなり、それ以外にも「建国式典」(訳注:1949年の中華人民共和国成立式典)の証拠資料や、教育に関する各時代の古い教科書、文化大革命時代のスローガンやかつての生活にあった古い物が空間に溢れている。
映画伝奇館は懐柔県から根こそぎ運んできたもので、多くの物が細かく陳列されている。
阮玲玉(ロアン・リンユィ)の専門コーナーには費穆(訳注:戦前から戦後にかけて活躍した中国の映画監督。代表作に『小春之城』。阮玲玉主演で1933年に『城市之夜』を監督)の手記、周璇(訳注:阮玲玉と同時期に活躍した人気女優・歌手)コーナーには彼女が自ら身に付けたもの、『十字頭』(訳注:1937年製作の映画)コーナーには趙丹の手記、『白毛女』の所には扇子やマッチなど数々の関連商品、また『地道戦』(訳注:1965年製作)コーナーには当時手書きで描かれた地下道の構造図がある。ホール中央には各種のフィルムと映写機が置かれ、そこにある小さな上映ホールではオープン後に珍しい映画の場面を連続上映する予定だ。
ほかにも映画の巨匠のために用意した展示館では、孫瑜、陳鯉庭、湯暁丹、厳恭、謝添らの先人達の部屋がある。またオスカー展示館には、今までに集めた各種の映画道具は人々をあっと驚かせる物ばかりであり、ケースの中には(マリリン・)モンローのブラジャーのほか、いくつかのオスカー像まである。映画や口述史の展示館以外にも、崔永元が愛する「小人書」(訳注:連環画のこと)も陳列された。彼の友人であり芸術家の都本基氏は、早々に自身の作品とアトリエを運び込み、この雑多で趣あるプライベート・コレクションに加わった。
学生の自習室にもなっている研究中心の室内(就愛閲読網から)[/caption]まさに崔氏が言う通り、オープン後ここは昼間は博物館、夜は自習部屋に化けるという訳である。この部屋のコレクションは、学生が生まれて初めて体験するものであろう。時々ここに来て解説を担当する崔永元に会えるかどうかはあなたの運次第だ。ただし。ここでは天井にゆらゆらと揺れている猫をいつも見かけることになる。この猫の名は老肥(ラオフェイ)、高貴にして何者も軽蔑するこの館の猫である。
※崔永元口述歴史研究センターは2014年にオープンしました。見学は事前予約制となっています。
微博(Wechat)のアカウントをフォローするか、電話での予約となっています。
予約可能時間:月~金の9:30~11:30/13:00~17:00
電話:010-65783833/010-65783834(日本からかける場合は最初の0をとって国番号86をつけて下さい)
見学可能時間:月~金の9:30~11:30/13:00~17:00
※夜は学生の自習室となっているため、見学できません。また土日・祝日は閉館です。
出典:http://beijing.timeoutcn.com/ShowArticle_14632.htm
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.112(2014.11.30)より
筆者:高イ恩(大渡口報記者)「大渡口報」(四川省重慶市大渡口地区のコミュニティー紙)2014年10月24日より
暖かく快適な背もたれ椅子、清潔できれいな暖色のフロアタイル、大きなスクリーンの映写機にオーディオサラウンド…… こうした「マニア」クラスとも言える映画館は大型の専門映画館ではない。それは四川省重慶市の春暉路街道新華地区にある自前で出来た映画館だ。
コミュニティー映画館ができてから、住民の多くは外に出て足繁く映画館に通い、映画を観るようになった。毎週火曜日と木曜日の午後2時半、この地区の住民は無料で国内外の歴史物やコメディー、ファミリー、アドベンチャーなど様々なテーマの映画を無料で観ることができる。また、好きな映画もリクエスト可能だ。
地区が映画館を運営すると聞くと、実に新鮮な出来事のように聞こえる。新華地区の関係者によると、スタッフが長く住民と接している内に、この地区には俳優や映画ファンなどが多く、映画・テレビ文化の雰囲気が非常に強いことを発見した。その後、地区が現在の新天澤(訳注:重慶の地区名)にある高層ビルに移転し、住民交流のための映画レクレーション活動を思いついたという。
2014年10月22日午後、記者が新華地区映画館を訪れると、そこには広々とした60平米の空間が広がり、背もたれ式の椅子やエアコン、映写機、サラウンドシステムが揃っていた。男性の喫煙者に配慮してベランダには喫煙所も設けられた。
スタッフの王華麗さんによると、このコンパクトで手の込んだコミュニティー映画館は、地区が念入りに考えて準備し工事した。面積は大きくなくても温かく心地よい空間で、60名の収容が可能だ。王さんは「今の映画館は基本的にみな若者ばかり。しかし、映画を観ることはお年寄りにとって昔を思い出すことですから、彼らを新たに映画館へ呼び戻そうと考えたのです」と話す。
70歳の張韻雲さん(女性)はコミュニティー映画館マニアだ。張さんによると、地区の近くには映画館があるものの、そこには行かないという。「私たちが好んで見る昔の映画は映画館で上映されていませんから。それに、大きな映画館は料金が高くて。チケットを買うお金でたくさんのおかずが買えてしまいますよ」と話す。
コミュニティー映画館がオープンする前、スタッフは個別にアンケートを配って意見を募り、住民からのリクエストを集めて、伝統的な劇映画やクラシック名画、目下話題となっている映画など多くのテーマの映画を整理した。スタッフは住民が愛する映画を目録に入力し、毎週定期的に上映する。
上映期間中、地区は2週間前に各エリアの掲示板で上映を告知し、もし住民から意見があれば随時回答や時間調整を行う。コミュニティー映画館では、現在ではあまり観ることのできない濾劇や越劇(訳注:共に上海地方で続く伝統的な古典演劇)の名場面や、子供向けには大型映画館やテレビでは観られないモノクロの古典的戦争映画を上映するなど、各人の好みやリクエストに応じるようにしている。
午後2時半、30名余りの「マニア」なお年寄りが続々と映画館にやって来て映画鑑賞の準備を始めた。「みなさん、今日は『馬向陽下郷記』(訳注:農村を舞台にした連続テレビドラマ。2014年製作)を観ようと思いますがいいですか?」とスタッフが問いかけると「何を映そうと何を観ようと、街のお隣さん同士が一堂に集まるのは難しいからね、映画が良いか悪かろうがは気にしない。にぎやかな雰囲気が大切なんだよ」と住民たちは楽しそうに答えた。
1時間あまりの上映中、「マニア」達は熱い議論を始めた。こうした場面はおそらく多くの映画館では見られない光景だ。しかしお年寄り達は邪魔されることなく、「映画を観るには雰囲気が必要なんだ、これこそ“其楽融融”(訳注:和やかで打ち解ける楽しい様子)だよ」と話した。
コミュニティー映画館はお年寄りだけでなく、若いサラリーマン世代も引き寄せている。「コミュニティー映画館は本当によくできていると思いますよ。以前の“映写機一つで事を成す”的な巡回上映と違って、家の映画チャンネルよりも気合いが入っていますし。それに映画チケットは高いから、やはり映画館で映画を観るのはもったいないと思う」と32歳の住民、李紅さんは映画を観終わった後こう感想を述べた。その他の地区に住む住民も、ここにコミュニティー映画館があると知るとみな観に来るという。
新華地区の責任者は「コミュニティー映画館は最初、住民の間で知らぬ間に話が持ち上がったのです。映画鑑賞は、若い人にとっては映画館に行ったりインターネットで観たりと大変簡単なことですが、お年寄り達にとっては映画館で映画を一回観るだけでも多くのお金を使うこと。そこで、立地を有効的に活用してコミュニティー映画館を開設し、地区のみなさんに無料で映画を上映することにしました」と話した。
取材中、住民の羅文白さんは記者に対し「この地区の考えはとても行き届いていますよ。伝言板も用意されていて、住民は自分が見たい国内外の映画を書くことができますし、地区も住民のリクエストに合わせて上映回数を増やすなどしてくれます」と話した。コミュニティー映画館は今後、こうした機会を通じて住民同士の交流や学習の場を増やしていくという。(了)
出典:http://www.cq.xinhuanet.com/2014-10/24/c_1112960354.htm →リンク切れ
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.111(2014.10.31)より
「大連日報」2014年9月24日より
収蔵庫改修のため、大連電影有限公司は長年保存してきた600本あまりの映画フィルムの置き場として、やむなく友好電影院(映画館)に間借りすることにした。2011年11月19日、1880年に創立した世界最大の映像製品・関連サービス提供業のコダックが破産法を申請したことは、映画フィルムの時代が末路に向かい、デジタル化時代が全体に広がることを象徴するものであった。
実際には、映画フィルムはまだ死んでいない。大連には古い映写機や映画フィルムに夢中な人がまだ存在するほか、世界の映画界では一部の映画監督が今もフィルムでの表現を追求している。また、映画の意義とは緻密な機械の中に永続的に保存されるだけではなく、町の歴史の共通記憶でもある。
大連--映画を愛し続けたこの街で、フィルムの時代は何を残すのか。そしてフィルムを使って何を行うのだろうか。
1920年、西崗新世紀電影院が開業し、大連で最初の中国系映画館となった。1950年には中央電影局東北影片(フィルム)公司大連発行ステーションが設立した。
2009年から「華臣影城」に代表される大連の多くの映画会社はデジタル化を全面的に始め、映画フィルムは大連の映画市場から退き始めた。大連電影有限公司は依然として国内外のクラシック映画を含む大量の複製ネガを保存している。例えば、フィルムコレクションの市場に売りに出されれば数千万元にはなる『魂断藍橋』〔1940年の米映画『哀愁』〕や、『虎口脱険』〔1966年の仏映画『大進撃』〕など、忘れがたい名作だ。
大連電影有限公司はこれらのフィルムを専用収蔵庫で保存し、湿温管理をして風通しを良くするほか、専門のスタッフが定期的にフィルムをチェックし、断裂したフィルムを修復している。大連華臣影業グループの姜楠副総経理は「このようなフィルムはとても脆い。定期的にチェックしないと、すべてくっついてしまい、最終的には廃棄しなければならないのです」と語る。
フィルム映画を見続け、フィルムが輝く時代を過ごしてきた姜楠氏は興奮を抑えきれずに話す。「映画フィルムは普通、一つの街にコピーが1セットあるだけでしたが、最も多い時には1セットのコピーを100カ所以上で順繰りに上映していました」
彼はある一つのフィルム箱を開けて小さなメモを取り出した。この記録映画が製作所を出た時間、上映回数、上映場所、映写した人等の情報が入った鑑定書で、いわばこのフィルムの「身分証」である。1974年に初上映された『打撃侵略者』は534回上映され、最後の上映は2004年8月21日に「影娯大世界」での上映とあった。
当時、華臣には専門のフィルム管理課があり、当時のスタッフは特殊な作業技術を持っていた。今年47歳になる張紅潔さんは華臣最後のフィルム技術者で、現在彼女は収蔵庫の責任者であり、毎週フィルムを巻き戻している。
「巻き戻し、早送り、コマの取り出し、上映、すべて大変な技術の試練がいるものです。フィルムを触りすぎて指紋が全部すり減ったこともあったわ」
フィルム技術者を20年近く続ける張紅潔さんの仕事量は大幅に減った。
「会社が現在もこれらのフィルムを保存しているのは、中国映画が発展した一部であり、会社の成長の歴史的証人だからです」姜楠氏はこう話す。「これらの映画フィルムはある種の「鶏肋〔役には立たないが捨てるには惜しいという意味〕です」と。
現在のフィルムコレクション市場は、一般的な映画フィルムの一部分でも数千元に上り、完全版で製作者や製作所のロゴが入った「オリジナル」の映画なら数千元でも常識外、質が良く名作の国内外フィルムは大変貴重で、その多くは探しても見つからない。さらに、新中国成立後に作られた国産映写機の101、102はコレクターが夢の中でも追い求めるような物だ。
大連にはその名を知られる有名なコレクターが二人いる。すでに古稀を過ぎた劉増盛さんはかつて映写技師をしていた。電気部品の修復店を営む李麗業さんと共に協力し、李さんが劉さんの経済的後ろ盾として、また劉さんは彼女に技術サポートをする形で20台余りの映写機と200本余りの映画フィルムを収蔵している。
1953年、八一映画機械生産廠が中国で最初の映写機を生産した。この「解放101型」35ミリ式移動映写機はその年に294台しか生産されず、現存するのは僅か2、3台である。
5年前、二人は偶然にも大連の某会社から500元でこの「お宝」を手に入れることができた。映写機は倉庫に打ち捨てられ、埃と垢にまみれていたという。劉さんは2カ月をかけて一つ一つを拭き上げ、筐体に「中央人民政府革命軍事委員会総政治部文化部映画機械修理廠」のロゴを見つけ、宝を拾い上げたことを知った。
今年8月19日、長春電影制作廠の旧エリアに「長影旧址博物館」がオープンし、最初の入場者として見学した李さんは誇らしげな情報を持って帰ることとなった。「長影旧址博物館ですら、この解放101は置いていなかったのです」
「解放101」以外にも、彼らは1954年に生産された「解放102」と、1957年の改良型「解放103」、また1970年代に瀋陽市電影機械廠が生産した「遼寧ブランド」35ミリ型映写機など、現在では希少な映写機を所有している。これらの映写機を劉さんは自分の子供のように扱い、それをケアすることが人生の趣味となっている。
二人のもう一つの趣味は、大連に関係する古い映画を収集することだ。例えば『虎穴追踪』〔1956年の中国映画〕、『試航』〔1959年の中国映画〕、『甲午風雲』〔1962年の中国映画〕などの映画は大連に住む昔の映画人たちが参加し、大連でロケ撮影されたものだ。また、これらは古い大連と大連の映画人らを記録しており、多くの大連の人々にとっては集合的な記憶だ。
たった1回上映するだけでもフィルムが傷つくかもしれないが、劉さんは休みの時に古い白布を担いで李さんの家に行き、映画を上映している。劉さんは、これが好きな人はとても多く、ある人は目を閉じて映写機が発するザーザーという音を聞くのが好きな人もいると話した。
また、李さんは国内の多くの街に足を運び、それぞれが自身の映画博物館を持っているか、もしくは都市と映画の関係を示す展示があることを知った。しかし、大連にはこの部分が欠けている。
「これまで」を振り返る時、より良いコレクションと保存、より多くの人に大連の映画文化を知ってもらい、映画が都市文化の中の素晴らしさとなるために、こうした古い映画は博物館に収蔵してもらうべきではないか。これは都市、そして中国映画史に対する最良の挨拶となるだろう。そして「未来」を見る際、中国映画やテレビがまさに黄金時期にあり、中国文化産業が勃興の時にある今、大連の人材や地理的な優位さを利用して映画やテレビ産業の鎖を発展させるには、「オールドフィルム」も投資誘致の一つにならないだろうか。
フィルムからデジタルは技術的アップデートの1ページに過ぎないが、大連と「オールドフィルム」にはまだ多くの「断ち切れない思い」がありそうだ。(了)
出典:http://szb.dlxww.com/dlrb/html/2014-09/24/content_1065488.htm?div=-1
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.110(2014.9.30)より
「中呉網」〔常州放送テレビ局のサイト〕2014年8月18日より
1960年代や70年代は、露天の広場で映画が上映されることは贅沢で人々を興奮させる出来事だった。古い映写機の近くに座り、白いスクリーンに映る映画を見ながら映写機の「カタカタ」という音を聞くことは、その時代の人々にとって特別な美しい思い出であろう。
8月、「フィルム上の記録―常州赤色映画展」が中国・常州市の武進博物館で開かれ、映画のポスターや映写機、フィルムなどが人々の記憶を呼び起こした。
8月8日、記者が展示ホールに入った時、1963年製作の児童映画が上映されていた。40歳になる龔さんは7歳になる息子と一緒に映画を鑑賞中だった。彼はこの展覧会を知ると、わざわざ半日休みをとって息子を連れ、自分の小さな頃の楽しみを体験させに来たという。
「私たちのあの時代は、テレビもパソコンもなく、唯一の文化的な娯楽は毎月1回の野外上映でした」と龔さんは語る。「今はお金を使えば居心地のよい映画館で申し分ない大作を見られますが、小さい頃、野外上映で見たあの興奮はやはり味わえませんね」と彼は話した。
彼らにこうした「青春を与える」機会を設けたのは、今回の映画展の主催者で、古い映画フィルムと映写機を自身のコレクションから出展した1985年生まれの河南省の若者、王勇建さんである。彼は9年前、単身で常州に働きに出てきた。見たところ古い映画とは何の関係もない彼は、4年前に縁あって映画を集め始めた。
2010年のある日、王さんは常州市の清潭新村を通りかかった際、古物商が古い映写機を壊そうとしている所を目にした。彼は小さい頃、姉と連れ立って十何里も離れた隣村へ映画を見に行った光景を思い出して映写機をかわいそうに思い、お金を払ってこの古い映写機を救い出した。
その後、王さんは資料を調べ、この映写機が中国建国初期に使われた「長江老五四」――1950年代の国産16ミリ映写機であることを知った。この偶然の後、欧さんは各種の映写機やフィルムのコピープリントを意識して集めるようになり、現在、3000本の映画フィルム、60台余りの映写機をコレクションしているという。
古い映写機1台を買うには少なくとも数千元、ある時には何万元にもなり、その上多くのフィルムなどを加えるとなると、彼は稼いだお金のすべてをコレクションに投じ、4年の間に百万元を費やしたという。
現在、妻と一緒に借家で暮らす王さんはそれでもさっぱりとした様子で「映写機とフィルムは私の固定資産でもありますよ」と語る。
意味ある映写機、あるいは良いフィルムを手に入れるために、王さんはいつも全国を奔走している。
ある時、彼は常州から10時間かけ車で洛陽に行き、1時間休憩した後、電話で上海のコレクターが1955年制の旧ソ連のKNT-1号映写機を手放すことを知り、急いでまた車で上海に向かった。前後合わせて24時間、疲れながら車を走らせた結果、彼はその映写機を手に入れることができた。「今思うと本当に危ないですよ。あの時は命を懸けていました」と彼は語った。
王さんによると、その映写機は旧ソ連が中国に贈った援助物資のひとつで、中国が最初に自主生産した映写機のモデルになった物だという。これは王さんが命をかけた理由の一つでもある。「とても歴史的価値があるものです。これは当時の中ソ関係を証明するもので、また、中国映画史上でも大変重要な節目でもあるのですから」と話した。
古い映画をコレクションするようになってから、中学校卒業の学歴しか持たないこの若者は、1000本近くの古い映画を見るようになり、またそこから歴史や人間の品性を学んだ。
彼は言う。自分が最初に来たのが常州であったことは幸いだったと。なぜなら、常州には多くの豊富な映画文化があるからだ。
「もし、全国に3つしか古い映画の博物館がないとしたら、一つは北京、一つは上海、もう一つは常州に置くべきだと思います。常州の人は中国映画の発展に大きな影響力を持っていますからね」
今回の展示会を通じて、王さんは一冊の簡単な「常州映画文化史」を作り、十数枚のポスターには常州出身の有名な映画スターや脚本、優れた映画作品を掲載した。
「古い映画にはその時代の地域の風俗や制度、生活や思想が記録されています。それを保存することは次の世代の記憶、地域の文化を保存することなのです」と王さんは語った。一部の地域ではこうした古い映画の保護を重視するようになり、無錫〔江蘇省の都市〕の和平映画館では不要になった映写機とフィルムを保存し、専門の展示館を作って映画文化を普及させていくとのことだ。
王さんからすると、古い映画の収集と普及は、彼個人の力だけではまったく足りないという。
「私も常州に映画博物館を作りたいと考えています。しかし、土地を借りる、これだけの支出でも私の能力の範囲をはるかに超えています」と話した。
武進博物館での1カ月の展示後、これらの映写機やポスター、フィルムは王さんがやむなく数千元を支払って借りている地下の倉庫へ戻ることになる。この倉庫内の消防条件は外部公開の基準に達していないため、こうした古い映画関係のコレクションはまた封をされる。(了)
出典:http://www.cztv.tv/folder209/2014-08-18/52984.html
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.109(2014.8.31)より
筆者:柴愛新(瞭望東方週刊記者)「瞭望東方週刊」2014年7月7日より
中国国内の映画市場における「興行収入オンリー」という流れに対し、華夏電影発行有限公司(以下「華夏電影公司」)は「カムバック・クラシック映画」というプロジェクトを近く始める計画だ。2014年6月、第一期の上映が始まった。
近年、中国国内の映画興行収益の増加は誰の目が見ても明らかだ。ここ十数年来、国内の興行収入は平均34.57%増加と、その速度は驚くべきものがある。しかし問題もある。華夏電影公司執行取締役会長の傅若清は「今の映画市場で金塊を掘り出す要素は多いにある。その力はほとんど興行収入を追う所に向かっていて、観客の消費心理に迎合している」と話す。
「商業化の時代において興行収入は確かに重要だ。しかし、それは映画の価値を判断する標準の一つであって、中国映画すべての夢を実現するものではない。ある種の芸術的入口として、美しい画面や滑らかな言葉、熟練した演技、そして現実との対照、ヒューマニズムへの思考など、それらが映画の優劣を判断する重要な要素だ」と彼は語る。
傅若清には北京電影学院の幹部や芸術学者と談話した際、問わずにいられなかったことがある。「国産映画がもし、長期に渡ってこのまま発展していったら、将来、電影学院の学生や脚本家、監督、カメラマンは何を学ぶんだ?」彼らはみな、国産映画に「もしガイドとしての作品がなければ将来はどうなるのか」ということを懸念していた。
そこで、華夏電影公司は「カムバック・クラシック映画」プロジェクトを立案した。これは過去に埋もれた古い映画を復元し、改めて上映するという内容である。業界関係者は「これを良いこと」だと捉えたが、みな同じ事を話した。「これはとても難しい仕事になるぞ」と。
まず、おびただしいフィルム収蔵庫の中からどの名作を選び出すか。選んだ後の版権の扱いは?版権問題がクリアになった後、どのような技術で復元するのか? 華夏電影公司はまず、第一期作品として3本の映画を選んだ。張芸謀の『紅高粱』〔『紅いコーリャン』〕、何平の『二旗鎮刀客』、霍建起の『那山那人那狗』〔『山の郵便配達』〕である。
なぜこれらの映画を選んだのか。
「張芸謀の芸術的回帰作『帰来』の上映の機会を借りて、彼の出世作『紅いコーリャン』を選んだ。『二旗鎮刀客』は1990年代を代表する武闘映画の名作であり、独特の西部劇的なスタイルを持っている。また『山の郵便配達』、これは1999年に上映した際、中国では数百元の興行収入だったのに、海外で賞を獲ったら日本では3.5億円も売り上げて大変驚いた」傅若清はその理由をこう説明した。
21世紀に入って中国映画はデジタル化をスタートした。しかし2008年までにデジタルで撮影された映画は総生産量の50%に過ぎない。これ以前の大量のフィルム、1930年代や80年代といった映画発展の黄金期の作品はすべてフィルムである。
しかし、現在2万余りある全国のスクリーンはすべてデジタル映写機で商業上映を行っており、制作側も再びフィルム版をリリースする訳ではない。もし、昔のクラシック映画が再び映画館に戻るとすれば、まずぶつかるのはデジタル化への復元問題である。
「我々が選んだ作品はフィルムで撮影されたもので、デジタル化の方法と条件が揃っていれば現在のデジタル上映用に復元できる。こんなに多くの良い作品を倉庫に放り込んだままなんて、ある種の浪費だ」と傅若清は話す。
彼の予想によれば、現在の所、復元後にこのプロジェクトへ投入されるフィルムは1000から2000部だという。そして、修復された映画は専門の映画館で上映する必要はなく、現在あるロードショー館の「余剰資源」を存分に活用するという。
傅若清はこのように見積もった。
一般的に映画館は午前10時に営業を始める。10時から午後4時半までの6時間余りは暇な時間帯で観客も少ない。だが、午後4時半から夜10時までは忙しい時間帯で、これも6時間。ただ、これは作品が多い時の話で、もしラインアップが薄い時期や作品数が少ない時には、毎日の「暇な時間帯」はもっと増えるだろうと考えている。クラシック映画が戻るのはまさに「ラインアップが薄い時期を活用」するためで、多くのロードショー館が興味を示す可能性は高いと傅若清は語る。
ロードショー館と協力して展開する将来の経営プロジェクトについて、傅若清の話は尽きない。「中秋節〔中国では中秋節に一家で集まり中秋を祝う習慣がある〕前後には「お父さん、お母さんを連れて映画に行こう」といった事もプッシュできる。アメリカや日本のような「シルバー消費」だ」
「カムバック・クラシック映画」プロジェクトのスタート式典(中新網)[/caption]「午前10時から12時、午後2時から4時、この時間帯はお年寄りが外をぶらつく時間帯でもあり、映画を観ることが可能だ。この市場ニーズを細かく調べて、お年寄り向けのサービスを提供したり、同時に映画館独自のサービスや、お年寄り向けの商品を付け加えたりすることもできるだろう」
傅若清の最終的な目標は「優良映画データベース」を打ち立てることである。華夏電影公司は中国電影股份公司と共に毎年50%の輸入映画配給を担っており、いわばリソース独占型の企業だ。しかし、傅若清は将来、国が輸入映画を適度に開放し、あるいは配給先も開放することは必然的流れだと意識している。独占資源が一旦消滅すれば会社は戦いに挑むことになる。そのため、彼はころばぬ先の杖として「カムバック・クラシック映画」を華夏電影公司の特徴にしようと計画しているのだ。
現在リリースした第一期は300館余りの映画館が参加している。傅若清は将来的に100から150の映画館に整理するつもりだ。「これは大きな面積をもってやるべきことではない。飢餓療法的マーケティングで行えばさらに有利だし、浪費を避けることもできる」としている。
計画によると、このプロジェクトは2カ月前後で1期ごとにリリースし、1期ごとに35本の作品を用意する。2014年は3期リリースし、2015年は6期から10期を予定している。傅若清が期待を寄せる「優良映画データベース」は2015年末までに全体で50から100本の規模になる予定だ。(了)
出典:http://finance.sina.com.cn/chanjing/cyxw/20140707/111719627331.shtml
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.108(2014.7.31)より
筆者:石川(上海戯劇学院教授、上海電影家協会副主席)「文匯報」2014年6月14日より
2014年6月14日、謝晋(シェ・チン)監督の名作『舞台姐妹』〔邦題『舞台の姉妹』〕が第17回上海国際映画祭のオープニング作品として観客にお披露目された。
この映画は1964年に撮影され、ちょうど公開50年の記念の年に当たる。今回、上海国際映画祭組織委員会とイタリアのボローニャニあるフィルム復元専門の現像所が共同で、この映画をオールカラーで4K復元した。
近年、デジタル技術の発展に伴い、古い映画フィルムの保護や復元は日増しに世界中の人々の注目を集めている。
2012年、伝統的な映画フィルムの生産は世界的に全面ストップした。これは、映画がオールデジタル時代に入ったことを意味するだけでなく、100年余り映画の主たる物質的メディアだったフィルムが、文化遺産の列に加わったことを暗示するものだった。
ここ10年間では多くの国や地域で古い映画の保存と復元をテーマとした国際映画祭が相次いで開かれ、カンヌ、ベルリン、ベネチアなど著名な映画祭でも次々と旧作の復元上映部門が設けられている。こうした旧作の復元と再上映は、国際映画祭の新たなトレンド、最も輝かしい文化的スポットとなりつつある。
上海国際映画祭も人後に落ちず、3年前から民間資本と協力して国産映画の復元と上映を開始した。過去3年間に、上海国際映画祭と海外関係機関との協力により、『十字街頭』(1937年)〔邦題『十字路』〕『八千里路云和月』(1947年)〔邦題『八千里の路、雲と月』〕『一江春水向東流』(1947年)〔邦題『春の河、東へ流る』〕『麗人行』(1949年)〔邦題『三人の女』〕『烏鴉与麻雀』(1949年)〔邦題『からすとスズメ』〕など中国映画史に残る古典的作品が復元された。
しかし、上述した映画はすべてモノクロ映画で、2K技術による復元である。今回の『舞台姐妹』は4Kオールカラー復元であり、技術の難度で言えば前者と遥かにかけ離れており、コストや期間をとっても更に高い要求が求められた。
従来の2K復元では、画面の異物を取り除き、初めて作成されたプリントの視覚的質感を画面上に取り戻し、観客により快適に、より鮮明な視覚的感触を届けるのが主な任務だった。
今回の4K復元では「古いものを古いままに復元する」という原則を守り、1964年に『舞台姐妹』が世に公開された時の視覚的感覚、オリジナルそのままの再現が求められた。
では、どのようにして「古いものを古いままに復元する」のか? 今回の4K復元で求められた最大のチャレンジである。ボローニャにある映画復元専門の現像所が今日、最新のデジタル復元技術を持っているとはいえ、彼らは1960年代の中国映画の背景や文化的な状況、美学的な趣向を知らない。これでは、単に優れた復元技術に頼ったとしても「古いものを古いままに復元する」という目標が達成できない。中国側の映画史家と技術者の共同参加が必要であり、イタリア側と緊密に連携を取りながら十分な歴史的資料や文献を提供し、最終的に「古いものを古いままに復元する」という文化的使命が完成するのだ。
このため、中国側の協力者は大量にあるオリジナル文献資料の調査に取り掛かった。
1964年1月、中国文化部電影局が公布した「劇映画撮影に関するセット、フィルムの基準額(草案)」や『舞台姐妹』の撮影台本完成版、謝晋監督の論述、カメラマン、周達明や陳震祥が書いた撮影創作のまとめ、美術の葛師承や呉本務のデザインノート、また、当時の文化部副部長〔副大臣〕だった夏衍の『舞台姐妹』に対する修正意見、映画の主役を務めた謝芳(シェ・ファン)の回顧録、この映画フィルムの現像を担当した当時の上海映画技術所のトップ、査瑞根の回顧録などだ。
こうした文献史料が、違った角度から1960年代の中国映画の撮影現場を人々に想起させ、今日の復元に正確な歴史的根拠を与えた。
例を挙げると、撮影にどのフィルムストックを使ったかという点は、感光度やカラー還元といった核心的な基準に直接的で重要な証拠を与える。
文献によると、『舞台姐妹』は1964年、文化部の重点製作フィルムに選ばれ、東南アジアや香港・マカオに輸出される計画だった。
当時の厳しい経済的状況の中で文化部の特別許可を得たことにより、天馬撮影所は唯一、予算を超えるカラー劇映画の製作を実現した。製作コストは40万人民元余りで、一般のモノクロ映画に比べると倍以上の出費となった。その上、更に特別な許可を得て、高品質ではあるが非常に高価なコダックの輸入フィルムを使うことができた。
査瑞根の記憶によると、1964年、上海映画技術所の設備や消耗材は以前と比べて大幅に改善され、「ツァイス」の分光計や「ベートーヴェン」のカラー密度計など、当時、国際的にも先進的な光学機器を導入し、さらに西ドイツから輸入したアグファ5型カラーネガとカラーポジ現像技術を使い始めた。これらは上海映画技術工場のカラーフィルム現像の質を大幅に引き上げた。当時、香港にいたフィルム取り扱い業者が、元々英国で現像する予定だったフィルムを上海へ送ったほどだ。女性キャストの顔の色を「卵の殻」と同じ効果で現像するためである。
映画の視覚的特長を述べると、謝晋は演出談でこう語っている。「映画の色調はあっさりとした感じ。ただし暗い中にも人物の濃厚さを際立たせる必要があった。」
これは今回、色を復元する際の重要な根拠となった。当初、イタリア側から送られてきたフィルムの色はオーバーフロー気味であり、特に赤や緑などの彩度が強すぎ、謝晋の言う「あっさり」と合致していないことは明らかだった。そこで試写フィルムのチェック後、中国側の専門家は議論を重ね、イタリア側が色補正する際に色の彩度について適切な修正や補正を求めた。
また、文献資料を根拠として提供するほか、中国側はさまざまなルートを通じて、当時、映画撮影に関わった人物を探し出し、試写フィルムをチェックしてもらった。『舞台姐妹』で妹の月紅を演じた上海越劇院の曹銀姨(ツァオ・インティ)、胡弓奏者の金水を演じた上海映画撮影所の徐才根、助監督の陳嬋や上海映画局の元幹部、陳清泉らだ。
試写を見た時、曹銀姨は「劇中の私が身につけているいくつもの衣装やアクセサリーは、見ていると本当に美しいわね」と感慨深げに語った。表面的に見れば、これは当時の人が持つ一種の主観的で感覚的な発言に過ぎないが、しかし文献資料と照合してみると、その背後にあるその人にしかわからない歴史的情報が多く見つかるかもしれないのだ。
1962年、上海の「海燕」「天馬」二つの撮影所は香港と協力し、越劇〔中国の伝統的な演劇〕の演劇映画を製作した。撮影に合わせるため、上海越劇院は新しい舞台衣装を特注した。『舞台姐妹』で借用した衣装は正にこの特注品なのである。シルクの鮮やかな質感、手刺繍の美しいデザイン、折りたたんだ時に生まれた模様の跡、すべてが復元後の画面にはっきりと表れた。なるほど、曹銀姨の記憶と感慨を引き起こす結果となったわけだ。
4K復元のもう一つの難点は「ノイズ除去」である。いわゆるノイズ除去は画面上のノイズをクリーニングする処理であり、古いフィルムには多くのカビ跡やキズ、不純物、フィルムベースの浸食による抜け落ちなどが残るが、除去作業によってこれらを整理し、初公開当時と同じきれいな質感に画面を戻す。
「古いものを古いままに復元する」という原則に従い、過度なノイズ除去は避けなければいけない。なぜなら「ノイズ」はまさしくフィルムに見られる視覚的特徴の一つだからである。ノイズを過度に除去すれば画質は「きれい」になり過ぎてしまい、高解像度液晶と同じような視覚効果が出てしまう。それではフィルム特有の質感が無くなる。
イタリア側は、試写フィルムの段階でこの問題に気づいた。中国側の専門家との検討を経て、50年前のフィルム特有の「ノイズ」を適度に保持し、歴史的なオリジナルの質感を残した。
結果的に、最終的な上映の効果から見ると、今回の『舞台姐妹』4K復元版は「古いものを古いままに復元する」という目標を基本的に達成した。
技術面だけにかかわらず、美学面でも国産映画の復元レベルをかつてない高さにまで引き上げた。
はっきりしたことは、今回の事例が今後の国産映画の復元の模範となる重要な意義を持ったということである。現在までのところ、上海の倉庫には国産映画が3,000作品存在する。時間の推移とともに、これらフィルムもデジタル復元の列に追加されるだろう。
いかにして「古いものを古いままに復元する」という原則を厳密に守り、これらの旧作が持つ往時の芸術的魅力を再度奮い立たせるか。今回の4K版『舞台姐妹』の復元上映が、今後の旧作復元のマイルストーンを打ち立てたことに疑いはない。(了)
出典:http://whb.news365.com.cn/wybj/201406/t20140614_1131073.html(上海の新聞「文匯報」から抜粋)
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.107(2014.6.30)より
筆者:李宏宇(南方週末記者)「南方週末」2014年4月より
第4回北京国際映画祭で最も高いチケットは疑いようもなく『神女』〔邦題『女神』〕だったろう。2014年4月22日に中国電影資料館で2回上映され、チケット代は1枚200人民元〔約3,000円〕だった。
80年前に阮玲玉(ロアン・リンユィ)が主演したこの無声映画の名作は、中国電影資料館とBFI(英国映画協会)が共同復元した最新版だ。600人入る劇場では、前方の座席がいくつか取り払われ、作曲家の鄒野(ツォウ・イエ)が映画のため用意した新譜を中国フィルハーモニー管弦楽団が演奏した。
北京国際映画祭は、2013年にトライアルで復元映画を上映した後、2014年の映画祭で自身の「復元部門」を持つようになった。中国で現存する最も初期の1922年の『労工之愛情』〔邦題『八百屋の恋』〕『小城之春』〔邦題『春の惑い』〕の中国映画史における位置付けについては多くを語る必要はないだろう。『神女』以外に阮玲玉が主演した『新女性』は、主人公の人生と彼女のその後の人生が驚くほど似ている。1948年の『万家灯火』〔邦題『家々の灯』〕は今日の映画に少ないリアルなタッチで、登場人物の境遇は時代を超える共感を呼んだ。
4月15日、北京国際映画祭の開幕前日、ノルウェー国立図書館のRoger Josevold副館長は中国電影資料館に復元された1本の映画──1927年に上海影劇公司が製作した『盤絲洞』を渡した。
中国電影資料館には、この映画の美しいプレス資料集が残っている。このほか古い雑誌や書籍も紹介記事があり、映画史家はこの映画の監督が但杜宇であること、また劇中でクモの精を演じたのが彼の妻で、当時の上海でF・F女性(Foreign Fashion=洋風)として名を鳴らした殷明珠だということは知っていたが、誰も『盤絲洞』のコピーが世に残っているとは思わなかった。
2014年4月、国際フィルムアーカイブ連盟の年次総会が北京で開かれた。会議では加盟団体がお互いに「孤児フィルム」を探すことが決定された。すぐさまノルウェー国立図書館は中国電影資料館に、自館にとても古い中国映画があり、それがノルウェーで上映された最初の中国映画だと伝えた。双方はその後、資料のやり取りをし、半年後に『盤絲洞』の修復が始まった。
中国電影資料館のプログラムマネージャー、沙丹氏は記者に対しこう話す。「ショウ・ブラザーズがかつて復元した旧作映画は失敗例でした。すべてが新しすぎるのです。元の映画を見ている人は、この色は我々が当時見た色ではないと言います」。
2013年末、復元された『盤絲洞』は2014年春に中国に還るとノルウェー側から連絡があり、デジタルコピーとフィルムコピーが1部ずつ、中国電影資料館に寄贈された。
「以前、中国の怪奇映画を研究したければ、みな必ず上海影劇公司や但杜宇、妻の殷明珠の名前を挙げたものです。しかしこれらの名称や資料を知っているからといって何の役に立つのでしょう? 根本的にこの映画を見ていないのですから」と沙丹氏は話す。沙丹氏はまた、「21世紀以降、『盤絲洞』の発見と返還は、中国の映画アーカイブ業務の中で最大の目玉の一つです」と語った。
中国電影資料館の映画フィルムの復元作業は2007年から全面的にスタートし、これまでに国の予算3.7億人民元〔約600億円〕を使って7,000本の国産映画を復元した。その多くはデジタル化され、そして古典作品は精密な復元が行われる。電影資料館に収蔵されている3万本あまりの内、中国映画は約2万本で、すべてを最終的にデジタル化するという。内、少なくとも半数は復元が必要で、その多くは初期の古典的作品だ。
多くの映画はすでに復元できる可能性が低い。沙丹氏は少なくない映画フィルムが融け、くっついているのを見てきた。しかしこうした「死体」は捨てられず、残す必要がある。誰かが将来、新しい技術を使ってこれを復元できるかもしれないからだ。「今日の粗暴な行いが未来に多くの無念を残すかもしれないのです」と沙丹氏は話す。
映画フィルムの保存の歴史には多くの無念が残る。過去のナイトレート・フィルムはとても燃えやすく(クエンティン・タランティーノ監督の『イングロリアス・バスターズ』には、ナチス党員で満席の映画館を可燃性フィルムで爆破するシーンがある)、大量の映画資料がアセテート・ベースの不燃性フィルムにコピーされた後、従来のフィルムは燃やされてしまった。
現在、多くの映画はすべてデジタル方式で撮影、製作され、デジタル形式のまま電影資料館に保存される。一般に、人々は映画をデジタル形式でハードディスクに保存していれば、フィルムを適切な温度・湿度で保存しておくより簡単だと思うだろう。しかし、イメージ・パーマネンス・インスティチュート(IPI)のデータによると、フィルムは理想的な環境下で1,250年保存できるという。しかし、ハードディスクのデータについては、科学的証明がないとはいえ保存できるのは100年といわれる。
沙丹氏は「図書だと、今の私達には各種の電子本形式があり、PDFもあり、ネット文書もあります。しかし、国家図書館には必ず紙バージョンを納入する必要があるのです」「唐代や宋代の紙本は今日まで残りましたが、PDFが50年後に開けるかどうか? それはわかりません」と語った。
多くの映画ファンがご存知の通り、2014年ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した『白日烟火』〔邦題『薄氷の殺人』〕には、国内上映版とベルリン上映版がある。鄭君里が監督した1959年の映画『聶耳』にも2つのバージョンがあった。
「公開版とは違い、当時「ロマン版」というキスシーンが入るバージョンがありました。以前、中国最初の接吻映画は『天山傳奇』や『芦山の恋』と言われていましたが、実際には1950年代にあったのです。しかし「ロマン版」は小資産階級(プチブルジョワジー)だと批判されることを恐れ、公開されませんでした。物は残っているのでいつかロマン版の『聶耳』を公開することがあれば、我々は復元しますよ」(沙丹氏)。
商業価値の高い古典的名作は映画会社が大量の資金を投入して復元する。『アラビアのロレンス』公開50周年の2012年、ソニー・ピクチャーズはこのスペクタクル巨編を4K復元した。デヴィッド・リーンはこの映画を撮るのに16カ月かけたが、復元には26カ月、200万ドルを要した。
2013年の北京国際映画祭で『アラビアのロレンス』復元版が上映された際、600枚のチケットは2日で完売した。この映画を上映する際は1回につきソニー側へ2,000ドルを支払わなければならない。また、マーティン・スコセッシの「世界映画基金」は『牯嶺街少年殺人事件』『赤い靴』『豹』などの名作を復元している。『牯嶺街少年殺人事件』は複雑な版権帰属が原因で1回の上映に5〜6,000ドルかかり、今日に至るまで誰もブルーレイディスクの発行契約に至っていない。
アーカイブズの面から見れば映像に値段の高い安いはない。沙丹氏はこう話す。「今もし1920年代のボロボロのフィルムが見つかったとすれば、私達はそれを国宝だと思います。なぜなら、当時のフィルムはもうほとんど存在しないのですから」。
「芸術的価値から言えば映画には当然、上下の区別があるでしょう。『白日烟火』は『私人訂制』〔2013年公開の中国のコメディー映画〕に比べれば芸術的価値は高い。しかし、200年後の人は、現在の映画に見られる一つ一つのシーンを通じて、この時代の人はどんな話をして、どんな服を着て、何を考え何をしているのかということを知るのです。これはアーカイブズの最終的な目的だと思います」。(了)
映画保存協会メールマガジン『メルマガFPS』Vol.106(2014.5.31)より
「北京商報」〔北京発行のビジネス・経済紙〕2013年8月30日より
今〔2013年8月現在〕、全国の映画館で上映されている『ジュラシックパーク』3D版は、1993年のオリジナル版の一部を復元して3D化したもの。興行収益は2億人民元〔約34億円〕を超えた。
「簡単な仕事のようで、実は難しいんだ。古いフィルムには傷、揺れ、画面のチラつき、カビ染みなどがある。傷みのひどいフィルムだと10人同時に取り掛かっても半年は必要だね」。映画復元師〔原文では「修復師」〕の張騫月さんは記者にこう語った。
「1931年に阮玲玉(ロアン・リンユィ)と金焔(ジン・イェン)が主演した『桃花泣血記』を例に挙げると、この映画は約14.4万コマから成る。劣悪な環境で保存されていたので、映写したら画面いっぱいに大量のカビ染みや汚れ、ひっかき傷が広がった。だから手で1コマずつ修復したんだ」
鴻視線科技(北京)有限公司の孫志総経理〔社長〕は、技術的な問題以外にも色調整の面で芸術的な理解が必要だと話す。
「現在の映画復元師は80年代生まれの若い人が中心で、先輩世代の復元師はすでに引退した人が多い。旧作の色調整ができる人をどうにか探して、その時代にあった色に導いてもらうことも大変難しい。こうしたことも復元の仕事を難しくしているんだ」
近年、『東邪西毒:最終版』〔邦題『楽園の瑕』〕や『倩女幽魂』〔邦題『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』〕等、多くの国産映画が国内で復元され、再度スクリーンに登場した。しかし、興行収益は思うように伸びなかった。
孫志社長は、こうした古い映画が再度映画館で上映されるには、「二次的なパッケージ化」が必要だと語る。
中国電影資料館が8月に上映した1962年の英国映画『アラビアのロレンス』は、画面の修復及びカラーの再現が非常によく出来ていたが、唯一残念だったのはステレオ音声だったことだ。現在の音声技術はすでにDolby Atmos(全方位サラウンド)のレベルに達しているが、古い映画の音声はそれに遠く及ばない。
よって、音の面でも最新技術が出しうる音に適合したデモを制作し、観客には古典映画鑑賞と同時に新技術も体験してもらうのだ。2Dが3Dに変わるのと同じように。
昨年公開された『タイタニック』3D版から、今年公開の『ジュラシックパーク』3D版まで、海外の「リニューアル版」大型映画が高い興行収益をたたき出した大きな理由に、こうした映画がみな3Dという「コート」を着ていたことが挙げられる。
孫志社長は、「『覇王別姫』のような古い国産映画の大作でも復元すれば巨大なマーケットが生まれるが、こうしたフィルムがもし、二次的な価値感や芸術的価値も欲しいと思うなら、復元と現代化という技術的な方法で二次的なパッケージ化を行うことが必要だ」と話した。
現在、復元が待たれる国産映画の旧作は3万タイトルあまりと言われる。しかし、映画復元の専任スタッフは千人にも満たない。
「映画復元師はパソコンの前に座ったら1日、まじめに働いたとしても1人が1年で復元できるフレームは多くても200〔原文のまま〕。もし、古い映画に対する愛情が無ければ、大部分の若者はこうした仕事のプレッシャーに耐えられないだろうね」と張騫月さんは話す。
孫志社長も復元の基準は業界内でも早期解決が待たれる難問と話す。
「古い映画となると、どの程度の復元が合格で優秀なのかは経験と自己判断に頼るしかない。業界基準が無いということは映画復元の発展にとって不利なことであり、標準化、規範化を望んでいる」と述べた。(了)
出典:http://www.ce.cn/culture/gd/201308/30/t20130830_1384757.shtml
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