無声映画:発見―復元―保存―上映!(前篇)

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無声映画:発見―復元―保存―上映!(前篇)

第12回映画の復元と保存に関するワークショップより
セッション「無声映画:発見―復元―保存―上映!」

モデレーター:柳下美恵(無声映画伴奏者)
登壇者:松戸誠(マツダ映画社 専務)、村川英(城西国際大学 教授)、常石史子(フィルムアルヒーフ・オーストリア 技術部長)

モデレーターの柳下美恵さん

モデレーターの柳下美恵さん

2017年の「第12回映画の復元と保存に関するワークショップ」は盛会を極め、「映画のまち調布」の東京電機大学には270名もの参加者が集まりました。同ワークショップ常連の柳下美恵さんは、第11回のセッション「今を生きる無声映画(海外編)」で初めてモデレーターを務め、海外における日本の無声映画への評価、松田春翠氏をはじめとする活動写真弁士の公演史、そして現役弁士の活躍をわかりやすく伝えてくださいました。

以下はその続編、「無声映画:発見―復元―保存―上映!」の模様です。柳下さんと3名の登壇者の皆さんの豊富なご経験に基づくエピソードの数々を、どうぞお楽しみください。

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柳下:〔♪出囃子とともに〕無声映画伴奏者の柳下美恵です。初日からこのワークショップに参加していますが内容が濃くて、既に皆様お疲れではないですか? 講義2日目の本日もセッション3つと実習報告会が用意されていて、夜はお近くの東京現像所で上映会があります。朝のこの時間はゆる〜くやっていきますね。

登壇者

登壇者(右から松戸誠さん、村川英さん、常石史子さん)

登壇者の皆さんをご紹介しますと、まずは松戸誠さん。活動写真弁士の草分け、初代・松田春翠のお孫さんで、二代目・松田春翠(1925-1987)の息子さんです。無声映画を1,000作品以上お持ちのマツダ映画社の専務として、普段は裏方のお仕事ですが、本日は私がここに引っ張り出してしまいました。

次に城西国際大学の教授で映画評論家の村川英さん。『エリア・カザン自伝 上・下』(朝日新聞社 1999)ですとか、このセッションに近いところでは『映画愛――アンリ・ラングロワとシネマテーク・フランセーズ』(リブロポート 1985)の翻訳者でもあり、のちほど詳しく説明しますが、貴重な「宇賀山(うかやま)コレクション」を発見した功労者でもあります。

そして、もはや説明の必要はないとは思いますが、昨日、基調講演をお聴かせくださった常石史子さんです。2000年から東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)で研究員を勤められ、2006年からはフィルムアルヒーフ・オーストリアにお勤めで、現在は技術部長をされています。どうぞよろしくお願いします。

米どころで見つかった『和製喧嘩友達』

柳下:さて、本セッションは「無声映画:発見―復元―保存―上映!」と題していますが、まず発見の経緯からお聞かせいただけますか。幻の映画フィルムの発見にはいつもドラマがありますが、村川さんの場合は東京国際映画祭(TIFF)がきっかけだったのですよね。

村川:TIFFは日本映画の旧作上映にも力を入れていましたね。映画生誕100年の頃、私は成瀬巳喜男さんを研究していたので、期待していたのは成瀬作品のニュープリント上映でした*1

同じ時期に親類から連絡がありましてね。私の実家は魚沼コシヒカリの産地として知られる新潟県の塩沢町――現在は南魚沼市――ですが、「町制100周年を祝って古い映画フィルムを上映したいけれど、パテベビー〔9.5mm〕の映写機はもう動かないし、どうすればいいだろう」という相談でした。それでピンときまして、とりあえず手元にある映画の題名をざっと書き出して送ってほしいと頼みました。

TIFFの期間中、〔「映画生誕百年祭実行委員会」のメンバーとしてニッポン・シネマ・クラシックのプログラムを組んでいた〕蓮實重彦先生や山根貞男さんがいらしたので、届いた題名一覧を一緒に見ましたら、なんと『和製喧嘩友達』(松竹蒲田 1929)が含まれるのでびっくりして。

柳下:小津安二郎監督の現存する無声映画の中で二番目に古い作品ですね。

村川:それに斎藤寅次郎監督の『石川五右衛門の法事』(松竹蒲田 1930)もあったんです。マスコミで報道されると大きな反響を呼びました。

持ち主の宇賀山正昭さんは昔からの知り合いで、父親の正範さんは神主さんだった方。映画コレクターではなかったけれど、高級雑貨を扱う裕福なお宅でした。東京の高級デパート等で色々と購入される中に「パテベビー」〔9.5mm幅のフィルム〕もあったわけ。塩沢は賑やかな土地柄でね、秋祭りに神社で催される映画会は大人気でしたよ。正範さんはとても器用で実直なおじいさまでした。

柳下:お会いされたこともあったのですか。

村川:子どもの頃にね。そんなことから、私がNFCに取り次ぎました。

「宇賀山コレクション」一覧

「宇賀山コレクション」一覧(クリックして拡大)

柳下:その「宇賀山コレクション」計30本の一覧を画面に出しますのでご覧ください。ジャンルが多様ですね。アニメーションもあれば、内田吐夢監督の『天国その日帰り』(1930)もあります。

当時NFCでこのコレクションの復元を担当されたのが、まさに常石さんだったということですが、9.5mmフィルムについて少し教えていただけますか。

パテベビーの形状

パテベビーの形状

常石:私は「宇賀山コレクション」の復元の直後にNFCに入ったので、直接の担当は〔当時の映画室長の〕佐伯知紀さんでした。

普通の映画フィルムはサイドにパーフォレーション〔送り穴〕がありますけど、9.5mmでは真ん中にあります。両サイドの面積も含めて幅をフルに画像に使えるので16mmにほぼ匹敵するくらい画質がいい。よく考えられたフォーマットです。ただ、両サイドを押さえられないので、劣化で湾曲してしまうとシャープな画像が得られません。復元の際にそこが大問題になります。1コマの持つ情報のポテンシャルは非常に高いので、そのままフィルムに複製するよりデジタル化するのに向いていると思います。

復元には手間がかかりますけど、やりがいもあるので、私は大好きなフォーマットです。

それより村川さんのお話、いま初めてうかがったので、もう少し詳しくお尋ねしたいのですが。つまり地元の方たちは、『和製喧嘩友達』をお祭りでご覧になっていたわけですね?

村川:田舎のお祭りですから、「むっつり右門 」〔『右門捕物帳』の主人公〕ですとか、時代劇はよく見せていたようです。それで、よく見ると時代劇のフィルムは汚れて傷んでいるけれど、現代劇の『和製喧嘩友達』はね、そんなに見せてなかったからか状態がいいの。

常石:小津映画は人気がなかったというのは本当なんですね。

村川:地元の映画文化を調べたことがあるのですけど、戦後も東宝のサラリーマンものはダメ。人気があるのは断然、東映時代劇。

なぜ時代劇以外の作品も選んで購入したかというと、宇賀山のおじいさまはベースボール・マガジン社の初代編集長の池田恒雄さんも輩出した小千谷(おじや)中学〔現在の新潟県立小千谷高等学校〕の出身だったんです。要するに、当時の「モダンボーイ」の気風があったのね。

柳下:宇賀山コレクションには、熊谷久虎監督の『本塁打』(日活太秦 1931)も含まれます。

村川:自動車、楽器、レコードもお好きでした。パテベビーもこれといった根拠があるわけではなく、ただ「面白そう」というだけで買ってみたら、本当に面白かったということです。

常石:幸いにして映写機が動かなくなってお声がかかったということは…… もし映写機が動いていたらわたしたちの目に触れることなく、地元にとどまっていたかもしれないですね。

村川:そう思いますね。

常石:小津の幻の映画が発見された、と当時私たちはたいへん興奮したものですが、その地域では秘密でもなんでもなく長年普通に存在していて、公共の場で上映されてさえいたというのが面白いですね。地元の人たちは、あって当然のものとして楽しんでいたわけで、それが小津の残っていない幻の映画だなんて思うわけがないですものね。

家庭用のパテベビーは正確にはわかりませんが、商品カタログがあったくらいですから、作品ごとに数百本は販売されたでしょうか。「宇賀山コレクション」の『和製喧嘩友達』は、その中から生き延びた1本ということになります。

村川:町には2台パテベビー映写機がありましてね。もう一台は私の祖母の家に残っていました。見つかった映画フィルムは専ら出征の様子や雪下ろしの風景を撮影したもので、NHKアーカイブスさんが喜びそうな内容。でも情報がないと、どうすればいいのかわからなくて……。

NFCの方たちによると、やはり映画コレクターの持ち物から幻の日本映画が発掘されることが多いそうですね。でも私の親類は映画に詳しいわけではないし、私は映画研究者ではあるけれども映画の発見や復元に詳しいわけじゃない。たまたまTIFFの会期中に細い糸でつながって、プロの手に渡ったわけです。

柳下:出会いや発見はいつも偶然の重なりというか、まるで空から降りてくるかのようですね。

幻の『雄呂血』、オリジナルネガの発見

柳下:松田春翠さんは、お仕事の目的で映画フィルムをお探しになっていたこともあったと思います。「宇賀山コレクション」とマツダ映画社さんのコレクションを比較しますと、形状こそ異なりますが重複する作品もありますね。

重複作品:
月形半平太
忠臣蔵
漕艇王
坂本龍馬
地雷火組
弥次喜多伏 見鳥羽の巻
血煙荒神山
ツェッペリン号他
第十回国際オリンピック大会

松戸:私の祖父も弁士でしたから、父は子どもの頃から「少年弁士」として活動していました。戦時中は芸能班のようなところに所属していたと聞いています。

復員後――終戦直後ですね、九州出身の浪曲師の戦友に「おまえ弁士をしていたなら、一緒に一座を組まないか」と誘われたそうです。九州では、筑豊あたりの炭鉱景気で芝居や映画の需要があったのでしょう。どこから探してきたのか、戦前の無声映画を携えた弁士もいたらしく、巡業先のいたるところで弁士の説明付きで無声映画を目にする機会があったそうです。

あるとき、数ヶ月前にみたのと同じ映画がまた次の巡業地でかかっていたのですが、重要な場面がスパンと抜けて上映時間が短くなっている。無声映画は、まあ全盛期から一巻くらい飛ばして上映することがあったようで、そういった事情を知っていた父は、「なんであの場面を上映しないのか!」と映写室に文句を言いに行った。

そうしたら映写技師が、「わざとじゃない。古い映画フィルムだから途中の巻が傷んで使いものにならなくて、切って捨てるしかなかった」と。

「戦禍をくぐってよく生き延びたものだなあ」と感心してみていた映画のフィルムが捨てられてしまったと聞いて、父は「あれ?」と思ったそうです。同じ作品はまだどこかに残っているのか、それともこれが最後の一本なのか。

弁士稼業を再開して以降の父の映画フィルム収集には、もちろん商売の目的もあったでしょうけど、でも集め始めるそもそものきっかけは、このときふと感じたことにあったと聞いています。

柳下:なるほど……。松田春翠さんが収集された結果、世界でマツダ映画社しか持ってない作品もいくつかある中で、『雄呂血』(阪東妻三郎プロダクション 1925)はとくに人気があります。時代劇スターの阪東妻三郎(1901-1953)が独立プロを起こして主演第1作目です。

松戸:そうですね、『雄呂血』は特別な映画です。

祖父が弁士として最後に所属したのが、千葉にあった「亥鼻(いのはな)館」という映画館でした。阪妻プロの撮影所が同じく千葉の谷津海岸にあった頃、父は「弁士の子どもだからできるだろう」ということで、子役として何作かの映画に出演しました。そのとき阪妻のお弟子さんの阪東要二郎(坂東要次郎?)さんが若手に怒って、「……ったく、お前らの立ち回りはなんだ!お前らにオヤジの『雄呂血』をみせたいよ」とおっしゃていたそうです。

雄呂血の一場面

雄呂血の一場面(wikimedia)

『雄呂血』は大正時代の作品ですから父は見ていなくて、「へえ、そんな作品があるのか」と思っていたそうです。阪東さんによると、「記念碑的な作品だから、大将のご自宅にちゃんと保存してある」。

父は後にどういうご縁か、田村高廣さんと親しくさせてもらっていました。それで『雄呂血』のフィルムが残っていないか、高廣さんにも確認したそうです。すると、「もしかしたら映画フィルムの入った桐箱があったかもしれないが、父が亡くなった時〔1953年〕はたいへんな状況で、死を悼んでくださるのはいいのだけど、お客様が帰るとアルバムの写真が全部なくなっている…… それくらいの大混乱だったから、今の田村家には残っていない」というお答えだったようです。

柳下:映画史に詳しくない方も、役者になった阪妻の息子さんたち――田村高廣、正和、亮の「田村三兄弟」はご存知ですよね。

松戸:その後、大阪のある業者が『雄呂血』のネガを持っているという話を聞いて、父は仕事で関西に行くたびにそこに通って「譲っていただけないか」とお願いしたんです。その持ち主も『雄呂血』の上映で一旗上げたかったのか、首を縦にはふらなかった。ただその方はずっとご病気で入院されていたようですね。何年通ったのかわかりませんが、その方が亡くなると、ご遺族から「あなたが一番しつこかったので、譲りましょう」と連絡が入りました。

入手した『雄呂血』のオリジナル・ネガを、まだその頃ご存命だった二川文太郎監督(1899-1966)に見ていただくと、二川監督は「自分がつないだそのままや」とおっしゃったそうです。

柳下:へえ……!監督がご存命だったとは、幸福な発見事例ですね。

松戸:発見後の最初の上映は1965年7月7日です。皆で手分けをして探しても、当時は都内にふさわしい会場がまだ少なく、なかなか見つからなかったところに、1,000人以上入る共立講堂(千代田区)にキャンセルが出て、押さえることができたそうです*2

柳下:7月7日、七夕ですね。

松戸:阪妻さんの命日です。

柳下:……それはすごい!

松戸:その日は、京都の二尊院で十三回忌の後、高廣さんや正和さんも会場に駆けつけてくださる段取りで、大々的に宣伝したそうです。ところが前売りがまったく売れなくて「これはダメだね」と諦めていた。そうはいっても歴史的な作品の初公開から40年ぶりの上映です。蓋を開けてみたら超満員。会場には中村錦之助(萬屋錦之介)さんはじめ当時の大スターの姿もあって、父は「阪妻さんが呼んでくれたようだね」と話していました。

柳下:では、その『雄呂血』をここで少しご覧いただきます。臨場感が出せるかわかりませんが、クライマックスの有名なチャンバラ場面を、キーボードの生演奏とともにご覧ください。

実演1『雄呂血』抜粋(約3分)

柳下:内容を説明せずに上映しましたが、運命に翻弄された主人公が最後に捕まってしまう、迫力ある場面でした。

常石:『雄呂血』はこれまで何度見せていただいたかわかりませんが、松戸さんのお話にあった『雄呂血』のオリジナルネガが見たくて見たくて、いまそのことで頭がいっぱいです。ものすごく速いカット…… それこそ1ショット数フレームの目にもとまらぬ速さですが、そこに全部手作業でつないだ跡があるわけですからね!

伊藤大輔監督も、やはりチャンバラ場面の編集で有名です。「黒駒奇譚」〔『[映畫読本]伊藤大輔 / 反逆のパッション、時代劇のモダニズム』(フィルムアート社 1996)〕によると、チャンバラ場面は編集の段階で一コマか二コマ、黒いコマを入れ込む――つまりほとんどサブリミナル効果のようなものですね。ところが黒を入れるつもりがネガとポジを間違えて白になって、逆にすごい効果が出た、といったような、震えるほど面白い話が書かれています。

2001年のポルデノーネ無声映画祭の日本映画特集では、澤登翠さんにイタリアまでお越しいただいて、マツダ映画社の英語字幕版『雄呂血』を上映しました。インタータイトル(挿入字幕)だけでなく、弁士の説明の翻訳が全体に入っています。作品自体の力に、弁士の説明と音楽という上映形態が揃うと、まあ最強ですね。日本の無声映画を海外でみせるとき圧倒的に強い。それはもう大熱狂でした。

>> 後篇に続く


*1:TIFFの企画「ニッポン・シネマ・クラシック」(1995-1998、2000-2008年)は日本映画の旧作をニュープリントや英語字幕付プリントで上映していた。なお、村川英さんの成瀬研究の成果に『成瀬巳喜男 演出術――役者が語る演技の現場』(ワイズ出版 1997)がある。また、宇賀山コレクション発掘の経緯は「雪国の土蔵から出てきた「幻の小津映画」」(『新潮45』2000年7月号)に詳しい。

*2:当時は日比谷公会堂と並ぶ都内の大講堂として「日本の文化の殿堂」と呼ばれていた。

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