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オーファンフィルムとは何か?

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オーファンフィルムとは何か?

本稿は、パオロ・ケルキ・ウザイ氏が当時ジョージ・イーストマン・ハウス映画部門の代表という立場で、「嵐の孤児シンポジウム:デジタル時代の“オーファンフィルム”救済」(1999年9月23日/サウスカロライナ大学)において発表したものです。ご本人より翻訳及び掲載許可をいただきました。
文中の図は、日本語版のために独自に制作したものです。

オーファンフィルムとは何か? ― 定義、論拠、論争

パオロ・ケルキ・ウザイ

私の職場であるジョージ・イーストマン・ハウス(www.eastmanhouse.org)で2年前に起こった出来事をお話しさせてください。ある日、通用口の扉を開けると、几帳面に3列に積み重なった何缶ものフィルムが目の前に置かれているではありませんか。石を重しにした名前のない置き手紙には、「どうか面倒をみてやってください。私はサウスカロライナに引っ越すことになりました。フィルムたちが何かのお役に立ちましたら幸いです」とあります。どうやら1920年代の16mmプリントがアルファベット順に並んでいるようです。フィルムは泣き叫ぶでもなく、健康状態も良好のようなので、館内に運び入れて登録係のところまで連れて行くことにしました。よく調べて、フィルムアーカイブとして何がしてあげられるかを検討するためです。

これぞ典型的なオーファンフィルムの一例。
これ以上オーファンらしいオーファンもないでしょう。

私が知る限り、「オーファン(孤児)フィルム」というフレーズを初めて公の場で使用したのは、デイヴィッド・フランシス(※)です。1993年、米国映画保存計画についてのロサンゼルス公聴会の場でした。このときまさに、オーファンフィルムという言葉が正式にフィルムアーカイブ用語兼学術用語となったのです。デイヴィッド・フランシスが生み出した数知れぬフレーズの中でも、オーファンフィルムというのは印象的なだけでなく、実にわかりやすく、余計な説明を要しません。また、感情的な共感を呼びやすくもあります。フィルムについてさほど詳しくなくても、「まあ、なんて可哀想なフィルムたちなんでしょう」という気持ちにさせられた誰かが救済資金の提供を申し出てくれる可能性は、大いにあります。

*デイヴィッド・フランシス
元英国映画協会 国立フィルム&TVアーカイブ代表。
米国議会図書館映画放送録音物部チーフ(1991–2001)。

資金提供者には想像もつかない、いや我々ですら軽視しがちなことではありますが、一般に広まった「オーファンフィルム」という言葉には、実は複雑に入り組んだ裏事情があるのです。それをこれから簡単にご説明しましょう。まず、道徳的なディケンズの小説やオーファンが主人公の物語の登場人物を引き合いに出しますと、主人公であるオーファン、母親が一人、そして複数の父親。母親にあたるのがオーファン作成の元となった原版、複数の父親にあたるのが悪徳プロデューサー、映画監督、フィルムアーカイブとお考えください。度々言及することになる「両親」とは、そのプリントの原版、プロデューサー、監督、フィルムアーカイブを指します。

さて、一般的に我々がオーファンフィルムと呼ぶところのものは、極めて単純です。先ほどカレン・ラウド(米国議会図書館デジタル・ライブラリー)が、オーファンフィルムを「パブリックドメインにある無声映画」と定義しましたね。
いみじくも、ディケンズが言うところの「哀れなものは語りもせず」です。
全米映画保存基金のアネット・メルヴィルによると、オーファンフィルムとはニュース映画、無声映画、アヴァンギャルド作品、ドキュメンタリー等々、営利を目的とした復元の蚊帳の外にあるフィルムを指します。

何れも間違いではありませんが、そのような定義は巨大な氷山のほんの一角に
過ぎません。オーファンフィルムとは何なのか、共通認識を持つには、まず「オーファン」とは何を指すのか、そのコンセンサスを探るべきではないでしょうか。では、本の頁を捲るように歴史をひも解いてみましょう。この小説の第一章は「すべてのフィルムはオーファンでした」という一節で幕を開けます。どうして「すべてのフィルムはオーファン」だったかというと、当初、フィルムは売買の対象だったからです。オーファンの売買は映画の誕生と共にはじまり、1908年の夏まで続きました。映画会社はフィルムをこしらえ、プリントを焼き増しして販売しました。プリントの運命は購入者にすっかり委ねられていたので、そのオーファンを切り刻もうが、使役を課そうが、新たなフィルム製作に利用しようが、好き勝手なことができたわけです。売り払った後のプリントに何が起ろうと、売った側は知らぬ存ぜぬを決め込んでいました。しかし、転機が訪れたのです。オーファンを使ってさらに儲ける術があることに気づいた映画会社、フィルム製造業者、配給業者、映画館関係者らの団体は、売買の慣習に終止符を打ちます。オーファンを売りに出す代わりに、貸し出そうというのです。オーファンのレンタル開始。1908年という年を記憶にとどめておきましょう。引き続きフィルムを上映することはできても、1908年を境に、上映が終わったら親元へ帰さねばならなくなりました。万一帰してやらないと、ちょっとやっかいなことになります。

これが最初の分水界といえるでしょう。1908年より前に製作された映画はオーファンとみなして間違いありません。パテ社であろうが、エジソン社であろうが、バイオグラフ社であろうが、どの会社の映画も残存率は似たようなものです。
後に、業界はざっくり2分割されました。商魂たくましい、つまり何が何でも子供たちを家に戻したがる両親と、子供の面倒はみるかもしれない、みないかもしれない、検討くらいはするかもしれない、しばらく時間がたったら取り戻すかもしれないけれど、子供たちがあまりに遠くに行ってしまったら去るものは追わず、という態度の両親です。後者の例として、アラスカ州のドーソン・シティーに送られたフィルムがあります。返却されることなくスイミングプールの埋め立てに使用され、60年ものあいだ地中に眠っていました。

いずれにしても、いわゆるオーファン現象を誘発するのは、私が名づけたところのオーファンの「人口爆発」です。人口爆発の原因は、映画会社が配給用に膨大な数のプリントを作成したことにあります。両親は、いったいどれだけのオーファンを世に出したでしょう。数字の幅は0から数百まで考えられます。場合によっては、ネガが作成されただけで、プリントは結局1本も作成されなかった、ということもあります(アメリカン・ミュートスコープ&バイオグラフ社の作品にそのような例が見受けられます)。平均的には80~120本のプリントが作成され、大ヒット作のプリント数は数百本に上りました。映画がまだ完成してもいないのに130本ものコピーが先走って予約されたチャップリンの作品もあったほどです。

人口爆発について詳しく描写する代わりに、ごく簡単な図を使って発生経緯をご説明しましょう。

議論を進めるために、皆さんがご覧になっている図Aにあたるのが母親、つまりこの映画の原版(オリジナルネガ)で、この母親から1915年、9人の子ども、つまり9本のプリントが制作されたとします。長年この第一世代にあたるプリント9本は、次世代を生み出す元素材として使用されました。プリント3が1931年に使用されたとします。本来は染色と調色が施されていましたが、1931年にプリント3を使用して再作成された新たなインターネガBは、白黒のサントラ付フィルムでした。このBから5本のプリントが生まれました。1948年になって、プリント11を発見した誰かがもう1本のインターネガCを作成し、3本のプリントが生まれました。プリント作成の理由はこの際、無視しても構いません。1952年、プリント13を入手した別の誰かが、1948年版のCの作成者に内緒でもう1本のインターネガDを作成し、そこからさらに5本のプリントが生まれました。しばらく何の動きもありませんでしたが、1978年、あるフィルム蒐集家が第一世代のプリント8を発見し、16mm縮小ネガEを作成しました。このときは、オリジナルの染調色が代替技術で再現されました。こののEから生まれたのが、プリント23とプリント24です。

フィルムアーカイブの立場から問題となるのは、所蔵しているプリントが図の中のどれに当たるのか見極めることです。ここでは仮にプリント22としておきましょう。ジョージ・イーストマン・ハウスはこの作品のプリント22を所蔵しています。22以外はすべて行方知れずのようなので、オーファン22を保護し、傷を治療し、面倒をみます。これでオーファンにとって、もっとも相応しい居場所が与えられたと思いたいところです。成り行き上、少なくとも23本のオーファンに加えて、形状の異なる5本のオーファンが誕生しましたが、フィルムアーカイブはそのほかのプリントがまるで存在していなかったかのように捉えがちです。
別のプリントが偶然見つかって、2本を比較検討してみれば、より状態の良い新たなオーファン登場となるかもしれません。そうなると、はじめのオーファンの存在は視野から消えてしまうようです。

図にまつわる日付のことは忘れて、ある日付より以前に世に出たプリントに目を移しましょう。ある日付とは、パブリックドメインのフィルムが著作権の保護下に入った日付です。あるいは、フィルムの著作権が更新されなかったと仮定しましょう。その場合、すべてのプリントはオーファンはオーファンでも、少々意味合いの異なるオーファンといえます。誰も法的所有権を主張しないオーファンに、保護者は私です、と権利を振りかざす両親はいないのです。この概念は複雑です。フィルムがパブリックドメインにあるか否かに言及したところで、現実のごく一部を説明しているに過ぎません。

オーファンの定義として、3つだけ事例をあげてみましょう。1つ目は言うまでもなく、親を亡くした故のオーファンです。製作会社が倒産、あるいは監督が死亡してしまった場合、映画作家の遺産管理者は何を言ってくるでしょう。オーファンの置かれた状況について、一連の興味深い議論の口火が切られることになりそうです。同様に2つ目も欠かせない事例です。要約するとこうなります。
たとえ両親が生存していても、年老いて子供の存在を忘れ、尋ねても「わからない」ことがあります。忘れられた子どももまたオーファンであり、一生オーファンであり続ける可能性が高くなります。その理由は後ほど述べるとして、3つ目は、両親が誰かわからないという事例です。製作者も監督も不明となると、これがまた興味深い事件の呼び水となるかもしれません。両親がどうやってもわからないことを知った誰かが、「私がこの子の保護者です。私のものなのですから私が面倒をみます。証拠もあります」と言い出したりします。証拠などありはしないのですが、そういった申し入れは実際にあります。これがいわゆる「パブリックドメイン」ということなのかもしれません。

次に、両親が存命で、健康で若く裕福であるけれども、子どもの面倒はみない、という事例を考えてみましょう。どうして子どもに構わないかというと、ほかに面倒をみるべき可愛らしい子ともがいるからです。養父母は、背が高く金髪で青い目をした子どもをご所望です。しかし我々の手元にあるオーファンといったら、劣化が進行していて傷だらけのひどい有様です。「そんな子は願いさげ。ほかに出来の良い子がいるから、粗悪なオーファンはいりません」「では、イーストマンカラーの『風と共に去りぬ』のプリントはいかがでしょうか。傷だらけではありますが……」「いいえ、結構です。たとえ私が保護者だとしても、必要ありませんのでお引き取り下さい」。

中には、「プリントの状態は悪くないけれども、自分でインターネガをとって良好なプリントを作成済みなので、元素材は不要です」という人もいます。

「私こそ保護者であり、このオーファンを発見したのも私だけれど、家が狭くて子ども部屋を確保できません。どうか面倒をみてやってくれませんか?」というケースも少なくありません。だからこそ多くの映画会社が、フィルムアーカイブの所蔵品について十分把握しているにもかかわらず、プリントを取り戻そうとはしないのです。当面のあいだ養父母にオーファンの面倒をみてもらおう、という魂胆です。

最後に、強制連行されて労働を強いられてきたオーファンについても触れます。労働に耐えられなくなるときがオーファンとみなされるときです。映画会社は自分たちのフィルムだとわかっているのに、「さて、このフィルムであとどれくらい稼ぐことができる? 稼ぎもないのに家に戻しても仕方がないだろう」と考えます。製作した側が自分のフィルムであることを承知しているにもかかわらず、オーファンにされてしまうのです。しかし近頃、価値観がシフトし、オーファンへの注目度が年々高まっています。そのため、いかにも役立たずのオーファンですらお金になることに映画会社は気付きはじめています。つまり、ストックフッテージ・ビジネスこそがオーファンフィルムという概念の台頭を促したのです。

以上すべてのカテゴリーに共通しているのは、同世代の兄弟姉妹が増えすぎてオーファンが出てきてしまうという実態です。母親はすっかり疲れ果てて命を落としていきます。この『マンハッタン』のプリントをみてください。心霊写真のような画像ですが、かろうじて摩天楼をバックに映画の題名が読み取れますね。誰かがどこかでこのフィルムの面倒をみてくれているはず、という思い込みから、誰も面倒をみない、ということが実際に起こります。チャーリー・チャップリンのいかなる作品を例にとってみても、例の如く膨大な数のオーファンが存在します。やはり、きっとどこかの誰かが保存しているだろうという見込み違いから、結果的には誰もオーファンに目を向けていませんでした。その証拠に、チャップリンの映画のナイトレート・プリントはフィルムアーカイブの内にも外にもほとんど残っていません。

さて、オーファンにこれまで起こってきた出来事をある程度ご理解いただいたところで、オーファンの人生を語りたいと思います。その後のオーファンに何が起こったのでしょう。フィルムアーカイブの側にしてみれば、親のある子どもよりオーファンのほうが発見しやすいようです。なぜかというと、誰もオーファンフィルムを欲しないからです。1908年以来、映画会社が存続していて子どもたちの面倒を見ている限りは、フィルムは何であれ、あくまでも所有者のところに戻されるべきものです。確率的に、単独の場所で10本あまりのプリントが発見されたら、そのほとんどはオーファンでしょう。パブリックドメインか、あるいは両親が行方知れずの可能性が高いと考えられます。ほかにも、自分たちの子どもを素早く見分ける(赤ちゃんの首飾りのような)システムか何かを両親たる映画会社が構築したからこそ、オーファンになってしまうこともあります。例えばインタータイトル1枚1枚の中に会社のロゴを入れてみたり、ディズニー社のようにビンテージ・プリントの違法複製を見分ける方式を2、3採用していることもあります。

フィルムアーカイブの内でも外でも、両親というのは気まぐれなもので、何年もしてから「やっぱり返して」と言ってきたりします。フィルムアーキビストなら誰にも思い当たる節があるでしょう。両親によっては、孤児フィルムの所有権を取り戻すためにフィルムアーカイブに圧力をかけたり、嫌がらせをしたりすることもあります。フィルムアーカイブの立場を正当化するために極めて効果的なのは、両親がやってくるまでオーファンの面倒をみていたのはフィルムアーカイブであり、フィルムアーカイブこそがオーファンを適切な環境で保護してきたのだ、というゆるぎない事実でしょう。

最善の活用方法であっても、オーファンフィルムの寿命を縮めてしまうことがあります。寿命が縮まるといえば、両親の虐待による損傷が最も致命的です。
貧しさ故にオーファンの面倒をみるだけの資金を持たない両親とも、フィルムアーカイブは関わり合うことになります。

フィルムアーカイブの外では、ホームムービーの事例がよく知られています。
持ち主、両親、映画作家、プロデューサー、興行主らが、もう役に立たないから捨ててしまおうと決めたときから、あるいは、VHSテープにコピーしてオリジナルを処分しようと決めたときから、ホームムービーはオーファンになってしまいます。しかし良く知られているように、問題はそれだけではありません。
思うように普及しなかった短命メディアを考えれば、おわかりいただけるでしょうか。別のメディアで既に存在しているフィルムのプリントは軽視されがちです。なぜなら、フィルムというメディアが最高のメディアであるという認識が必ずしも広まっていないからです。

復元されたフィルムには、次なる搾取の手が待ち受けているものです。復元したところでお金にならず、そのために資金提供者が現れないようなフィルムこそオーファンである、とも言えます。パブリックドメインであろうがなかろうが、こうした理由からオーファンはなかなか復元されることがなく、復元される可能性のほとんどないオーファンの一群も、相当数にのぼります。公共の組織も興味をもちませんし、個人の寄贈者も興味をもちません。興味の対象外である上に外国映画ともなると、現実はもっと厳しいでしょう。

さいごに、オーファンの中でもっとも恵まれないのは、判別できていない題不明のフィルムです。私が考えるに、フィルムアーカイブにおいて、かなりの数の名もなきフィルムが忘れられた存在となっています。判別されていないフィルムはまぎれもないオーファンです。題名のない映画を閲覧するためにフィルムアーカイブに出かけていく人などいません。普通は、みたい映画をみに行くのですから。
判別できない映画をみることといったら、倉庫番号が間違っていて、うっかり別のフィルムが出庫されてしまったり、好奇心から暇をもてあそんで出庫してみたときくらいのものです。フィルムアーカイブもさすがに、名無し映画の保存に費やす予算は持ちあわせていません。フィルムアーカイブの中には、判別されていない映画や不完全な映画の復元には予算を用いないという方針を立てているところもあるほどです。オーファンは五体満足でなくてはならないのです。

ここまで述べてきたことだけでは不十分かもしれませんが、ついにオーファンの物語も中世デジタル時代、最終章に差し掛かります。デジタル時代は新たに未曾有のオーファンを生み出しました。デジタル時代のオーファンは1908年より前のフィルムと同様にオーファンである、という言い方もできます。所有者、プロデューサー、監督、そしてフィルムアーカイブがフィルムをデジタル・メディアに変換することによって、オーファンたちの存在価値は失われます。手を触れずにオーファンを収蔵庫に残そうとするフィルムアーカイブは賢明でしょう。次なる形式のデジタル変換が新たに必要になるときこそ、オーファンたちの出番となります。
変換作業の目的としては、商用利用または研究利用が考えられます。デジタル・メディアがあるのでフィルム自体に触れる必要がない、という考え方には確かに一理あります。何もデジタルが悪だと言っているのではありません。映画業界がプリントの作成を終えるとき、結果として残されるのは母一人子一人ではないかと考えられます。母親はカメラ・ネガで、子どもはカラー・セパレーション・ネガかCRIかインターネガ、あるいは、何も残らない可能性だってあります。

ここまで触れてきたのは、オーファンフィルムの概念の少なくとも4つの側面です。(1)法的な定義。つまり、そのフィルムの所有者であることを法的に証明できる人物が存在しているかどうか。次に、(2)著作者の権利。映画作家が存命か否か。この定義は米国においては現在さほど意味を持ちません。さらに著作権に関係なく、(3)孤児フィルムの物質としての定義。そして最後に(4)フィルムアーカイブとしての定義です。はじめの3つの定義が何であれ、フィルムアーカイブの内部ですらオーファンと見なされてしまうフィルムが存在します。

フィルムアーカイブの立場からいって、現在の我々はかつてないほどの重責を担っています。何しろ仕事で留守がちで、お金が必要なときしか迎えに来ないような両親を持つ、何百万というオーファンフィルムを抱えているのですから。

私はフィルムアーカイブという名称は好きではありません。実際に現場で起こっている出来事を、そのような名称では表現し得ないからです。むしろフィルムの孤児院と呼んではどうでしょうか。いっそ改名も悪くないと、私は考えています。

(翻訳:石原香絵)

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