第二章 映画フィルム

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第二章 映画フィルム

映画について話せと言われれば、私はアセテートやポリエステルでできた帯の上に化学反応を起こして素敵なイメージを創り出す映画フィルムについて話すだろう。自分の手で直に感触を確かめ、匂いを嗅ぎ、大きなスクリーンに投射することもできる映画フィルムについてである。

3.ナイトレートフィルムを取り巻く様々な噂

 2008年4月、FIAFパリ会議に参加したときに遭遇したのは、やや大げさに言うと世界で最も美しい場面だった。一面に黄色いたんぽぽが咲いたCNCのナイトレートフィルム保管庫である。危険だという理由で、1950年代に生産中止となったナイトレートフィルムの花が満開だなんて!

噂1:ナイトレートフィルムの呪い – 「火事だ!」

 フィルムベースにナイトレートセルロース(硝酸)が使用されいているナイトレートフィルムは、1889年、イーストマン・コダックが発売。映写機とカメラのスプロケットに耐えうる堅固なこのフィルムには、致命的な弱点があった。化学構造上、一度火がつくと酸素を放出しながら燃えてしまうのである。さらに温湿度が上がると、密閉された缶の中で自然発火してしまうほど可燃性の高い物質で、一度火がつくと水でも消すことができない。これにより1897年5月4日、パリの慈善団体のバザー会場において上映中に死者180名を出す大火災が発生した。その翌年、ロンドンのスタフォードでも火災が発生したことを受け、その直後の1898年と1900年に映画上映に関する市議会法が導入され、1909年に映画法が制定された。この大火災は映写機の中でナイトレートフィルムが発火することに起因したものだが、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)の主人公トトが愛した劇場が燃えてしまったのも、これが原因である。この呪いは続き、1911年ロシアのボロゴエでは100余名が死亡し、トルコのイズミルでも同じく100名あまりが命を落とした。最近では、1982年3月24日午後6時、メキシコシティーの国立フィルムアーカイブ(Cineteca Nacional)の保管庫で火災が発生し、翌朝まで14時間燃え続け、所蔵資料の99%が灰と化し、消防士1名の命も奪った。英国では1933年、ロンドン南部に位置する現像所で火災が起き、国立フィルム&TVアーカイブ(NFTVA)及び他機関のフィルムが灰と化し、パリのシネマテクフランセーズ (1980年8月3日)、米国NY州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス (1978年5月29日) もやはりナイトレートフィルムによる火災で膨大なフィルムを失った。

 オーソン・ウェルズは「フィルムはある性質を有している。それは自己破壊的であることだ。フィルムアーキビストの役割はそれを予測し防ぐことである」と発言した。ニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーターであるリチャード・グリフィスも、フィルムの自己破壊的性質によって眠りにつくことができないなどと発言しているが、それならナイトレートフィルムの呪いをフィルムアーキビストたちはどのように防いだのか? もしや布石でも!? 1,000フィート程度のナイトレートフィルムを摂氏41度の密閉した空間に17日ほど保管すれば、明らかに火災によって消滅するであろう。しかし適正な環境下で保存すれば、1950年代から広く普及したアセテートフィルム(不燃性フィルム)に劣らず「長寿」なのである。1950年代以前に製作されたフィルムが、未だに存在する事実がそれを証明しているし、アセテートフィルムはビネガーシンドロームという厄介な難病を抱えている。いずれにしても温湿度の調節が重要であるが、ナイトレートフィルムを長期間保存するためには、白黒フィルムの場合、摂氏10度以下・相対湿度20~50%、カラーフィルムだと摂氏0度以下・相対湿度20~30%の環境で保管しなければならない。この状態を維持すれば1941年に生産されたコダックのナイトレートフィルムが100 年、1933年に生産された同社のナイトレートフィルムが500年、1932年に生産されたデュポンのナイトレートフィルムが600年保存可能だそうだ。また、ガスと熱放出のため、通気性の高い缶に入れることが基本中の基本である。

 しかし、一度ナイトレートフィルムに化学的変化が始まれば、急速に劣化し始める。まずはじめに乳剤層の画が失われ、ナイトレート特有の臭いを放ち、その後、乳剤層が光沢を帯び、気泡が発生する。この段階を経た後フィルムは固まり、最終的に橙色の粉となる。結局のところ、火災と消失を防ぐには、複製を不燃性フィルムで作っておくしかない。大部分のフィルムアーカイブが複製作業を最優先としたのも当然の帰結である。そして、適切な温湿度の保管庫に置き、定期的に点検しなければならない。ジョージ・イーストマン・ハウスでは、フィルムアーカイブの建物があるロチェスターから少し離れたノース・チャイライという町にナイトレートフィルムを保管している。このルイス B. メイヤー・コンザベーション・センターの12の保管室には、2600万フィートのナイトレートフィルムが保存されているが、このフィルムの中にはエジソン、グリフィス、リュミエールの作品も含まれており、『風と共に去りぬ』(1939 ヴィクター・フレミング監督)、『オズの魔法使』(同)、『若草の頃』(1944年 ヴィンセント・ミネリ監督)などの作品が保管されている。米国議会図書館は、バージニア州カルペパーに新たに建設したパッカード・キャンパスの124室ある保管庫にナイトレートフィルムを保存している。フランスのCNCでは、1990年に「ナイトレート計画」という企画案を作成し、首相及び財務長官の承認を受け、ナイトレートフィルムを復元・保存している。復元されたフィルムとオリジナルのフィルムは、ボワ=ダルシーの保管庫に保存されるが、年100万フィートのナイトレートフィルムが復元されている。

噂2:ナイトレートフィルムはいかにして致命的な呪縛から逃れたのか?

 東アジア地域のナイトレートフィルムはどのように保管されているのだろうか? 日本の場合、35mmナイトレートフィルムは殆ど残されていない。映画会社が不燃性フィルムでコピーを作り、原版を捨ててしまったからである。それなら韓国は? その当時フィルムが飛ぶように売れたという噂と同時に、ほんの1年前までは、戦争によって1本も残されていないとされていた。しかし、突如ナイトレートフィルムのオリジナル・ネガが2007年、映像資料院の近郊で奇跡的に発見された。その作品とは、韓国映像資料院が今年、丹誠込めて復元し上映した『青春の十字路』(1934 アン・ジョンファ監督)である。持ち主が映画館経営をしていた両親から引き継いだというこのフィルムは、最適な温湿度に調整されている最新式の保管庫に置かれていたわけでもないのに、状態は良好であった。紛状になって手が付けられない1本のフィルムを除いて、オリジナル・ネガは日本の現像所であるIMAGICAで、ポリエステル・フィルムに複製された。

噂3:小津安二郎と黒澤明の映画もやはり

 前述したように、日本のナイトレートフィルムの保存も成功したとは言い難い。黒澤明監督の『羅生門』(1950)と小津安二郎監督の『東京物語』(1953年)もやはり火災で焼失した『羅生門』は映画会社(大映)が1950年8月25日に試写を行う予定であったが、その4日前のアフレコ収録中、京都の撮影所で出火した。黒澤監督は「ネガを、ネガを」と叫んでいたという。運よくオリジナル・ネガは無事だったが、三船敏郎(多襄丸役)が京マチ子(真砂役)と熱い太陽の下で出会い、恋に落ちるシーンの音ネガが消失してしまった。当時、三船は東京にいたため、8時間の長距離移動を強いられ、8月22日にアフレコが強行された。しかし、ナイトレート・プリントを映写機にかけテストしていたところ、再び炎が上がった。フィルムから放出される毒性のガスによって、30名あまりのスタッフが病床に伏すこととなった。こんな中でも黒澤は、残された2日間で録音作業に取り組み、奇跡的に上映用プリントを完成させた。見事8月25日の試写会を成功させたのである。『東京物語』も上映用プリントを作成後、オリジナル・ネガは横浜シネマ現像所(当時)で起きた火災で消失してしまった。1960年7月24日に起きた火災は現像所の保管庫すべてを燃えつくし、400ロールの生フィルムと1,000ロールの映画フィルムが痕跡もなく消えてしまった。

4.物質としての映画フィルム

 1990年代末、私は大学で映画に関する講義をあれこれ受講していた。専攻ではなかったけれど、映像人類学科に有名な教授がいて、その講義を聴講していたのだ。その教授は講義の前半から「民族誌映画」にとても厄介な定義を下した。ある日その講義で10名にも満たない学生たちが、全世界を引っ括めて100人も読まないであろう小論を用いて議論をしていた。私には突然、彼らの言い放つ言葉が頭上をふわふわ浮いているように思えてきた。そしてその瞬間、「やめ!」と叫びたくなった。その日以来、これからは自分の手で触り感じることができるような勉強に励もうと決心した。そして2001年、ジョージ・イーストマン・ハウスのフィルム保管庫を目の当たりにした時、手だけではなく全身に電流が走った。100歳近い映画フィルムたちが酸っぱい臭いを漂わせながら、「ここにいますよ」と私に話しかけたからである。

 映画について尋ねれば、各々違った答えが返ってくるだろうが、殆どは「最近映画館では…」「最近シネコンで映画を観た」「ダウンロードして観る」とか、鑑賞した映画の感想、「金をドブに捨てた」「あの俳優が好み」といったような話題であろう。私なら、この映画フィルムの幅は? 1フレームに何個のどんな形態のパーフォレーションがある? フィルムのベースにどんな素材が使われている? 製作会社は? 色の有無は? その色の方式は? サウンドの有無は? どんな方式で投影されるの? などなど、際限なく話し続けることができる。当然この種の話題に関心持つ人のは、民族誌映画の定義を問い詰める人くらい少数であろうが、フィルムを自分の手で触り感触を確かめることができ、その美しいフレームをルーペで観察し、頼めば大きなスクリーンで鑑賞することもできるのだから、映画フィルムの物質としての魅力を感じずにはいられないのだ。

 では、この「物質としての映画フィルム」について詳しく見ていこう。

[Station de Menilmontant Chemin de fer de Ceinture]
1897年に製作されたあるフィルムは、現在111歳である。国籍はフランス。ゴーモン社で製作されたセルロースナイトレートの60mmフィルムで、白黒で撮影されフレームに円型のパーフォレーションが両横に4つある。
[Le Pont Alexandre 3]
この画像は1900年代にフランスのリュミエール兄弟が監督・製作したナイトレートの75mmフィルムであり、白黒、1フレームの両側に円形のパーフォレーショが8つ付いている。1997年にフランスのCNCで復元された。

あるフィルムは白黒で、両側に楕円形のパーフォレーションが2つずつある。
パーフォレーションがないフィルムもある。白黒フィルムであるが、黄色いトーンで染色が施されたフィルムはあまりに美しいので、私のPCのデスクトップに表示していた。片側に4つ、もう片方に2つのパーフォレーションがある。

 きりがないが、上記のフィルムは全て無声映画時代に製作れた白黒プリントで、事実上の標準フォーマットとして現在使用されている両側に4つのパーフォレーションを持つ35mmフィルムとの競争に敗れたフィルムたちだ。生フィルムをコダック、アグファ、富士、デュポンなどのフィルム製造会社が生産し、キャメラに装填され、シーンが撮影された後、現像と焼き付け工程を経てプリントが作成され、観客がスクリーン上に映るイメージを目にするのである。このフィルムは 2,000フィートに満たない長さで、コアに巻かれた2,000フィート缶〔以前は1,000ftであったが、現在では2,000ftを使用している〕に納められる。2時間の映画なら、約6缶〔35mmだと90ft/分〕であるが、上映後は温湿度が調整可能な保管庫に移される。画像にある英国映画協会(BFI)の保管庫には、フィルムラックの1区画に約3作品分のプリントが保管されている。当然プリントとネガは各々違う場所に分離され保管されるべきであり、さらにベースの素材と色で区別した保管がなされるべきである。映画フィルムは、温湿度に相当敏感—ナイトレートフィルムの場合はさらに敏感—であるが、物理的・化学的・生物学的に損傷しやすく、恒常的で繊細なケアが必要である。特にプリントの場合、上映の前後に必ずフィルムの長さ、パーフォレーション及びエッジの状態(映写機によって損傷が多く起こる部位)、スプライスの状態、画の傷などの物理的な損傷の具合、フィルムの最初と最後に付いているリーダーの状態などを検査する。映画フィルムとこんな形で恋に落ちたせいか、映画館で映画を鑑賞すると、内容は全く目に入らず、傷や埃、髪の毛、チェンジマーク、褪色ばかりに目が行っていた。しかし、映画フィルムの魅力は物質性だけではない。フィルムアーカイブの映画フィルムは、歴史的事実が記録された記憶の貯蔵庫でもある。

5.映画フィルムの上でちらつく何か

人類は大昔から不可視的なものを好み、あれこれ考え様々な名称を与え尊んだ。手で触れられない「何か」に対して精神、霊魂、イデア、摂理、神など様々な呼び名が与えられたのだ。いくら実験を重ねても結果を出すことのできないそれらは、人間の生活とは無関係のようだが、決定的な瞬間、人間はこれを探すしかない。私も、やはり頭上にあるもやもやした無数の理論に飽きて書籍や論文のコピーをゴミ箱に押し込み、フィルム保管庫に身を投じたわけであるが、私を虜にしたものは、単に「物質としての映画フィルム」だけではなかった。魂を抜かれるという迷信を信じ込んで写真撮影を恐れた人々や、スクリーン上に映った笑顔で騒ぐ人を見て映画館が修羅場と化したという逸話があるように、フィルム上にちらつく「何か」が明らかに存在する。私にとってその「何か」とは人々の記憶である。

《ソンムの戦い》の記憶、「ある昼間の恐怖」

 私たちとは直接関係ないかもしれないが、いくつかの国々にとって去る2008年10月11日は第一次世界大戦終結90周年に当たる日であった。この戦争で命を落とした1,000万人の大部分は青少年であった。一日だけで約2万人が命を落とし、その後に623,907名が死傷した「ソンムの戦い」は、第一次世界大戦の中でも大きな戦闘のうちの一つであった。1916年7月から11月まで4ヶ月半続いたこの戦闘で、大英帝国は2マイル程度の土地を得たが、42万の兵を失った。1平方センチメートルあたり2人の命を奪ったこの残酷な戦争は、約1時間の『ソンムの戦い』(1916)というドキュメンタリーフィルムにおさめられたが、この宣伝映画の真正性が一部疑われたとしても、画面を埋め尽くすまだ幼い青年たちの表情、塹壕を掘り、そして自分が掘った塹壕で死に絶え、他の兵士に抱えられ、あるいは呆然とした彼らの姿を目の当たりにするとき、私たちは彼らの苦痛に満ちた記憶を読むこととなる。「ある昼の恐怖」と呼ばれた彼らの死亡を知らせる電報を受け取った家族は、このフィルムに刻まれた彼らの子供や恋人をどのように記憶していたのだろう。人間が合法的に野蛮性を曝け出す大規模な集団殺人である‘戦争’による彼らの絶望と混乱した記憶が赤裸々に記録されたこのフィルムは、英国の王立戦争博物館に保存され、2005年にユネスコ世界記録遺産として登載されることになる。

《ホロコースト》の記憶:「誰も彼に何も言わなかった。彼の苦痛があまりにも大きすぎたからだ」

 4年に及ぶ戦争で、世界の半分が血を流したが、それから20年が過ぎたとき第二次世界大戦が勃発し、ここで人類は歴史上最大の苦難に喘ぐこととなる。この苦痛はあまりに大きすぎすぎて気軽に口に出せるものではないほどだった。王立戦争博物館の展示「口に出せない(Unspealable)」「ホロコースト(Holocaust)」は、これらに対する記憶である。ユダヤ人への憎悪によって歪んだナチ将校たちの演説風景(あの悪名高き第三帝国の宣伝長官パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスは、この集団殺人行為にあまりにも確信に満ちた姿を見せてくれる)、人々の顔と体を定規で測り、非アーリア人種の劣等性を云々する医者や学者、家族と幸せに過ごすユダヤ人少女、ゲットーと集団収容所に捕らえられたユダヤ人の姿、そして彼らの凄惨な死体。このフィルムには人間の言語では表現できないくらいの苦痛と愚かさが記録されている。一つの集団の憎悪によって、人間性と生命を失った600万人の記憶が、一個人が撮影したホームムービー、ナチスの宣伝局が撮影したプロパガンダ映画、連合国が撮影した記録映画に刻まれているし、我々はこの事実をたとえ忘れたくても、記憶に留めておかなければならない。私たちはそれを、人間の物語、つまり‘歴史’と呼ぶのである。映画フィルムには、この苦痛に満ちた記憶から喜悦や熱情の記憶まであらゆる人間史が刻まれ、ちらつくのである。そしてこの記憶の塊がフィルムアーカイブに保存され、私たちの過去、現在、未来の時空間を行き来し、私たち自身を振り返らせてくれる。そのような映画フィルムは、大事にせずにはいられないではないか。

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