第五章 フィルムアーキビストもしくはキーパー

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第五章 フィルムアーキビストもしくはキーパー

フィルムアーキビストとなった今、過去を振り返ってみると、恩師の白髪や目元の皺が知恵のように思える。彼らのおかげで「思考がレリーフ(浮き彫り)のごとく、皺という皺、隅という隅に至るまで、生気を帯びた」のだから、感謝の気持ちでいっぱいである。

15. Old & Wise

デイヴィッド・フランシスとレイ・エドモンソン

 「アーカイブ」や「アーキビスト」は、我々にとって聞きなれない言葉である。韓国語に適当な訳語がないため英語の発音のまま用いるが、Wikipediaでは次のように定義されている。

アーキビスト(英:Archivist)とは、永久保存価値のある情報を査定、収集、整理、保存、管理し、閲覧できるよう整える専門職を指す。アーキビストの扱う情報は、写真、ビデオ、録音、手紙、書類、電磁的記録など様々な形式を取る。アリゾナ州立図書館デジタル行政資料部長のリチャード・ピアスモーゼスの言葉を借りるなら、アーキビストとは「確実な過去の記憶として永続的な価値を持つ記録」を保存し、「その記録の山の中から、その人が必要としている情報をみつけ、その情報を理解する手助け」をする者である。

 まとめると、映像、写真、書籍のような情報を保持する媒体を収集、整理、保存し、一般の利用者が閲覧できるように管理する専門家を「アーキビスト」と呼ぶ。インターネットの普及によってパソコンを起動すれば世界中の情報を集められる21世紀にも、アーキビストたちはアナログ資料を収集し損傷した箇所をわざわざ手作業で元の状態に近づけ、それらの資料を適切な温度・湿度が保たれた空間に保存したうえで、原本のコピーを閲覧室に配架し一般の利用者が資料を活用できるよう環境を整える。

 現在のフィルムアーカイブまたはシネマテークは、フィルムアーキビストたちのおかげで存在するといっても過言ではない。付け加えると、アイリス・バリー、アンリ・ラングロワ、ジャック・レトックス、アーネスト・リンドグレンがいたからこそ、現在のニューヨーク近代美術館の映画部門、シネマテーク・フランセーズ、ベルギー王立シネマテーク、英国の国立フィルム&TVアーカイブ[*現BFIフィルムアーカイブ]が存在するのである。フィルムアーキビスト、キュレーター、キーパーなど様々な呼び名を持つ彼らが情熱を燃やしながらフィルムを収集・管理し、映画を愛する人々に作品を提供してきた。しかし、彼らは偉大なあまり、私のような人間には手の届かない存在であった。


我らがレイ・エドモンドソン氏

 FIAFの名誉会員であり、それぞれ米国とオーストラリアでフィルムアーカイブ界の重鎮かつ第2世代を代表するフィルムアーキビストのデイヴィッド・フランシスとレイ・エドモンドソンの両氏とお会いしたのは、2002年、ジョージ・イーストマン・ハウスのL.ジェフリー・セルズニック映画保存学校に在籍していた時である。お二方とも既に髪が真っ白なご老人であったが、1974年から1989年まで英国の国立フィルム&TVアーカイブのキュレーターを務めた後、米国議会図書館の映画放送録音物部のディレクターを歴任したフランシス氏は、フィルムアーカイブを組織するプロセスについて1週間の講義を開講していた。対するエドモンドソン氏は、FIAFサマースクールでもフィルムアーカイブの哲学的問題とフィルムアーキビストの姿勢について講義を行っていた。人生をフィルムアーカイブと共に歩んできた両氏の一言一言は、まるで学生たちの心に火を灯すようであった。現在は閉鎖されているロンドンの動的映像博物館の設立準備に8年を費やし開館にこぎつけたというフランシス氏の逸話は、ほんの数ヶ月で建物を完成させてしまう国で生まれ育った私にとってまさに衝撃的であった。8年間資金集めに奔走し、なぜこのような博物館が必要なのかを富と権力を持つ人々に説明して回った。さらに、万が一の場合をも想定して慎重に建物を設計しながら、そこで働く人材を集めたそうだ。努力が結果として実らない間、目の前にいるご老人は—もちろん当時は若かったであろうが—どれだけ悩み、そして耐え抜いたのであろうか?そのことを考えると、彼の忍耐強さと情熱に驚愕するばかりである。フランシス氏の講義は具体的な事例を挙げながら進んでいくが、一方のエドモンドソン氏は、より根本的な問題について話を展開していく。当時の講義ノートを見ると、「アーキビストの姿勢」、「倫理的基盤とインスピレーション」、「各々が置かれている状況を注意深く観察すること」、「どのように周囲の人々にフィルムアーカイブについて広報し、支援を受けるのか」、「外部機関からの援助」などと記してあり、彼が今まで関わった小さなフィルムアーカイブをより発展させるために、フィルムアーキビストはどのような仕事をするべきかを先輩としてアドバイスしていたようだ。エドモンドソン氏は、『ナポレオン』(1927)の監督アベル・ガンスの名言で講義を締めくくった。

私にとって情熱がすべてだ。情熱なくして偉大な映画を作ることはできない。
Enthusiasm is everything to me. Without it a great film can never be made.

 フィルムアーカイブの世界にどっぷり浸かろうとする私たちに、夢と情熱を胸に刻めというやや陳腐な言葉でもあるが、当時の私はその言葉に感動し涙したものである。劣悪な環境下でも、自分が愛着を持つもののために情熱と理想を持つことで最後にはそれが大きな力となるのだと、彼の人生経験に基づいた話だったからこそ感動したのだろう。しかし、情熱と理想だけではフィルムアーカイブを運営することはできない。お二方ともその道のプロなのだ。

ジョージ・イーストマン・ハウス映画部門キュレーター パオロ・ケルキ・ウザイ

 エドモンソン氏が情熱を強調すれば、ウザイ氏は「プロフェッショナル」とは何かを体現するキュレーターであった。当初このイタリア出身の先生とお会いしたとき、冷徹そうな印象があったせいか縮こまってしまい、一言も発することができなかった。電話面接のときのやりとりで、ぶっきらぼうな人だと予想はしていたが、実際会ってみると刺しても血一滴流さぬような容貌であった。小さな背に浅黒の肌を持つ典型的なイタリア人であるウザイ氏は、私がお会いした当時、「ポルデノーネ無声映画祭」に留まらず、ジョージ・イーストマン・ハウスのL.ジェフリー・セルズニック映画保存学校をも創設した、自他共に認める著名なフィルム・キュレーターであった。

 美術史を専攻し、ピエロ・デラ・フランチェスカの絵画作品の復元をテーマに博士論文を準備していた彼がフィルムアーカイブに関わるようになったのは、あるフィルム収集家からグリフィス、エジソン、ポーターの16mmプリントのアーカイブ化を依頼された1975年のことである。この後、今年〔2009年〕で28回目を迎えるイタリアのポルデノーネ無声映画祭で多くの無声映画の上映に携わり、ジョージ・イーストマン・ハウス映画部門の主席キュレーターとして、L.ジェフリー・セルズニック映画保存学校の校長として、さらにロチェスター大学の教授としてフィルム・キュレーティングと無声映画の講義を行っていた。

 ウザイ氏は、1学期からフィルムの基本構造、フォーマット、保存、復元、複製、再構成などの主要概念の定義について講義を始め、FIAFサマースクールまでフィルムアーカイブ活動の根本的な問題を扱う講義を行っていた。英語のネイティブでないせいか、何事も事細かく説明してくれたし、時には彼の抜け目のない性格そのままに、妥協を一切許さない用語の定義を下していた。1週間ごとに各部門で直接仕事をこなす必要があったため、1週間ずっとウザイ氏の一挙手一投足を注視する必要があった。ウザイ氏は、朝9時に出勤すると、1日中メールのチェック、電話対応、各種会議参加、さらには関係者との面会までこなしていた。

 ほとんどの職員は5時になると帰路に就くが、ウザイ氏は夜10時を過ぎて一人で帰宅する日が多かった。また、火曜日にはロチェスター大学の学生を呼び寄せ無声映画の講義を行っていた。その講義のおかげで、毎週火曜日にイーストマン・ハウスのドライデン劇場で1編の無声映画を鑑賞することができた。

 噂では、ウザイ氏の武器は「予算をとってくること」だそうだ。外国のフィルムアーカイブは、韓国のように国庫で運営されているケースは稀で、各種財団から予算を得たり富裕層から寄付金を募り運営する必要があるため、その際ウザイ氏の持つ人的ネットワークと華麗な経歴が大きな威力を発揮したようだ。

 しかし、刺しても一滴の血も流さないような先生が、動揺し声を震わせる姿を二回ほど目の当たりにした。一度目は9.11が起こった日、ドライデン劇場であった。皆がパニックに陥るなか、ウザイ氏は上映前の夜8時に姿を見せ、大惨事の日になぜ映画を上映するのかを声を震わせながら説明していたのだ。2度目は、FIAFサマースクールのときである。課程を修了した学生たちが帰国の途につく日、韓国に帰れば二度と会うこともあるまいと、ウザイ氏にプレゼントとメッセージカードを贈った。すると彼は、感激し握手を求めながら震える声で、「韓国でも一所懸命頑張ってほしい」という労いの言葉を口にしたのだった。

 その後も、FIAF総会のときに顔を合わせる程度で、共同プロジェクトに取り組んだこともないが、間違いなく私の人生に影響を与えた先生のうちの一人である。その理由は、彼が真の「プロフェッショナル」であるからだ。ウザイ氏は、「ルーブル美術館に行けば3枚のポール・セザンヌの絵画を鑑賞しながら比較できる。フィルムアーカイブも足を運べば映画が鑑賞できるような環境を整えるべきだ」と再三訴えていた。こうした発言からも伺えるように、彼は原則主義者でありながら、一瞬のスキも見せない完璧主義者なのだ。一時、ジョージ・イーストマン・ハウスを離れオーストラリア国立フィルム&サウンドアーカイブの代表を務めていたが、現在はオランダ・ハーゲフィルム財団でフィルムアーキビストを養成するための指導を行っている〔2011年よりジョージ・イーストマン・ハウス映画部門ディレクターに復帰〕。そんな恩師に今後見せるべきは、「プロフェッショナル」のフィルム・キュレーターとしての私の姿ではないだろうか。

ミュンヘン映画博物館 シュテファン・ドレスラー館長

 シュテファン・ドレスラー館長に初めてお目にかかったのは、2007年、FIAF東京会議のときであった。館長は、3D映画についての講義を行っていた。スクリーンに映る人物が雪や棒を投げると(フォルクスワーゲンのコマーシャル)自然と私の体も反応したものだ。この講義を興味深く聴講していたチョ・ソンフィ院長は、2008年5月、KOFAリニューアルを記念したフェスティバルにドレスラー館長を招待したのだった。当時私はリニューアルの準備に追われていたため、館長の講義を聴く余力はなかった。KOFAのシネマテーク運営が軌道に乗り始めた11月、映画博物館プログラムの調査を兼ねてミュンヘン博物館を訪問し、約半年ぶりに館長と再会したのである。私たちが西洋人を区別できないように、逆もまた然りと思っていたため、館長も私のことなど憶えていまいと考えていた。とにかく女性の職員に「少し待つように」と言われていたので、しばらくの間椅子に座り待っていると、館長が現れた。館長は思いのほか長身であった。ミュンヘン映画博物館は、ミュンヘン市が運営するミュンヘン博物館所属の映画上映、復元を主とするフィルムアーカイブであった。館長に保管庫に積まれたオーソン・ウェルズの後期作品を見せて頂き―私はオーソン・ウェルズのアウトテークという言葉に心を躍らせ、館長の目を盗んではこのフィルムたちの写真を撮っていた―『ローラ・モンテス』(1955)のドイツ版の復元作業についてお話を伺った。その年、シネマテークフランセーズで復元したフランス版の復元プリントがある映画祭で上映され、シネマテークフランセーズのプログラマーであるジャン・フランソワ・ロゼ氏が訪れたため、このドイツ版の復元プリントが相当気になっていたのだが、私の拙い英語で復元プロセスの具体的な内容のすべてを尋ねることはできなかった。博物館の見学も概ね終わり、本とDVDまで頂いて館内を闊歩していた。すると館長が、今は忙しいが7時以降に来てもらえれば夕食後にミュンヘン市内を案内するとのことだった。市が運営する映画博物館であるから、規模は決して大きくはないものの、映画館の環境は素晴らしく、博物館の運営方式もとても気になっていた。そこで館長の申し出を受けることにして、その合間に小さな美術館でウォルト・ディズニーの展示を見学しながら待つことにした。

 夕食を終え市内観光を楽しんでいたが、11月のミュンヘンはとても寒く日が沈むのも早い。そのため外は真っ暗であった。それでも館長は休む間もなく外にある建物などの歴史的な価値や重要性について説明してくれいていた。実を言うと、私は当時胆のう炎を患っていて、館長に会う前に救急病院に運ばれた身であった。この地で死んだらどうしようか、旅行保険にでも加入しておくべきだったなどと考えごとばかりで、館長のお言葉が一切耳に入らなかったのである。

 しかし、30代後半にミュンヘン映画博物館の館長に抜擢されたドレスラー氏が、当時官僚的な組織とどのように闘い、博物館に来る前のボンでどのように文化運動を展開したのかを語りだすと、私が映画保存学校修了後、韓国映像資料院に入って直面した困難の数々を思い出し、あれこれ考え始めたのである。私の話を聞くと館長は、我々は組織の官僚的な体質を変えようとするが、もしそうした状況下でもいくらかの自由と働く意義を見出せるのであれば、組織に残って闘うべきだとアドバイスしてくれた。当たり前の話だけれども、些細な言葉にも感動してしまう私だから、病気のことも忘れ感激し、暗い湖で鳴くアヒルを見にわざわざ車から降りたほどである。フィルムアーカイブ界の大先輩のお言葉にしばし感動し、次の見学地であるベルリン映画博物館に向け、ベルリン行の列車に乗り込んだのだった。

 ドレスラー館長と再会したのは、2009年5月、FIAFブエノスアイレス会議のときであった。ボン国際映画祭で『青春の十字路』の上映を控えていたため、総会の前に会う約束をしていた。約束の場所へ向かうと東洋人を区別できないであろう館長が、キョロキョロしながら現れた。中間字幕のない無声映画であったため、活動写真弁士の台詞をどのように字幕処理すべきか悩んでいたが、とりあえず館長にプレビュー資料と活動写真弁士の台本を渡したのだった。シンポジウムでの発表も控えていたうえ、シンポジウムが終わる翌日には帰国する予定であったため、館長に感動的なアドバイスを求める間もなかったのだ。ただ、館長が総会終了後にチリにあるフィルムアーカイブでワークショップを開くと聞き、「チリにもフィルムアーカイブが!ぜひ私もご一緒に」と余計なことを考えていた。

 10月、無声映画上映の準備に追われながらも、館長は私に「先人は永遠の峰である」という韓国の格言を思い起こさせた。ある時、グレダ・ガルボを有名女優へと導いた無声映画『イエスタ・ベルリングの伝説』(1924 マウリツ・スティルレル監督)の上映を計画し、スウェーデン・フィルム協会のプログラマーであるジョン・ベンストローム氏にメールを送った。「ドレスラー館長にご紹介いただいた」と署名入りでメールを送ったものの、無声映画プリントは毎秒18フレームで映写できなければ、貸し出しはできないとのことだった。私の永遠の課題である映写速度!現在、韓国映像資料院には、映写速度を調整できる映写機はない。そこでデジベータで上映できないかと再度メールを送信したが、著作権所有者から許可がおりないと断固拒否されたのである。私は奈落の底に突き落とされたかのごとく、館長に「断られた」、「ジョンがダメだって」、「とても憂鬱」、「私の力では映写速度は変えられない」、「これから先も無声映画上映の夢は叶わない」とメッセンジャーで窮状を訴えたところ、「少し待つように」と言われた。すると、「今ジョンに電話をかけたが出ないので、もう少し待ってほしい」と言うのである。おお!事態が急展開を見せ、帰宅するとメールが届いていた。メールの内容は、「ジョンに韓国映像資料院の事情を説明し、デジベータ作成の約束を取り付けた。ただ、これからは無声映画を上映できる環境を整えるべきだ」というものだった。私たちの目には、毎秒24フレームと22フレームでは俳優たちの動きに若干の違いがあるだけだが、完璧主義の先輩方は一切妥協しないのである。

 彼らの殆どは完璧主義である。それゆえに厳しい面もあるが、困難な状況に直面すると問題解決のために適切なアドバイスをくれるし、ときには自ら率先して問題解決に努める。先輩方が20〜30年余りの間に積み重ねた経験と知恵、そして胸の奥底に秘めた情熱と愛で後進を牽引し鍛えるのである。時には叱られることもあるけれど、ことあるごとに先輩方を訪ね話を聞くことができる私は、本当に幸せだ。米国のあるドラマのヒロインが「私の目元の皺は知恵(wisdom)よ」と笑顔で話していたが、先輩方の白い髪と目元の皺には、確かに知恵が刻まれているように思える。そして「そのおかげで思考がレリーフ(浮き彫り)のごとく、皺という皺、隅という隅に至るまで、生気を帯びたのだ」*1と思えるのである。

*1 ヴァルター・ベンヤミン著『一方通行路』チョ・ヒョンジュン訳, 2007, 96p./浅井健次郎, 久保哲司訳 ベンヤミンコレクション3, 筑摩書房, 2007 p81.

16. Young & Innocent:ジョージ・イーストマン・ハウスのL.ジェフリー・セルズニック映画保存学校日記

先輩の「これやってみたら?」という一言 ー学校を選ぶー

 1986年に大学に入学してから、社会人生活を経験した3年間ーそれも週16時間のパートタイムーを除き、長い時間を学生として過ごした。2000年を過ぎた頃には、いくら自分を「プロの学生」と称して大学に通っても、そんな身分に嫌気がさし始め、本や資料を眺めるのも辛くなってきた。理論研究も嫌になり、何か体で感じることのできる勉強をしたいという思いも強くなっていたのだった(もっとも大学では、はじめ薬学を専攻しながら、実用的な研究に飽きて理論研究に邁進したという経緯があったのだが…)。

 そんな中、ある先輩が英国のSight&Soundという映画雑誌に掲載された広告を見て、「これソンチにぴったりだね。挑戦してみたら?」と言うのである。この時、私も「これだ!」と感じたのだ。これ以上勉強してみたところで、私のような鈍才が世紀の大学者になる可能性は皆無だったので、今すぐにでも研究を放棄し何か新しいものに挑戦したかった。

 しかし、フィルムアーカイブという名称さえ初めて耳にする言葉であり、学校名もまた然りであった。ジョージ・イーストマン・ハウスと聞いても想像すらつかなかったが、コダックはさすがの無知な私でも知っていた。そう、コダックのフィルムを発明した人物こそジョージ・イーストマン、そしてその人物の邸宅を博物館に改築したのがジョージ・イーストマン・ハウスだったのである。博物館内には、写真復元の学校と映画保存の学校が創設されたが、2001年に私が入学したときには、既に写真復元プログラムは廃止されており、フェローシップ・プログラムのみが存続していた。映画保存の学校は、1966年にセルズニックというハリウッドの著名な映画製作者〔の息子〕の名を冠してー要するに、彼から莫大な資金援助を受けてージョージ・イーストマン・ハウス L.ジェフリー・セルズニック映画保存学校という名称で創設された。プログラムの内訳を見ると、実習が多く生徒数も15名ほどで、しっかり学べそうな環境であった。また、映画フィルムに直接触れられること、劇場で毎日映画を鑑賞できることも気に入った。さらにキュレーターという職業名も響きが良かった。入学に必要な情報を収集すると、映画に関する理論研究の経歴、すなわち論文、執筆活動、成績などは重視されておらず、これもまた入学の決め手となった。

大雨に見舞われ保管庫が水浸しになった。あなたならどうする? ー面接を受けるー

 プログラムは、9月から翌年6月までの約10ヶ月で修了し、修了後学位の代わりに証明書が発行される。入学手続きは入学願書と推薦状3通を提出した後、書類審査、電話面接を経て、13~15名ほどの学生が選ばれる。学生の殆どは米国人であるが、ヨーロッパやアジアからの学生も3~4名ほどいた。推薦状は、自身の誠実さを証明してくれる友人または同僚から1通、修学に必要な経済力を証明してくれる者から1通、大学の指導教授から1通の計3通が必要となる。当時米国に滞在していた私は、書類を揃えるために米国在住の叔父、長らく英語を習っていた米国人の老婦人、そして大学の指導教授にお願いして推薦状を書いてもらい提出した。

 幸いにも書類審査を通過し、4月に電話面接を受けることになったのだが、その方式に不慣れだったため、緊張のあまり震えが止まらなかった。受話器をとると、学校中の先生方が勢揃いしていたのか、一斉に “Hello”という声が聞こえた。そして当時キュレーターであったパオロ・ケルキ・ウザイ先生から質問があった。相当緊張していたため、質問の詳細までは憶えていないが、それでも記憶の片隅に残っているのは「夜中に大雨に見舞われフィルム保管庫が水浸しになるという事態が発生したとしよう。あなたならどうする?」というものだった。韓国人の誠実さをアピールする絶好のチャンスだと思い、「すぐに駆けつけてフィルムを救出します」と答えた。さらに質問は続き、「300回のスプライシング(スプライサーという道具を用いてフィルムとフィルムをつなぐこと。フィルムの素材と種類によって、現在では主に3つの方法がある)の練習を課されたとする。100箇所目〔100回目〕であたなはスプライシングをマスターした。それでも 300箇所目まで練習を続けるか?」と聞かれ、これもまた小・中・高と皆勤賞だった私の誠実さを生かし、「当然です」と答えたのだった。約30分にわたって行われる面接は、学生の誠実さ、映画に対する情熱、そしてこの学校で学びたい理由と思いを試すためのものだったのだろう。主観ではあるが、英語が苦手でもフィルムアーカイブに深い関心を持ち、しっかり学び、映画保存がいかに重要であるかを今後伝えていくのだという姿勢をしっかりアピールできれば、「この学生は将来我が校を輝かせる人材だ」という印象を与えることができると思う。実際に、そのアピールが功を奏して私も選ばれたのだろう。

 夏が近づく頃、合格通知を受け取った私は、学校の近所で住まい探しをしようと、1学期が始まる数ヶ月前にロチェスターを訪れた。終日学校にいることになるので、学校から10分以内の場所で家を探すようアドバイスされていた。アドバイスに従い、学校にほど近い小さなアパート(ワンルーム)を借りることにして、来たついでに学校を見学しようとアドミニストレーターのジェフ・ストイバーにアポを取ることにした。アポをとり学校の正門で待っていると、ケルキ・ウザイ氏に出くわした。電話越しから気難しい性格が伝わってきたが、見ると外見は小さな背に浅黒い肌を持つ典型的なイタリア人の先生であった。学校は素敵な造りだったが、長い年月を過ごした大都市フィラデルフィアに比べ小ぢんまりとした町であったため、プログラム修了まで耐えられるのか不安になっていた。ビザの問題で夏に一旦韓国に帰国し、プログラムの開始時期に合わせて米国に戻ったのだった。

この年になって宿題とテスト再び ー1学期が始まるー

 学校の修学期間は9月から翌年6月までの4学期制である。1~2学期は、学生が2人1組でペアを組みフィルムアーカイブの各部門を1週間ずつ回り仕事をこなしていく。勤務時間は 朝9時~夕方5時である。フィルムアーカイブに運び込まれる全ての資料を一時的にチェックする登録部門から始まり、キュレーター、キュレーターアシスタント、フィルム保存担当、保管庫担当、フィルム出入庫担当、カタロギング担当など、各部署で働きながら学ぶため現場の雰囲気を肌で感じられる一方、1週間毎に新しい仕事を覚える必要があるため、始めた当初は付いていくのに精一杯であった。火曜日と木曜日には、世界中から集まったフィルムアーカイブ関係者たちが講師となり講義を行う。講義の内容は、フィルムは乳剤層と支持層の2つの層からなるといった初歩的な知識を学ぶことから始まる。さらに、フィルムの構造、フォーマット、管理・保存に関する基本項目、カラーフィルムの技術、復元プロセス、保存環境などの基礎知識と続いていく。英語が苦手な学生のために、文字通り懇切丁寧に授業は進められ、どんな些細な質問にも「いい質問だね」という褒め言葉とともに質問に答えてくれるのである。講義の難易度は決して高くないが、初めて触れる内容ばかりで何のことだかさっぱりわからないことも少なからずあったし、もしや私だけ理解できていないのではないかと物怖じすることもあった。結局、毎度のごとくペアとなったヘザーに理解できない部分を教わっていた。幸いにもパートナーに恵まれ、天使のような同窓生ヘザーとペアだった。現在、彼女はアカデミーフィルムアーカイブに勤務している。

 講義と実習の中でいくつかの宿題が課せられた。そのうちの一つがスプライシング200箇所を完成させて提出するというものであった。小さなフィルムボックスに、使用できなくなったフィルム1ロールを納めてくれるのだが、宿題はこのフィルムロールを用いたスプライシングの練習だった。さらに、後で知ったのだが、学期ごとに中間テストを受けなければならなかった。大学院の卒業試験を終えた後、これでテストと宿題とはおさらばだと思っていたのに、この年になってまたテストと宿題とは…また手首が痛くなるまで英語で文章を書きながら覚えるのかと思うと、何だか情けなくなった。試験の点数配分は、短文形式の問題が3点、テキストと課題の中から出題される問題が4点、択一問題が4点、さらにボーナス問題を加えた4点で、全部で35~40問が出題される。私の点数を明かすと、1回目の試験では81点、その後はそれぞれ88点、86点と続き、最後のテストでは82点だった。やはり私は天性の瞬発力で、80点という平凡な点数しか取れない学生だった のだろう。

我々のプロジェクトに予算を!ーチームプロジェクト開始、A獲得ー

 1回目のテストの後、感謝祭(Thanksgiving Day)による長い休暇を終え、2学期に突入した。新たにペアを組んだパートナーー新しいパートナーは、大学卒業後すぐにこの学校に入学した最年少のケリーだった。ケリーもやはり素晴らしい性格の持ち主であった。ーと各部門を回りながら仕事をこなし、火曜日、木曜日には講義を受講、スプライシングの課題に懸命に取り組むという、規則正しい毎日を過ごしていた。そんな中、全米芸術基金(NEA)プロジェクトという新たなチームプロジェクトが与えられた。米国には韓国映像資料院のように国庫で運営される組織よりも、ヒューレット・パッカードのような大企業や、スピルバーグ、スコセッシのような著名人から寄付金を募り運営する非営利のフィルムアーカイブが多い。寄付金以外にもNEAのような政府機関に、我々のプロジェクトに予算を付けてほしい旨の嘆願書を「うまく」作成し送付すれば、厳格な審査を経てある程度の予算を得られる場合もある。

 NEAプロジェクトは、4人1組で仮想のフィルムアーカイブを1つ設計し、各々がキュレーター、キュレーターアシスタント、予算担当者、フィルム保存担当者、フィルム保存管理担当者など役割を分担したうえで、仮想のプロジェクトを立ち上げて予算を申請するための嘆願書を作成するというものだった。私がいたチームは、「フィラデルフィア歴史アーカイブ」という小さな組織を仮想的に立ち上げ、1917年の無声映画『BETSY ROSS』(George CowlとTravers Valeの協同監督)という作品を保存するために59,600ドルの支援を要請する旨の書類を作成することにした。そこでまず、「フィラデルフィア歴史アーカイブ」の紹介文を作成し、組織の予算に関する情報をまとめた。さらに、この作品を保存する意義を説明するための簡潔且つ説得力のある文章を作成、保存に必要な適正金額を算出するなどして、提出する全ての書類を揃えていった。13名の学生しかいないので、4チームがこのプロジェクトに参加した。テストの点数とともにプロジェクトの順位が発表されるのだが、私たちのチームは、前回のパートナーであるヘザーの優れた文章力によって Aを獲得したのだった。

映画は夜8時から ードライデン劇場にてー

 ジョージ・イーストマン・ハウスでの私の一番のお気に入りは、ドライデン劇場であった。時々ネズミが出るため、太った猫2匹も住み着いていた。椅子に座り、足元に何か感じたら猫の仕業だと思えばいい。劇場では、毎日8時からさまざまな映画が上映された。火曜日には近所にあるロチェスター大学の授業の一環として上映される映画もあり、春には無声映画が、秋にはこれもまた授業の一環として日本映画が特集上映されていた。ジョージ・イーストマン・ハウスのフィルム保管庫には、マーティン・スコセッシが買い集めた多くの映画が寄託されていたため、MGMの映画がよく上映されていた。また、ナイトレートフィルムが凄まじい緊張感の中でーナイトレートフィルムは発火しやすいため、特に注意が必要である。また、輸送、映写する際は、特別条項を遵守しなければならないー上映されることもあった。1930~1940年代のハリウッドお決まりの古典映画も上映された。

 実は当時の私には夢があった。そのうちの一つはドライデン劇場のプログラマーを説得し韓国映画を上映することだった。残念なことに、私の在学中は、蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)、王家衛(ウォン・カーウァイ)、青山真治の映画が上映されただけだった。プログラマーに韓国映画を上映するよう何度もお願いしたこともあり、私が卒業した翌年にキム・キドク監督作『魚と寝る女 The Isle』が上映され、観客の度肝を抜いたそうだ。ロチェスターは白人の人口が多い静かな町なので、そこに住むお上品な中年の方々には、釣り針で登場人物が自殺を図るシーンは刺激が強すぎたようだ。

 この劇場で一番興味を持ったのは無声映画であった。D.W. グリフィスの『國民の創生』(1915)を始め、中国、日本、スウェーデン、フランスなど各国の無声映画を生演奏で鑑賞するのだ。ピアノを弾く中年男性は近所に住む音楽の先生〔フィリップ・カーリ〕であったのだが、彼が持つ独特の感性のためなのか、悲しいシーンだろうが楽しいシーンであろうが、ピアノを強く弾くのだった。時折、英語以外の字幕しか付いていないプリントが上映されることもあ り、その場合はキュレーターのケルキ・ウザイ先生が字幕を翻訳し、一番後の席に隠れてイタリア語訛りたっぷりの英語でマイクを持って読み上げていた。ともあれ、英語が母語ではないので、イメージの美しさと古い映画フィルムが映写機にかけられ私の目前に投射れているという事実に、一人感動していたものである。

 私が映画を鑑賞するときは決まって2階席の一番後の席に座っていた。一台の映写機からもう一台の映写機に切り替える際に聞こえる「カチャッ」という音を楽しむためだ。

 私は交換留学ビザでアメリカに滞在していたため、1週間の間に決まった時間しか働くことができなかった。もちろん、職場はドライデン劇場であった。韓国人にとっては手渡しの券売所で売られているとしか思えないような3cm程の紙製のチケットが、ボタン式の券売機で売られていた。券売機は、学割と一般の2種類のチケットから選べるようになっている。その他に、10枚綴りのチケットも売られていて、それを購入した人にはクーポンのような紙にスタンプを押していた。週に2〜3回、可愛らしいテンパ頭のマシューと共に働いていて、用事がある日にはシフトを交代してもらったりもした。ある日、ロチェスター大学に籍を移した著名なドキュメンタリー映画研究家のビル・ニコルスが訪れた。このハンサムで紳士的な先生には、無料でチケットを差し上げたかったのが、私は、雇われの身である以上、きっちり4ドル50セントを徴収したのだった。しばしば著名人が映画を紹介しに劇場を訪れるのであるが、一番記憶に残っているのは、ヴェルナー・ヘルツォーク監督であった。ボロボロのジャンパーを着て現れ、ジョージ・イーストマン・ハウスの学生一人一人とわざわざ握手を交わし、自身の映画が始まる前にはジャンパーのポケットに手を入れたまま、緊張した面持ち、またドイツ語訛りの英語で映画の話をしていた。若き日の姿の面影はなく、髪も薄くなり年齢以上に老けて見えたが、とてもフランクな方であった。

まあ忙しい ―3学期もバタバタと―

 3学期に入り、博物館の各部門をパートナーと共に回りながら働く授業も終わり、火曜日と木曜日の講義と個人プロジェクトのみになった。3学期は、2月初旬から始まり、そこではフィルムアーカイブの具体的な運営方法についての講義が行われる。当時キュレーターであったケルキ・ウザイ先生と米国議会図書館映画部門ディレクターであったデイヴィット・フランシスの両氏が、フィルムアーカイブの設計、財政問題、スタッフ構成と運営、米国とヨーロッパ諸国のフィルムアーカイブの運営方法の違いについて講義を行っていた。この講義のほかに、著作権法、ビデオテープの保存方法などについての講義もあり、3学期の中盤にはロチェスターから1時間ほどの場所にあるシラキュースで開かれるシネフェストにも参加した。最終学期は、ロチェスターで一番美しい季節である4月から始まり、この間学んだ内容全般をまとめながら、ややゆったりと過ごすのである。勉強にはうってつけの季節であるせいか、勉強のことは学生の自主性に任せ、学校側は教えることを放棄したかのごとく研修旅行の日程を長くとっていた。私の年は、ワシントンD.C.にある米国議会図書館、メリーランド州空軍基地にある米国議会図書館ナイトレートフィルム保管庫、米国国立公文書記録管理局(NARA)、ペンシルバニア州の片田舎にあるニューヨーク近代美術館映画部門のナイトレートフィルム保管庫を訪れた。最新の設備を備えた真新しい建物から古すぎて天井から雨漏りする保管庫、資料で溢れかえり事務所内の職員を訪ねようとすると海を泳ぐかのごとく資料をかき分け進まなければいけないような保管庫まで千差万別であった。

 研修旅行が終わると卒業試験と個人プロジェクトのレポート提出が待ち受けている。試験はその間学んだことを客観テスト、主観テスト形式で採点するものだったので、しっかり勉強すれば何とかなる。しかし個人プロジェクトは、3~4ヶ月かけて取り組んだプロジェクトを理路整然とした文章としてまとめ提出する必要があったため、到底一夜漬けで完成させられるものではなかった。私には、日本人の奥本という人物が 1934年から1936年にかけて世界を周り撮影した8mmフィルムを整理するプロジェクトが割り当てられた。1月から79本のシネコダック・フィルムを調査し、保存庫内のロケーション番号を定め、カタロギングした後、5月にレポートを作成した。奥本氏がなぜ日本国内の東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈せず、ジョージ・イーストマン・ハウスを選んだのか疑問であったし、世界を旅した東洋人がどういった視点から、どのようなシーンを撮影したのかも気になっていた。そこで写真の復元を学んでいた日本人の友人に助けてもらい、奥本氏のご家族に日本語で作成した手紙を送って問い合わせると、コダックのフィルムはロチェスターで製造されたものであるから、故郷であるジョージ・イーストマン・ハウスに預けたいというご本人の強い希望があったとのことだった。レポートの評価はというと、うまく文章をまとめられたからなのか、Aの評価を得たのだった。

「私も卒業よ」ー卒業を迎えるー

 こうして10ヶ月のプログラムも終わり、6月には卒業式が執り行われた。私の同期は全部で13名、皆無事卒業を迎え満足気な表情で卒業証書を受け取っていた。フランス出身のソーニャは現在イギリスのBFIに勤務しているし、米国出身のジャレッドはジョージ・イーストマン・ハウスで、大の親友であるヘザーはアカデミー・フィルムアーカイブーアカデミー賞の授賞式を行うあの場所である。彼女は授賞式で華麗なドレスに身を纏い、撮った写真を添付して「私、今日キアヌ・リーブスと会ったわ」というメールを送ってきたーで、スウェーデン系で自らの美貌をアピールしていたクリスは一児の母となり、今はNARAで働いている。また、同じ名前のもう一人のヘザーは、カリフォルニア大学バークレー校付属のパシフィック・フィルムアーカイブで勤務した後、結婚をきっかけにフィルムアーカイブの世界から引退した。さらに、美人で天然パーマのケリー・ヒックスもジョージ・イーストマン・ハウスに残り勤務している。


同級生と。左端が著者。

 こうして振り返ってみると、ジョージ・イーストマン・ハウスで学んだことは、フィルムアーカイブの知識だけではなかったのだろうと思う。今でも大切に思うのは、各国から集まった生徒たちの映画に対する愛情、情熱と真摯に学ぶ姿勢、アーカイブに長く勤める先生方の経験と知恵、そして同僚を思いやる心とプロ意識である。恩師たちは、フィルムアーカイブの世界に飛び込もうとする新参者の私たちにその覚悟を問い続けながら、フィルムアーカイブで働くには何が必要なのか指南したのだ。フィルムアーカイブとは何か、右も左もわからないまま学校に飛び込んだのも束の間、私はフィルムアーキビストの新兵として、この世界に身を投じることになったのだった。

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