第六章 韓国映像資料院で働く

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第六章 韓国映像資料院で働く

「あなたが夢を持ち、ポケットに詰め込んで道を行けば、いつかその夢は叶うだろう」。私のポケットの中には今でも夢が詰まっているし、いつかこの道が光輝く日へ誘ってくれるだろう。

17. フィルムアーキビストになる

 ジョージイーストマンハウスのL. ジェフリー・セルズニック映画保存学校に入学する前、要するにビザの問題で韓国に帰国した2001年の夏、私は韓国映像資料院(KOFA)を訪れていた。国際交流担当者、保存業務担当者のお二人とお会いし、自己紹介したうえで、KOFAについてご説明いただいた。KOFAは韓国唯一のフィルムアーカイブであることから、映画フィルム保存を学んだ私にとっては、当然、就職先候補の一つであった。

 幸いにも、在学中の2002年春にソウルでFIAF総会が開かれていた。その時期はちょうど学校の試験休みであったことから、当時の代表パオロ・ケルキ・ウザイ先生に総会への参加意思を伝えたのだった。4月22日の明け方、仁川空港に到着してすぐに家に向かい、着替えた後、FIAF総会の会場である世宗(セジョン)文化会館に向かった。会場に到着するなり、ケルキ・ウザイ先生を探し、KOFAの院長を紹介してほしいとお願いしたところ、先生は学生への思いやりから快諾してくださった。院長に簡単なご挨拶を済ませ、当時の副部長とパク部長をご紹介いただいたのだが、この方こそ、後に直属の上司となる人物だったのである。人事担当者であったチョ部長から、米国に戻ったらなるべく早い時期に履歴書を提出するよう言われた。3学期中に履歴書を提出、6月の卒業式を終えた後、FIAFサマースクールに参加し、7月、韓国に帰国した。帰国するなり、長い学生生活にピリオドを打つべく、そして9時に出勤し18時に帰宅する社会人生活を始めるべく、多くの映画関係者と接触し、お話を伺った。その甲斐あってか、9月からKOFAでの職を得ることができたのである。

2002年9月7日、KOFAの一員となる

 最初の1ヶ月は、仕事に慣れるため総務部に配属された。行政文書など扱ったこともなければ、8年という長い時間を海外で過ごしたものだから、お堅い行政機関での仕事には退屈するばかりであった。KOFAの職員たちが、7色のレインボー靴下と7部丈のジーンズを履いて出勤する当時の私の姿を未だに憶えているのをみると、当時の私は世間知らずで歳ばかり食った新人でしかなかったのだろう。学んだ知識をすぐにでも活かしたい、またKOFAでさらに多くのことを学びたいと思っていたので、資料保存部門に出入りしながら人事部が私を保存部門に配置転換してくれる日を待ちわびた。1か月が過ぎた頃、辞令によって資料部門への異動が決まり、そこで多くの仕事を学ぶこととなる。温度が低く保たれた保存庫に入り作業をすれば、鼻水を垂らし、また、収蔵棚からフィルム缶を降ろすとなれば、ありったけの力を振り絞り、懸命に仕事を自分のものにしていった。フィルム調査は既に経験済みであったため、難なくこなすことができたのだが、スティンベックにフィルムをかけたり、新たに導入された設備を扱うときの手つきは覚束ないものであった。

2003年11月、シネマテークチームから辞令を受けプログラミングの世界に足を踏み入れる

 着任して1年が過ぎた頃に院長が替わり、その際、新たに「シネマテーク・チーム」が創設された。この時をきっかけに多事多難な茨の道がはじまる。今となっては笑い話だが、当時は何もかもが辛かった。チームリーダとしてその部署に配属されたものの、メンバーは1人であった。当時のシネマテークプログラムは、14時から上映される『名作を観よう』というプログラムのみであったのだが、どう考えてもその時間帯にサラリーマンなど一般の人々が映画を来館できるはずはない。そこで、上映時間を午後14時、17時、19時半の3回に増やし、週末にも上映スケジュールを組むことにした。プログラムは、名監督、有名俳優をテーマにしたプログラム、さらにジャンル別プログラムの2つを企画した。一番最初に着手したプログラムは『アクション映画シリーズ』であった。ただ、当時の私は韓国の古典映画に関しては門外漢であったため、上映作品を選定できなかった。そこでアクション映画の達人であるオ・スンウク監督に作品の紹介を依頼し、監督自身が気になっている作品目録を作成してもらった。オ監督には、作品選びに留まらず、KOFAにも通っていただき映画を鑑賞して頂いた。

 私の一番好きな映画は、俳優のパク・ノシクがベルボトムに白いアンゴラコートを着て登場する『悪人よ、地獄行き急行列車に乗れ!』(1976年)であったし、『チャックをあげろ』(1972年)、『人間辞表を出しなさい』(1971年)もお気に入りであった。パクが愛する人のために、両目と片腕を失いながら壮絶な戦いを繰り広げ倒れた時、そこに映る鍛え抜かれた肉体は、とても素晴らしいものであった。アクション映画シリーズは、2年間、『獨臂刀』、『満州の無法者』、『私を愛したスパイ』など満州ウェスタン、スパイ映画、香港合作アクションとしてまとめて上映した。プログラムは、オ・スンウク監督の底力が発揮された構成となっているが、プログラム作りに協力してくださった監督には心の底から感謝している。その後、1950年代の映画を集め、承諾を得てプログラムに『魅惑と混沌の時代』という1950年代の韓国映画史について書かれた書籍のタイトルをつけたプログラムを考案した。

 このプログラムでは、春にはラブストーリーを、秋にはそれ以外の映画と二回に分けてを上映を行った。『雨降る日の午後3時』(1959年 パク・ジョンホ監督)の上映時は、プリント状態が良くなかったためとても心配したのだが、エリザベス・テイラーに勝るとも劣らない20代のキム・ヂミの姿は素晴らしかった。その他にも、涙なくして観ることのできないラブストーリ『純愛譜』(1957年 ハン・ヒョンモ監督)、『あの女の一生』(1957年 キム・ハンイル監督)も甲乙付け難い。しかし、私の一番のお気に入りは、チョ・ミリョンが出版社の女社長として登場する『女社長』(1959年 ハン・ヒョンモ監督)であった。チョ・ミリョンは、子役の頃から活躍した愛らしい容貌であるが、『自由結婚』(1958年 イ・ビョンイル監督)ではお転婆な20代の少女を、『血脈』(1963年 キム・スヨン監督)では勝気な女性を演じるなど、さまざまな表情を見せてくれる名女優であった。当時の女優はあらゆるスキャンダルを振り撒いていたが、チョ・ミリョンもまた数々のスキャンダルを巻き起こした女優として有名であった。

映写事故から天災地変まで事故は続く

 そして7月の着任以来、前途多難な出来事が次々と起こる。まずは、香港プリント事故、次に天災事故である。 私は野心満々に東アジアのフィルムアーカイブ間の交流を目的として、1950〜1960年代の東アジアのメロドラマ映画特集を企画した。さらに、冬に3〜4編ほど上映したその年代の香港、日本、韓国のメロドラマの映画スタイルを比較しながら討論するシンポジウムも設けた。しかし、プリントの搬入・輸出業務は未経験であったため、通関手続きに手間がかかること、多くの書類作成が義務づけられていることも知らなかった。映画祭の場合、それらの業務を遂行する専門家が派遣されるのが一般的であるが、私は企画からプリントの搬出・搬入、パンフレットの作成、シンポジウムの進行、外国から訪れる来賓への招待状の送付まで全て一人で行わなければならなかった。そんな中起こったのが「税関事故」であった。

 プリントを返却する際は、通常「再輸出」と記載し発送する決まりになっている。しかし、手順通りに発送したはずが、運送業者側のミスでその3文字が記載されず、さらに税関職員が1桁多くプリントの尺を記載してしまったため、天文学的な数字の税金が課せられたのだった。さらに、文化体育観光部〔日本の文部科学省に相当〕から免税のための通関推薦状を受け、その通りに処理したはずが、「サンプル」として処理されてしまった故に、さらに多額の税金が請求されるという不運が重なったのだ。正に、泣きっ面に蜂である。これらの問題を解決するため、パク部長と私は毎日のように税関に通い事故の経緯を説明し、ありとあらゆる書類を作成し再発送する羽目になった。運送業者は自分たちの非を認めず、状況を傍観するのみであった。結局、税関側が今回の事故については故意によるものではないと判断し、香港のプリントが上映後、無事元の場所に戻ったことが確認できたので、解決をみることができたのだが、そのときの気苦労たるや言葉では言い尽くせないほどである。

 それから間もなくして、2度目の事故、「天災事故」が起こる。KOFAの集客が伸び悩んでいたことから、悩んだ末、一部の上映をソウル市ソギョク洞にあるソウルアートシネマで行うことにした。しかし、このとき 強風を伴う大雨に見舞われ、夜中に私たちが掛けていた紫色の垂れ幕が破れ、その染料がソウルアートシネマの壁を染めてしまったのである。ソウルアートシネマのキム・スジョン氏から連絡を受け、日曜日の午後に事故現場に駆けつけたところ、とんでもない光景が広がっていた。紫色の垂れ幕が風雨によって引き裂かれ無惨な姿を晒し、滴り落ちた紫色の水が壁だけでなく通路まで紫色に染めてしまっていた。少し遅れて駆けつけたイ・ビョンフン院長も、なんてことしてくれたんだという目で私を見ていた。不幸中の幸いは、アートソンジェセンターの館長が海外出張のためこの無惨な光景を目にしなかったことだろう。アートソンジェセンターの方にお会いしたところ、壁は高級な素材を使い特殊な加工が施されているため、水洗いだけでは原状回復できないとのことだった。特殊な技術が必要であったため、大金をかけて白い壁を元の状態に戻したのだが、この事故処理について報告するため、問題となった夜の風速と降水量が「天災」と結論づけられるかどうか気象庁に問い合わせる必要があった。私たちのような団体は、事故が起こった経緯についてこと細かく記し報告する義務が課せられているが、私の報告書作成は、終わりが見えない、正に前途多難なものであった。

 さらに事故は続き、3度目の事故、「映写事故」が起こる。2002年、そうでなくても借りるのが難しい香港電影資料館のプリントが、ソウルアートシネマで映写中に切れてしまった。本来ポリエステル・フィルムは映写事故が起ころうとも、フィルムは無事で映写機が損傷するケースが多いと言われるほど頑丈なはずなのだが、どういうわけかそのフィルムが切れてしまったのだ。フレームの数カ所が損傷し、毎度のごとく事故の経緯について記した大量の報告書を作成することになったのであるが、それに加えて今回は謝罪の手紙も書いて送ることになった。結局300万ウォン超の費用でプリント全巻を新たに作り直した。さらにもどかしいのは、問題となったプリントの上映時の観客数である。10人にも満たない観客に対して、膨大な書類を作成するために費やした時間、費用を考えると、1人でも観客がいれば上映を続けようという私の信念も揺らいでしまいそうだった。あの夏のことを思い出すだけで身震いしそうだが、そのときに力になってくれたのは、直属の上司であるパク部長であった。実を言うと、パク部長との関係は決して良好ではなかった。お互い頭に血が上りやすくしょっちゅう口論していたし、私は懲りもせず部長の一言一言に応戦していたのである。

伝説の「スティックのり事件」

 パク部長と繰り広げた数々の口論の中で、今でも伝説となっている事件がある。その名も「スティックのり事件」である。業務終了後、領収書をA4用紙に貼付けて提出する作業があるのだが、私は液状のりではなく、スティックのりを好んで使っていた。しかし粘着力が弱いせいか、度々領収書が用紙からはがれてしまうことがあった。その様子を伺っていた部長から領収書をしっかり付けるよう注意され、「しっかりやってますよ」と答えると「ならば液状のりを使え!」と怒鳴られた。そんな部長に私も負けじと「アラフォーの私にそんな指図が必要ですか?」と怒鳴り返してしまったのである。部長はカラオケで聴く者を圧倒する声量の持ち主であったし、対する私も、友人曰く(楽器に例えると)ソから始まる甲高い声であっため、事務所中の注目を浴びてしまった。その後、この一件は「スティックのり事件」と名付けられ、以降伝説として語り継がれるようになったのだ。そんな口論ばかりしていたにもかかわらず、私を連れて毎日税関に通い、さらにアートソンジェセンターに事情を説明してくれたのは、他でもないパク部長だった。当時を振り返ると、部下のミスで大変な苦労をさせてしまったことは容易に想像できるが、今でもよく面倒を見て下さる部長には心の底から感謝している。

新たな部署に移り、スランプに陥る

 2005年に入り、韓国の旧作映画のプログラミングにも慣れてきたし、大きな事件を経験したこともあってか度胸もついていた。入口の壁の展示物も額縁に変え、四半期に一度展示内容を刷新するなど精力的に働いていたし、訪問先の映画館のスタッフたちとも仲良くなっていた。天災事故を経験しながらも、5月に再び東アジアのフィルムアーカイブ交流のために「北東アジア青春映画展」を開催、さらに日本の国際交流基金とともに『欲望の礼賛ーキム・ギチャン・鈴木清順・今村昌平展ー」を開催したのだった。しばしば周囲の人たちからリクエストを受けて映画を上映することがあるのだが、12月のある週末に上映したイム・クォンテク監督の推理アクション作品もその一つであった。イム監督の好みには合わないであろうが、『まつ毛が長い女』(1970年)、『荒野の鷲』(1969年)、『片目の朴』(1970年)、『怨恨の街に雪が降る』(1971年)などもプログラムで上映する作品の一つとして申し分ないものであった。チョン・ソンイル、キム・ソヨン、ホ・ムニョン氏らによる3者3様の講座も記憶に新しい。とりわけチョン・ソンイル氏にはファンが多く、毎回夜11時を過ぎてもソチョ洞の試写室は大いに盛り上がっていた。2006年の初めには、『韓国映画の新たな視線』という名でプログラムを組み、『新女性:1950年 モダンガール』、『お宅のご婦人はいかがお過ごしですか?』、さらに週末の名作映画プログラムとして『生死の告白:イ・ドゥヨン』、『路地の中の風景:1960年のソウル』なども企画した。

 5月に入り、国内映画の収集を担当する他の部署に異動となり、プログラミングから離れることとなる。この時から2007年11月にプログラミングチームに復帰するまで、映画以外の勉強に励む日々を過ごすようになる。あまりにも多くの愛情を注ぎ数年をかけて育てた仕事であったため、俗にいうスランプに陥ってしまったのである。2006年8月から、外部で講義を聴講する機会が増えたため、映画の本、映画鑑賞さえも疎遠になってしまったのである。その時期は、まさに9時に出勤し6時に帰宅するサラリーマン生活であったし、週末も家に籠る日が多くなっていた。

プログラムチームに復帰、韓国映画博物館の準備に追われ一気に老け込む

 私があまりにも元気がないように見えたのか、チョ・ソンフィ院長に呼び出され、面談の末プログラムチームに復帰することになった。だがチームに復帰して唖然とした。翌年の5月8日に3スクリーンのシネマテークの開館、韓国映画博物館の開館を控えていたにもかかわらず、形になっているプログラムが一つもなかったのだ。このときから、約半年の間、院長を含むすべてのメンバーが深夜12時〜1時近くまで残業する緊急体制を敷き、博物館の展示シナリオチーム、『青春の十字路』公演チームは苦労の絶えない毎日を過ごすことになる。開館当日の朝方5時まで博物館の床に横たわり壁に付ける資料を作成していたものだ。準備期間が短かったためさまざまな問題が発生したが、それでも日程通りに開館を迎えたことを鑑みれば、ブルドーザーのようなチョ院長の推進力とリーダーシップは驚嘆に値するものである。私のような生温い人間には、一生そのような力は湧かないだろう。開館日に間に合い行事も無事に終えることができたが、その後、数々の事件が起こった。いくら様々な事件を経験しているとはいえ、度胸が足りないせいか、2009年までは苦しかった。2006年に撮った写真と2008年に撮った写真を見比べると、その間10歳は老けたように見える。こうしてKOFAで7年の歳月を費やし、いつの間にか歳をとり、自分自身をフィルムアーキビストと呼べるまでになった。

18. 私の夢をポケットに詰め込んで

“Keep a dream in your pocket
And a song in your heart;
Keep the lamp of your learnin’ burnin’ bright. Keep your eye on your horizon
And a smile on your face
As you travel down the highway of your life……
So if you follow your dream
To the end of the road,
Taking care not to let it fade away If you follow your dream
And you follow it well,
It will lead you to the promise of a bright shiny day.” ー The Seekers

 これは韓国映像資料院に就職した直後、レイ・エドモンドソン氏が私にプレゼントとして贈ってくれた曲の歌詞の一部である。「君が夢を持ち、その夢をポケットに詰め込んで道を進めば、いつかその夢は叶うだろう」という一言を添えてこの曲のCDをプレゼントしてくれたのである。フィルムアーカイブについて学びたいという後輩から度々相談を受けることがある。私は常々、一番重要なのは情熱であり、一度その情熱を胸に刻んだのならば、決めた道を進むしかないのだと答えている。そのためには、どうすればいいのだろうか? もし外国でフィルムアーカイブについて学びたいのであれば英語は必須であるし、フィルムアーカイブで働きたいのであれば、当然映画についての専門知識も必要となる。ジョージ・イーストマン・ハウスの学生には、タイトル不明の映画クリップ15編の作品タイトル、監督、制作年を調査するプロジェクトが与えられる。世界各地の無声映画、記録映像のクリップから俳優の顔、字幕、小物、スタイルなど入手可能なありとあらゆる情報を駆使して題名を探し出す必要があるため、当然、映画史の知識は必須であろう。また、1年学校に通ったとて、すぐにフィルムアーカイブの専門家になれるわけではない。そのため、長期的な計画を立て、決めた道を焦らず一歩一歩進むべきである。

 そして何よりも、この道が本当に目指すべき道なのか、自分自身に問い続けることが大事である。これは私にも当てはまる。ある時、ベルリン映画博物館のマルティン・ケルパー氏が、「登頂しようとする山は、私の目指した山に間違いない。ただ、登ろうとすると四方八方から矢が飛んできて前に進めず、今はどうにかぶら下がっている状態なのだ」と話してくれた。私が「ぶら下がるだけでも立派ではないか」と返答すると、「それは当然のこと。とにかく一歩でも前に進みたいのだ」と言うのである。さらに続けて、「今登ろうとする山は、本当に君が登るべき山なのか?」と尋ねた。私がゆらゆらとぶら下がっている山は、間違いなく私が目指した山だと思う。彼が比喩した通り、一歩前に進もうとすると四方八方から矢が降り注ぐこともある。それでも私のポケットには夢が詰まっているし、夢がいつの日にか光り輝くその日へと誘ってくれるはずだと信じて疑わないのである。

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