第四章 『その顔は過去に向いている』-『根源を目指して』

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第四章 『その顔は過去に向いている』-『根源を目指して』

デジタル時代が私に手招きするが、それでも私は過去を振り返ろうとしてしまう。人の手によってあらゆる彩色が施された映画フィルムが、スクリーン上に華やかに投射され、賑やかな音楽と活動写真弁士の説明によってフィルムが楽しく共有される根源へと私は戻りたい。

9.FIAFブエノスアイレス会議参加記

 2009年5月23日から31日まで、アルゼンチンのブエノスアイレスで第65回FIAF会議が開かれた。「シネマテークの新たな観客を求めて」が今年のシンポジウムとワークショップのテーマであったが、昨年末、FIAF事務局に韓国映像資料院の取り組みについて発表したいと申し出たところ、アジア地域のセッションに名称を加えてもらうことができた。外国のシネマテークではどのような問題に悩み、その現状と新たな観客の開拓はどんな方法で行われるのか、その長期的な観点が気にかかったのだ。また、同業者に会うことも一つの楽しみであるし、会議場が映画『ハッピートゥギャザー(春光乍洩)』(1997年 王家衛監督)のブエノスアイレスであったため、常に胸が踊っていた。

5月22日(金)パリ空港

 カンヌ国際映画祭クラシック部門での『燕山君』(1961 シン・サンオク監督)上映業務を終え、上司と共にニース空港を出発し、パリ空港のブエノスアイレス行きのゲートを探して慌て歩いていた。1時間しか余裕がなかったためとにかく歩き続け、ゲートに向かうと、韓国から出発したチームの一員であるモ・ウニョンさんが待っていた。モさんが言うには『燕山君』の上映を終えて私たちよりも先にカンヌを出発した保存技術センターのキム・ギホさんとシャルルドゴール空港で遭遇し、コーヒーを飲みながら談笑していたそうだ。一瞬頭をよぎった。「あら、世界はそんなに広くないのかしら!」

5月23日(土)ブエノスアイレス空港

 寝ても覚めてもまだ飛行機の中、「いつになったら着くのよ」と不満を漏らしていたらアナウンスが聞こえた。ブエノスアイレスだ。痴漢に注意するようにと忠告してくれた上司が、広い人脈を駆使して美術学校を経営するキム先生を呼んでくれていた。このキム先生のおかげで無事ホテルに到着した私は、新しい環境に目を奪われながら、「ここがブエノスアイレスか。レスリー・チャン(韓国ではチャン・グギョン)とトニー・レオン(ヤン・ジョウィ)が愛を交わした場所はどこかしら?」。FIAF会議に参加するのにもかかわらず他のことに気をとられるているのは確かだった。公式日程は24日の晩餐から始まるのだから、空き時間を利用して市内を見学することに決め、顔にクリームを塗り出かけたはいいが、空気の綺麗なはずのブエノスアイレスは、煤煙によって息もできないほどであった。それに加えて大統領官邸(カーサ・ロサーダ)の見学に行った際には、なんとホームレスがあちこちで昼寝を楽しんでいる。「ああ、こんなはずでは……」

5月24日(日)シネマテカ・アルヘンティーナ

 会議の参加名簿にサインして関連資料とバッグを受け取る必要があるのだが、いくら地図を確認してもシネマテカ・アルヘンティーナがどこにあるのかわからず、晩餐会の会場でさえ総会のウェブサイトにも載っていなかった。結局、ミュンヘン映画博物館の館長に尋ねた。「シネマテカはどこにあるのですか?」。幸いにも、館長が滞在しているホテルの目の前が韓国の文化コンテンツセンターにあたり、ここがシンポジウムの会場らしい。館長に着いていくと、私がサインしに来た最初の人だった。サインを済ませ、資料とバッグをもらったのだが、完全に失望した。粗末なカバン、その中に入っている資料もまた粗末。これが南米にいるということのようだ。

5月25日(月)シンポジウム初日

 遅れぬよう韓国映像資料院の院長とモ・ウニョンさんと慌ててシンポジウムの会場へと向かったのだが、参加者たちは中へ入らず、建物の外にいるではないか。群集をかき分けて10階へ上がると、さらに失望。「こんなところが会場だなんて。でも、重要なのは内容よ、見た目は問題じゃないわ」。座って始まるのを待っていたのだが、30分過ぎても40分が過ぎても騒がしいまま、始まる気配がない。日程表を確認しようとすると、スペイン語で書かれている。日程表を配布している場所へ英語版をもらいに行くと、今日は革命記念日(祝日)で職員は誰もいないそうだ。コピーするのに時間がかかるから午後に来てほしいとのこと!「韓国でこんな不手際があったら一大事よ」と思いながらも、「祝日くらい休まないとね」と気を取り直し会場へ戻った。シンポジウムが始まると南米、アフリカ、ヨーロッパのフィルムアーカイブの現況と問題点などが発表された。ただ、なんら目新しいものがない。一昔前ならば、映画は35mmプリントで上映する映画館でしか観ることができなかったが、最近では、DVDを家で観ることもできるし、デジタル技術が進歩し、35mmプリントで上映するよりもデジタル媒体で上映するほうが遥かに安い。これに対する解決策とは? 今だって16mm、35mmプリントで映画を観る、いや、映画を経験することは重要だ。多様なプログラムを発案し、観客たちに映画を経験させるべきなのだ。午前のセッションには大いに失望したが、午後に私と一緒に発表する方々と慌てて昼食を摂った後、シンポジウムの会場へと戻った。5月の韓国映像資料院のリニューアルオープンを祝う映画祭で発掘された無声映画『青春の十字路』の活動写真弁士付き上映を行った。それをテーマに、無声映画を若い観客たちにどのようにすれば楽しく、また、本来のコンテクストを保ったまま鑑賞させることができるのかについて発表した。シンガポールと中国に続き、司会を務める東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)の岡島尚志氏が、日本の事例について発表した。皆、予算と人手の問題に頭を悩ませており、若い観客をフィルムアーカイブに呼び寄せるための様々なプログラムを開発していた。続いて北米の番。ハーバード・フィルムアーカイブ、UCLAフィルム&TVアーカイブ、カリフォルニア大学バークレー校のパシフィック・フィルムアーカイブ、ニューヨーク近代美術館映画部門の代表らが自身の現況について話したのだが、「私たちの場合は、観客たちとの対話のため、例えばクリント・イーストウッドを招待する」、「私たちは、教育プログラムを運営するにあたり、ランダムハウス(出版社)の童話作家の誰々を招待する」。「えっ、クリント・イーストウッド翁を呼ぶ?」モ・ウニョンさんと私は完全に失望。「あの、そちらのフィルムアーカイブの問題とは一体何ですか?」

5月26日(火)シンポジウム2日目

 発表も終わり、リラックスした気分でシンポジウムの会場へ入った。昨日に続き、各自が抱える問題点と解決案について話したのだが、殆どは既に誰もが着手しているプログラムであった。観客たちとの対話、映画上映時には必ず上映プログラムに関する情報を印刷して配布すること、キュレーターや映画関係者が前に出て作品について説明し、子どもたちも参加できる特別プログラムを実施すること、映画祭と協力してプログラムを開発すること、ウェブサイトとパワーブロガーを利用して映画を広報することなどであった。問題は予算と人手である。そしてデジタル時代という環境変化である。UCLAフィルム&TVアーカイブ代表のクリス・ホラックは、学生たちがちょっとしたこともiPadなどマルチタスキングの一環として映画を観る時代に、どうすれば映画館の暗闇に2時間以上おとなしく座って古典映画を鑑賞させるのかを聞き返してきた。「さて、どうしたらいいものだろうか?」

5月27日(水)ワークショップと地域別会議

 午後、帰国便の時間が迫っていたため、地域別会議の時間を1時間はやめてワークショップに参加した。デイヴィッド・フランシス、パオロ・ケルキ・ウザイなど、FIAFの大御所のスピーチが始まった。結局すべての議論が原点へと回帰し、復元と保存の差異、収集および保存時の資料をどのように選別するのか、デジタル復元は保存の次元から議論すべきなのか、利用の次元から議論すべきかなど根本的な問題が飛び出した。時間が押していたため、この問題については理事会で議論を継続することとされ、ワークショップが終了した。アジア地域の会議が始まったが、残念ながら日程の関係で会場を後にせざるをえなかった。会議には中国電影資料館、シンガポールのエイジアン・フィルムアーカイブ、台湾の国家電影資料館、ベトナム・フィルムインスティチュート、日本の国立近代美術館フィルムセンターなどが参加した。大急ぎで空港に向かったが、思った通り飛行機が30分遅れていた。パリ空港を経て帰国するのに約30時間ほどかかった。帰りの機内であれこれ考えた。私も iPadで動画を楽しむ。DVDで映画をよく観るが集中力が1時間ももたないので、最後まで観るのには何日かかかる。カンヌで2時間待ってハネケ(Michael Haneke)の『白いリボン(Das Weibe Band)』(2009年)を鑑賞したが、映画祭でなかったら2時間も待っただろうか? フィルムアーカイブで働く私でさえこうなのに、若者向けにどんなプログラムを考えるべきだろうか? 明確な答えが浮かばなかった。会議期間中、晩餐の場でフィルムアーカイブの大先輩が私に未来について尋ねた。私は、暗澹たる気分だと応えた。すると先輩は、「それでもフィルムアーカイブの仕事は楽しいのだろ?」と言った。そう、正直なところフィルムアーカイブの前途は決して明るいとは言えない。それでも私は映画館の暗闇で映画をみるのが好きなのよ!

10.ボン無声映画祭参観記

 やっほー! 待ちに待った休暇。飛行機で座席に座っているだけでも嬉しい気分だった。そんなことより、なんで離陸しないの? 私は寝るために、厚着して毛布までかけたのに、10分経っても飛ばない。おろおろするのもダサいのでおとなしく目を閉じたが、昨晩4時間も寝ていないのに眠気を感じない。買いもしないのに、少しの間、高価な免税品カタログを眺めていた。それでもまだ飛ばない。あー、不吉だ。フランクフルトからさらに1時間も列車に乗るのに。早く飛びなさい。やっと機長が何か喋りだした。やっほー! やっと出発。10ヶ月もの間待ち続けたボンへ。

 時は2008年11月。
 世界有数の映画博物館はどんなものなのか「その目で確かめてこい」と、上司が寛大な心で送り出してくれた出張であった。当初は、ベルリン映画博物館とポツダム映画博物館にのみ行く予定であったが、そう何度も来る機会もないので、ついでにミュンヘン映画博物館にも行ってみようと考えた。

 そこで、5月のオープニング映画祭で3D映画の講義をお願いしたミュンヘン映画博物館の館長宛てにメールを送った。「以前、講義をお願いした韓国映像資料院の者です、映画博物館を見学していろいろ学びたいのですが」とお願いしたところ、「来るのは構わないが映画上映を主な業務とする博物館なので、映画関連の展示などは行っていない」とのことだった。映画博物館なのに展示スペースがない? まあいいや、一つでも多く見てアイデアを盗もう、という思いで、出張計画を提出したのだった。

 しかし、よく確かめてみるとミュンヘンからベルリンまで列車で8時間もかかる。ソウルからプサンよりも遠いのに、しっかり調べもせずに計画を立ててしまった。そんなこんなで、ミュンヘン映画博物館に仲間と共に向かうことになったのである。館長は懇切丁寧に施設を案内してくれた。見学の終わり際、館長自身がプログラムを手がけるボン無声映画祭で『青春の十字路』を上映したいので、上映用プリントの貸し出しは可能なのか、と訊ねられた。予算の問題で、公演スタッフは招待できないが、ピアノ演奏で音楽を合わせるので一度検討してほしいとのことだった。検討もなにも当然OKよ、「ワンダフル アイディア」と快諾すると、館長も喜んでいた。さらに私に、上映する映画を紹介してほしいとお願いされたが、予算の問題で旅費は負担できないとのことだった。何ですって? 映画紹介をしてほしいけど、旅費は出せないですって? ただ、いくら考えても飛行機代など問題ではない。無声映画を、野外広場で生演奏付で鑑賞する機会なんてそうそうないじゃない。にっこり笑って、再び「ワンダフル アイディア」と応えたのであった。

 そして2009年4月。
 カンヌ映画祭での『燕山君』上映の準備に追われていたある日、一通のメールが届いた。「大分前にメールを送ったのだが返信がない。今回も返信がないようであれば、『青春の十字路』の上映を来年に持ち越す」という内容のメールであった。なんですって? 去年の11月から行くつもりだったのに、来年に持ち越すですって? そこで、「メールシステムに不具合があったのか、そのようなメールは届いていない。『青春の十字路』の上映は昨年、既に院長に報告してあり、出張結果報告書にも記してある。公式書簡一通を送ってもらえればすぐに手続きを行う」と返信した。

 2009年5月。
 館長とFIAFブエノスアイレス総会で顔を合わせ、『青春の十字路』の上映について再確認した。館長は私に、映画祭に来れるかどうか、また、公式招待状を送るべきかを訊ねるのであった。「旅費も自己負担なのに招待状なんて…… それに出張扱いだと業務ストレスで映画も楽しめないのよね」と言うのも失礼なので、「休暇を取って行くほうが映画をゆっくり楽しめるので、招待状は結構です」と笑顔で応えた。


画像:ミュンヘン映画博物館のシュテファン・ドレスラー館長

 そして、再び8月20日。
 ドイツ行きの飛行機に搭乗したのであった。事前に送られてきた上映スケジュールを見ると、その殆どが聞いたこともない映画であった。大半がドイツ語で書かれたプログラムであったため内容は把握できないが、私が知っている映画はバスター・キートン主演の『キートンの蒸気船』(1928)と『青春の十字路』の2編だけであった。私の肩書きがプログラム・チーム長なのに、これでは顔がたたない。でも仕方がない。既に上空にいるし、勉強する時間もない。成瀬巳喜男監督の映画が1編あるのだから、その話でもして知ったかぶりするしかないわ、などとあれこれ考えていたら、やっほー、フランクフルトに到着。そこから列車でボンに向かうのであるが、高校時代、2年間ドイツ語を習ったはずなのに、思いつく単語は昨年館長が教えてくれた「アウスガン(Ausgang)=出口」しかない。時間を節約するために荷物を少なくしてきたので預けた荷物もなく、すぐに飛行場を出ることができた。道を聞きながら駅に向かい、ボン駅行きの切符を買った後、館長に電話を入れ、5時57分発の列車に乗ると伝えた。すると館長は、5時9分発と5時43分発の列車があるはずだと言うではないか。何ですって? ここまで来て迷子になるの? 手帳を確認すると、目的地はボンのジークブルク駅なのに、私が購入した切符はボンの中央駅行きであった。すぐさまジークブルク駅行きの列車に乗り、再び館長に電話を入れると、また「おかしい」と言う。

 「列車に乗ったのか」と聞かれた直後、電話が切れた。再び不安に襲われ震えた。もしかして、逆の方向に向かっているのだろうか。ボンの中央駅行きは6番線だったが、他人の言うことを信じて私が5番線から乗ったことが災いしたのだろうか。念のため手帳に記した駅名を車掌に見せ「シークブルク」と言うと、「シ」ではなく「ジ」だと発音を注意された。不安に襲われ震える私に向かって、発音を注意するなんて! 怒りがこみ上げたが、車掌が次の駅だと言うのである。あら、間違ってはいないようだ。列車にゆられること30分、無事にジークブルク駅にも到着し、足早に駅の外へ出ると、館長が迎えにきていた。館長曰く、私が乗った列車は、本来5時9分発だったが、遅延のため到着時刻が変わったそうだ。今日は、8時に『Nocturno』(1935 Oktavijan Miletic監督)というクロアチアの短編ミステリー(犯罪もの)映画と『謎の殺人(The Ware Case)』(192年 マニング・ヘインズ監督)というイギリス映画が上映されるそうだ。しかし、天気予報では夕立の恐れがあり、館長もそのことを心配していた。空を見上げるとすっきり晴れているのに……


画像:ボン無声映画祭

 8月20日
 館長に連れられ、ボン大学内の上映スペースを見学したが、これがなんとも幻想的である。1500席ほどの椅子が入るこぢんまりとした屋外のスペースにスクリーンが設置されている。天気が心配でピアノは軒下に移してあった。なんとなく、雨雲が掛かりはじめたようだった。

 館長と映画祭のスタッフたちは遠い空を見ている。『Nocturno』が始まり、スクリーン上で犯人が犯行に及ぶ緊迫した瞬間、突然雷が鳴った。私を含め、観客たちは絶妙なタイミングに驚き、笑いが起きたのだった。それから1分もしないうちに、雨が降り出した。ドイツの雨はどうしてこうも粒が大きいのか。服が濡れそうなので館長にそれを目で伝えると、屋根のある場所へ連れて行ってくれた。雨が降りしきる中、演奏者はさらに力強くピアノを弾き、風でスクリーンが揺れると字幕もそれに合わせ揺れていた。それにもかかわらず、観客は、席を立たず平然と映画を見ていたり、雨を逃れるために場所を移しながらもスクリーンから目を離さなかった。

 短編映画の上映が終わった後、『謎の殺人』が始まり20分ほど経過したところで、雨が上がった。席に戻りバックを敷いて映画を鑑賞した。上映も終わり観客が帰路についた後、明日上映される作品のリールがスクリーンに映し出された。『キートンの蒸気船』と成瀬監督の『君と別れて』(1933)という作品である。幸いにも、英語の字幕付であった。

 8月21日。
 午前に市内を見学したが、ちょうど古い映画館が取り壊される場面に遭遇した。工事現場の人に許可をもらい、館内の最後の姿をカメラに納めた。ここは、大型書店になるそうだ。小さな映画館がすべて取り壊され、マルチプレックスが進出する現実はソウルだけではないようだ。館長にしばらくの間、映画館の歴史を説明してもらった。入り口にはこの劇場でプレミアを行った際に訪れた俳優の名前が刻まれていた。イタリアの美しい女優、クラウディア・カルデナーレの名前もあった。

 午後8時に『キートンの蒸気船』を、10時には『君と別れて』を鑑賞した。キートンの映画は、文字通り大爆笑に包まれ、腹をかかえて(腰が曲がるほど(韓国だけの言い回し?))笑った。成瀬監督の映画は、芸者である主人公が愛する少年のために自らを犠牲にするという悲しい物語であった。観客たちが粛々と上映スペースから出て来たが、その中に明日の『青春の十字路』で演奏するピアニストのJoachim Barenzがいた。なかなか感じのいい人である。40年間無声映画で演奏したベテランのピアニストだそうだ。明日の演奏はよろしくお願いしますと挨拶するのであった。

 8月22日。
 私が送った『青春の十字路』のプリントは、上映用ではなかった。編集が終わっていないネガから作成したプリントであったため、反復する場面や順序が合っていない場面がいくつもあった。この事実を知ったのは、ドイツに到着した日であった。字幕テストを行った際にプリントと合わず、そのことについて私は館長から何度も質問された。しかし、そのプリントはアーカイバル・プリントであったため、手を加えることができない。編集の不備から観客の目を反らすには、美しい演奏とより洗練された字幕が必要であった。午前中は、館長、映像技師、字幕編集者、編集者と共に四苦八苦していた。

 8時に上映開始。韓国から遥々訪れた観客たちのために、韓国語で挨拶してほしいという主催者側からの要請を受け、韓国語で簡単な挨拶を行った後、英語でお礼の言葉を述べた。現在復元作業中の作品であるため完成品ではないこと、さらに韓国で唯一の無声映画であることを館長が述べた後、映画が上映された。ピアニストの演奏は、まさに美しく悲しい音色であった。ヨンボクとケスンのラブシーンでは涙がこぼれそうになったほどだ。上映は無事に終わり、次の作品である『なまけ者 Lazybones』(1925 フランク・ボーゼージ監督)が上映された。うまく説明してくれた館長と演奏で観客を魅了したピアニストに感謝の気持ちでいっぱいだった。韓国の上映では、弁士の巧みな言葉遊びに笑わされることが多かったが、その日は悲しいピアノ演奏に胸がちくちくするのであった。

 8月23日
 『青春の十字路』の上映も終わり、胸をなでおろしたが、ミュンヘンでの上映を控えていたためすっきりしない気分であった。すぐさま韓国に電話して、キム・テヨン監督が編集したデジベータテープを送るよう頼んだ。韓国の映画をよく知らない観客たちには、編集済みのヴァージョンで上映する方がいいだろうと考えたからである。現地は日曜日だったため、夜の上映前に近くの博物館でデジタル媒体の作品上映と講演が予定されていた。「イタリアの未来派映画」というテーマの講演であったが、英語通訳付きではなかったため少々気が引けた。しかし、館長が、重要な部分は英語で訳してあげるから心配するなと言ってくれた。私は寝不足で講義の途中で寝そうであったたため、映像クリップだけ見ようと考えていた。講演者は、イタリア人の教授であったが、ドイツ語を知らない私でも、なんとなくイタリアの未来派の映画を組み合わせるような講義だったのだろうと思う。「あー、もうわかった、どんな内容かはわかったから」と椅子によりかかかり、うとうとしていたら映画が始まった。『Thais』(1916 アントン・ジュリオ・ブラガーリア監督)という映画であったが、なんのことやらさっぱりである。未来主義者の映画は、私の嗜好に合わないようだ。マリネッティが「27年間、私たち未来派は、戦争が反芸術的であるという主張に抗い続けている。そして我々は主張する……」と宣言したあたりから彼らの主張は戯言であった。『Thais』が終わり、次の上映が始まった。作品は、グレタ・ガルボの恋人であるジョン・ギルバート主演の冒険映画、『剣侠時代 Bardelys the Magnificent』(1928 キング・ヴィダー監督)であった。損傷した部分を写真と字幕で補修した作品であったが、香港のアクション映画が霞んでしまうほどアクション・シーンがすばらしく、私の目を楽しませた。さらに、ニール・ブランドというピアニストが作品にぴったりの楽しい演奏でより一層映画を引き立てた。

 8時、名前だけ聞いたことのある著名な映画理論家、ベラ・パラージュが脚本を手がけた映画『Die Abenteuer eines zehnmarkscheines』(1926 Berthold Viertel監督)の予告編が上映された(本編は探しているとのこと)。そのあとすぐに、これまた著名なロシアの監督、フセヴォロド・プドフキン主演の『生ける屍 Der Lebende Leichnam』(1926? フョードル・オツェプ監督)が上映された。地元の記者は、タイトルを見てホラー映画と勘違いし記事を書いてしまったそうで、映画スタッフの笑い種となっていた。正直、私もゾンビが出てくる映画だと思っていた。しかし、作品は、男の主人公の妻が他の男に想いを寄せていることを知り、法廷で離婚を申し出るが拒否され、主人公は死人と装って生きていくという物語である。この作品には、ロシアのモンタージュの技法が随所に散りばめられていた。残念なことに、字幕がドイツ語のみであった。映画の上映中は、館長が重要な部分だけ英語で通訳してくれた。映画祭の最後の作品を、同時通訳で見たことになる。

 無声映画は、最終線上にある映画である。映画史の先頭にあるにもかかわらず、長い間、発生映画に慣れ親しんだ観客にとっては、不慣れで退屈な映画でしかない。しかし、無声映画は言葉なき、色なき映画ではなかった。常にサウンドを伴いながら美しい色相に彩られた映画であった。私は、この華々しく騒々しい映画と、ルクセンブルクで再び出会うこととなる。

11.原初的映画:ルクセンブルクのクレイジー・シネマトグラフ

 FIAFブエノスアイレス総会のシンポジウムの中で私の耳に残った斬新な発表は、シネマテーク・ルクセンブルクのプログラマーであるクロード・ベルテーム氏の「クレイジー・シネマトグラフ」であった。発表の要点は、1900年から1906年の間を映画学者たちがしばしばシネマトグラフの初期と称するが、当時の映画上映は現在のそれとはまったく違う方式で、観客たちの経験も複合的であったということだ。真っ暗な劇場のスクリーンに投射されたイメージを黙々と眺めるのではなく、上映は騒がしい市場のような場所で行われ、作品を説明する人や楽団が視覚以外の感覚も刺激しながら、映画を盛り立てたそうである。シネマテーク・ルクセンブルクは、観客に同じ経験をしてもらおうと、短編映画をまとめ、巡回遊園地で上映会を行っているとのことだった。また、上映前には客引きをする芸人が芸を披露し、その芸人たちが上映中にも映画の説明を行うといったプログラムを提供しているそうだ。映画の上映前、活動写真弁士と共に、中間にアトラクションを導入した『青春の十字路』上映の準備を進めていたため、ベルテーム氏の発表は当然私の関心事となった。

 幸いにも、私のドイツでの滞在日程が、2009年の「クレイジー・シネマトグラフ」上映日と重なっていた。もちろん、正確な日程を調整するため、航空チケットの追加チャージが課せられたのは言うまでもないが、絶好の機会を逃すまいと決心し出した結論であった。ボンからトリーア経由で3時間かけ、6時頃ルクセンブルクに到着した。5つのショーが1時間おきに上映されるのであるが、私たちは、そのうちの2つ目のショー「コメディー」と3つ目のショー「怪しくも異例なものたちのキャビネット」、そして10時から始まる最後のショー「我が祖父母のセックスライフ」を鑑賞することにした。ベルテーム氏は、地球を半周してまでショーを観にきた私たちに会うなり光栄だと言いながら感無量な様子であったし、一方の私はといえば無料チケットをもらって大喜びしていた。巡回テーマパーク、つまり、全国を周る動く遊園地の一区画を借りて映画を上映していたため、周囲の乗り物から響く雑音のせいで、うるさくて会話もままならなかった。それに加えて、二人の芸人がやかましく上映作品を説明するものだから、集中もできなかった。

 上映時間が迫り、チケットを渡しテントの中へ入ると、前方には小さなスクリーン、その横にはピアノ、そして5列分の長椅子が両脇に置いてあり、後方の台の上には映写機が設置されていた。2人の芸人が映画について説明した後、6編の短編無声コメディー映画が上映されたのだが、上映中も芸人たちは棒でスクリーン上の出演者を指しながらあれこれ騒いでいた。フランス語は「ジュテーム」くらいしか知らないので、何を言っているのかさっぱりであったが、喜劇であったためルクセンブルクの観客たちと同じタイミングで笑うことができた。上映時間は約20分であった。

 次の上映開始時間まで30分くらい余裕があった。そこで、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』の中で主人公アントワーヌが乗っていたアトラクションに、私も意気揚々と乗り込んだ。円形のアトラクションが回りだすと遠心力で体は上に押し上げられるのであるが、その際前を向いたまま両腕を広げ大の字のまま姿勢を維持しなければならない。私は恐怖のあまり目を閉じてしまい、さらに体が上に浮くものだから始終悲鳴を上げていた。アトラクションを乗り終えると案の定、フラフラになり、顔面蒼白、吐き気に加えてバランスも取れない始末である。そんな状態のまま2回目のショーを観に行ったが「オェッ」。1900年度にヨーロッパのある病院で実際に行われた手術の模様を収めた奇怪な短編映画集(R-16指定)であった。上映前、芸人が腕ギブスの片方を投げていたが、そのときに気付くべきであった。映画の中の医者たちが甲状腺手術のために首の下を切除したと思いきや、滅茶苦茶にメスを入れているではないか。ここで笑うべきか黙っているべきなのか……。また、他の映画では男性器に手術を施すものもあり、一体どういうリアクションをとればいいのかわからなかった。この奇怪な映画をまとめたシネマテーク・ルクセンブルグもそれを笑う観客も大胆極まりない。ともあれ、2本目の上映は終了した。

 3本目は、R-18指定の映画ということで、気を引き締めて中に入った。しかし、再び「オェッ」。短編ポルノ映画の括りであった。座席も、一方は女性専用、もう一方は男性専用となっていた。1900年代初期の、西欧の老人たちのポルノショーを観るのだから落ち着かないのは当然のこと、その内容も果敢であった。映画を観終わり外に出ると、シネマテークのスタッフが派手な包装が施されたコンドームをプレゼントとして配っていた。またまた「オェッ」。ベルテーム氏に、こんな映画を韓国の私たちの職場で上映したら、即クビになる、どうしたらこんな映画を上映できるのかと聞くと、少し肩を震わせて“だからR-18指定じゃないか”と応えた。ああ、稀少でありながら驚くべき原初的映画経験、まさに「クレイジー・シネマトグラフ」!!!!

 その後ベルテーム氏から今年も9,000人以上の観客たちが「クレイジー・シネマトグラフ」を楽しみ、昨年よりも多くの観客が訪れたとのメールが届いた。まだクビにもなっていないよ、という伝言と共に。

12.パブストの1925年作『喜びなき街』復元物語

 19世紀末、複製技術時代に突入した際、ある哲学者が映画という民主的なメディアの登場を歓迎する一方で、アウラの消失を悲しんだ。何千編もの全く同じプリントが作られ、全世界の映画館の映写機にかけ上映できるフィルムは、〈オリジナリティ〉云々と語るには不憫な媒体である。しかし、最初に何かが起こり、そこから無数のものが生み出されたように、一編の映画は、オリジナルネガとして世界に現れ、次にマスターポジが、そしてポジからデュープネガが、そしてデュープから上映用フィルムが生み出されるのである(もちろん初期にはオリジナルネガから多くの上映用プリントを作り映写機にかけてしまった)。ただ、オリジナルネガから沢山の上映用プリントが登場するまでの短い期間に、多くの個人や組織が干渉することで、結局は創作者の意図とは異なる作品が作られ、〈まがいもの〉も乱舞した。数十年の月日が流れ、〈まがいもの〉ばかりが幅を利かせ、それらが高い評価を受けているとしたら、どうなるだろうか。本来の状態のまま復元・保存しようとするフィルムアーキビストたちの胸は張り裂けはしないだろうか?

 さて、ドイツ表現主義から、日常のリアリティーをあるがままに映し出す新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト)へと変遷するちょうど境にある作品、G.W.パプストの『喜びなき街 Die freudlose Gasse』(1925)を紹介しよう。私たちに馴染みは薄いが、1920年代ヨーロッパにおいて当時のアイドルであったアスタ・ニールセンと、かの有名なグレタ・ガルボが出演した映画である『喜びなき街』は、誕生の瞬間から不運且つ悲運な映画であった。この映画は、ロッテ・アイスナーやジークフリート・クラカウアーのような批評家たちから、象徴主義を乱用した典型的なメロドラマと酷評されたのであるが、実際は、彼らが観た、そしてその後多くの観客たちが目にした『喜びなき街』は、検閲によって満身創痍と化した不完全版であった。 ポール・ローサに従うのであれば、1日に16時間も撮影し、38日間かけて完成した作品の最終版は3,700mであった。途方もなく長いこの映画は、フランスではウィーンの街のシーンを合わせ700mが削除され上映、ロシアでは、主人公の将校は医師へ、殺人犯は(アスタ・ニールセン扮するマリアであったにもかかわらず)肉屋の店主へと替えられ上映された。この後、フィルムはドイツ当局の再検閲にかけられ、さらにあちこち削除された。また、イギリスでは端から上映が禁止された。

 この映画の歴史をさらに詳しく見ていくと、ドイツでの最初の上映版は、1925年5月25にドイツの検閲当局によって4m分が削除された3,738mであるが、1926年3月29日に警察庁から、映画に猥褻な内容が含まれていることを理由に上映禁止を要請され、結果的にさらに261m分が削除された。1989年にミュンヘン映画博物館がこの作品を復元するために世界中のフィルムアーカイブに所蔵されているプリントを収集したところ、(1)シネマテクフランセズのフランス語の中間字幕が入った2,168mバージョン、そして(2)イギリスの国立フィルム&TVアーカイブ[*現BFIフィルムアーカイブ]に所蔵されていた2,168mバージョン、そして(3)ロシアのゴスモフィルモフォンドから送られてきた2,950mバージョンの3つのプリントの存在が明らかになった。

 この3つのプリントは、尺、中間字幕のみならず、シーンの編集が各々異なっていた。また、これらのプリントは、オリジナルネガから作られたプリントではなく、デュープネガから作られたプリントであるから、(白黒映画時代に写実性を高めるために施した)着色や画質も異なっていて染色や調色などにも顕著な違いが表れていた。

 こうした困難を克服し作品を復元したのであるが、当然のことながら再び復元する必要があった。1995年、ミュンヘン映画博物館は、FIAFを通じて再び全世界のフィルムアーカイブに『喜びなき街』のフィルムの収集を要請し、オーストラリア、ドイツ、米国、カナダ、イギリス、ハンガリーから21編のフィルムを収集した。

 このうち5編が元来のナイトレート・プリントだと判明したのであるが、(1)ロンドンのロハウアー社から収集したプリント(BFIのアセテート・デュープネガの前世代)、(2)パリのシネマテーク・フランセーズから収集した染色プリント、(3)フランス語の中間字幕が入ったミラノのフィルムアーカイブのプリント(他の2つのバージョンを合わせたプリントで、一部がフランスのプリントと同一)、(4)その二つとは異なる字体を用いた中間字幕入りのゴスフィルモフォンドのプリント、(5)ロチェスターのジョージイーストマンハウスが所蔵していた59分版のプリント(1960年初期に、ジェームス・カードが購入し、グレダ・カルボを中心に再編集されたプリント)であった。

 この5種類のプリントのうち、ロンドン、パリ、そしてミラノの一部のプリントが同じネガから、ロチェスター、モスクワ、そしてミラノの一部のプリントが他のネガから作られていたことが判明した。この事実からドイツの国内用バージョンのAネガと国外用バージョンBネガが存在することが明らかになったのだった。画質とショットの尺を考慮して、ロンドンのプリントを基本にデュープネガ全編を構成した後、ロンドンプリントにはないシーンや画質のいいシーンのデュープネガを作り上げたのである。中間字幕のために単語や字体を復元し、236枚の中間字幕のうち、70枚の字幕が再作成された。3種類のプリントにはそれぞれ異なる染色が施されていたため、デズメット方式を用いた染調色作業が行われた。これらの復元作業は、1998年に完了した。

 2009年、DVD制作に際して、1998年の復元版にベルリンのドイツ・キネマテークが所蔵していたアウトテークから5つのオリジナル中間字幕を挿入し、いくつかの事柄が修正・補完された。この作品の復元は現在も進行中であり、新たな資料が発掘されれば、復元作業にさらなる展開があるかもしれない。

 同じ商品を大量生産するかのごとく、ほんの数分で上映用ファイルをダウンロードできてしまうデジタル複製時代に、〈オリジナリティ〉に少しでも近づけようとするこうした至難の作業は、映画という媒体にもアウラが潜んでいると信じるフィルムアーキビストたちのデジタル時代に向けた答えではないだろうかと私は思う。

13. 幼い頃私を魅了した彼女たちとの遭遇

 私が1年間暮らしたアパートには奇妙な噂が流れていた。猟奇的な私は、その噂が本当であることを願い一晩中起きていたこともある。その噂とは、ルイーズ・ブルックスの幽霊が出るというものである。ルイーズ・ブルックスとはどんな人物であろうか?そして、なぜ彼女がノースグッドマン通り7番地のアパートに現れるのであろうか?

 漆黒のボブ・ヘアに、見るものを呑み込んでしまうような大きな瞳を持つこの女優は、1906年に米国カンザス州のとある街に生まれ、1922年、マーサ・グラハムも団員として所属していたモダンダンスカンパニーのダンサーとしてキャリアをスタートさせた。1925年、無声映画『或る乞食の話 The Street of Forgotten Men』(ハーバート・ブレノン監督)で女優デビューを果たし、それから4年後の1929年にはドイツのパブスト監督の『パンドラの箱 Die Büchse der Pandora』のヒロインであるルル役に抜擢された。彼女を愛する全ての男たちを悲劇的な結末へと誘うルルは、妖艶でありながらも無邪気で、善と悪の両方を併せ持つ結晶体のような存在であった。箱を開けた瞬間、彼女が飛び出し邪悪な空気に覆われたかと思いきや、殺人罪で起訴され法廷に現れた彼女が覆われた黒いベールを上げ悲しそうな微笑みを浮かべると、犯した罪が全て許されてしまうような空気に包まれるのである。この瞬間、ラングロワの言葉通り、マレーネ・ディートリッヒ、グレダ・ガルボさえも霞んでしまう。ただ、ルイーズ・ブルックスだけがそこにいるのである。彼女の演技は、他の無声映画女優と比べるとあまりにも自然で、彼女の顔がクローズアップされるたびに光を放つのであった(決して照明のためではない。まさに光を放つのである)。そんな彼女は、プライベートでも自由奔放、言葉も辛辣で気難しい性格だったそうだ。

 晩年は、ジョージイーストマンハウスのキュレーターであったジェームス・カードの奨めでロチェスターに居を移し、彼の援助の下『ハリウッドのルル Lulu In Hollywood』という自伝を出版した。ブルックスは1985年に79歳でこの世を去ったが、彼女が晩年を過ごしたその場所こそ、私が住んでいたアパートだったのである。アパートは、ジョージイーストマンハウスから足早に歩いて5分ほどの場所にある。彼女が何階に住んでいたのか定かではないが、それでも私はしょっちゅう、老いたブルックスがたばこを咥えながらアパートの廊下をうろつく姿を想像していた。彼女が無声映画女優として活躍したのは、僅か15年という短い間であった。その後、彼女はどう過ごしていたのだろうか?ジェームス・カードとはどういう関係だったのか?ここでの暮らしはどんなものだったのか?噂では、老後はベットの上で寝てばかりいたそうだが、彼女は本当に気難しい性格の持ち主だったのだろうか?

 昨年秋、そんな彼女とドイツの映画博物館で遭遇した。『パンドラの箱』の澄まし顔のルルとして、さりげない流し目でこちらを見ていた。私は彼女に陶酔しその場に立ちつくしたまま、英語で挨拶するべきか、それともドイツ語で言うべきか、あるいは「お綺麗ですね」と褒め言葉から入ろうか迷っていた。ブルックスの幽霊は雪ばかり降るロチェスターを離れ、黄金時代を過ごしたベルリンに住み着き、一晩中ここを彷徨っているのではないかと想像を巡らせていた。

 そんなことを考えつつ、ニヤニヤしながら館内を歩き回っていた。すると、ルイーズ・ブルックスほどではないが、輝きを放っていた女優マレーネ・ディートリッヒの姿が現れた。ハットを斜めに被りポケットに手を突っ込んだ彼女がこちらを見ていたのである。

 韓国でもよく知られている彼女は、1901年にドイツのベルリンで生まれ、学生時代にはバイオリンの英才教育を受けたが、手首を負傷したことをきっかけにバイオリン奏者になる夢を諦め、1921年からは演劇学校に通い始める。その後、スタンバーグの『嘆きの天使 Der blaue Engel』のヒロインであるローラローラ役に抜擢され、一躍スターの座を手にする。ローラローラは、本の中の世界しか知らない大学教授を破滅の道へと追いやる悪女である。楽屋を訪ねた教授の前で彼女は、テーブルの下にわざとたばこを落とし拾おうとする彼に自らの脚線美を見せつけたり、白粉(おしろい)を彼の顔にふりかけてはそっと拭いてあげるというような悪戯を織り交ぜ誘惑するのである。男装した彼女が舞台に上がりハスキーな歌声を披露する瞬間、その誘惑に打ち克つことのできる男性は果たしてこの世に存在するのだろうか?

 ディートリッヒは老いてもなお演技を続け、1992年に91歳のとき、フランスのパリで人生の最後を迎えた。ディートリッヒから衣装や小物などを寄贈されたベルリン映画博物館は、彼女のために広い展示スペースを設けている。展示スペースには、彼女が身に着けていた衣装や小物のほかに、装身具、スチール写真などが置かれている。その中にいると『上海特急 Shanghai Express』(1932 ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)の中で震えた手で持つたばこを吸う上目使いの悲しみに満ちた表情を、さらに『ブロンド・ヴィナス Blonde Venus』(1932 ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)の中でゴリラの着ぐるみを一つ一つ剥ぎながら歌う傲慢でありながらも戯けた彼女の表情を思い出す。さらに私は、「ゲイリー・クーパーが好みですか?それともケーリー・グラント?」と聞いてみたくもなった。

 遠く離れた異国の地で、幼い頃私を魅了した彼女たちと遭遇したことで、とりとめのない想像ばかりが膨らんでいたのである。

14. 幼い頃の映画遊びをテンプルホールで

 歳を重ねると好みが変わるという話は、どうやら本当のようだ。20代の頃には、ケン・ローチの政治的な映画やドキュメンタリーを好み、30代前半にはイメージで圧倒するピーター・グリーナウェイの映画や実験ドキュメンタリを、30代後半にはウェルメイドな映画を、そして40代になるとハリウッドのブロックバスターのような映画を好んだ。しかし、小さい頃から変わらず好きな映画がある。その映画とは、昔テレビの“週末の映画”で放映されていた、必ず美男・美女が出演する古典映画である。家柄のせいか、日本の映画雑誌『SCREEN』を読んで育ったため、弟と遊ぶときはしりとりのような一般的な遊びではなく、映画俳優の名前当てクイズなどをして遊んでいた。当時私が好きだった男優は、スティーブ・マックイーン、モンゴメリー・クリフト、グレゴリー・ペック、ユル・ブリンナー、バート・ランカスター、アラン・ドロン、女優だとジュリー・フランシス・クリスティ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、マリア・シェルなどのファンであった。テレビをバカ製造機と呼んでいた両親でさえ、週末になればボーっとテレビを眺めていたものである。

 さて、トリノ映画博物館のテンプルホールー博物館の建物は本来ユダヤ教の教会として設計されていたためその名が付いたーのエントランスを抜けると中央に数十個の赤いソファーが置いてあり、両脇に貼られた大きなスクリーンには後方に設置された35mmフィルムの映写機から編集映像が投射されていた。そのうちの一編は、1900年代のトリノ市の記録から始まる無声映画として編集された映像であったし、他の映像はイタリア出身の映画監督たちが一つのテーマを設けヨーロッパ映画をまとめた映像であった。他のスクリーンでは、フェデリコ・フェリーニ監督作、ドナルド・サザーランドが主人公カサノバに扮する『カサノバ』(1976)、晩年のジュリエッタ・マシーナとマルチェロ・ヴィンチェンツォ・ドメニコ・マストロヤンニが出演する『ジンジャーとフレッド』(1986)、ソフィア・ローレンとヴィットリオ・デ・シーカ出演の『ヴィーナスのサイン』などが上映されていた。また他のスクリーンには、私の知らないイタリア無声映画女優が大げさに気絶する様子が描かれている『カビリア』(1914 ジョヴァンニ・パストローネ)、牧神に変身し美女を誘惑するフェボ・マリ出演の『ファウノ Il fauno』(1917)も上映されていた。また、イタリアの無声映画女優が、「情熱の炎で、一瞬理性を失っても、その選択はあなたのもの。私を燃やして」というセリフで肩を出したまま男に求愛する、タイトル不明の映画も上映中であった。


画像:トリノ映画博物館の「不条理の部屋」

 両脇の空間には、ジャンル別にデザインされた部屋があり、そこでも編集された映画クリップが上映されていた。一番最初に入った部屋は、「不条理」の部屋であったが、ルイス・ブニュエルの『自由の幻想』(1974)を模して6つの便器が設置してあり、その上に座り映画を鑑賞できる作りになっている。そこでは、『トーク・トゥ・ハー』(2002)、『8 1/2』が上映中であった。その横は「恐怖」の部屋になっていて、『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)とドラキュラ映画の映像クリップが、「ウエスタン」の部屋にはセルジオ・レオーネの映像クリップが、「愛と死」の部屋には『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972)、『突然炎のごとく』(1962)のクリップが流れていた。驚くことに、殆どの映画は、イタリアでダビングされていたのだ。ところで、テンプルホールに入った瞬間から、一緒に見学していた見知らぬ人と、気付いたら映画のタイトル合わせゲームをしていた。英語のタイトルを全て覚えていたわけではないのでー相手も英語のネイティブではないー頭に浮かんでいるのに出てこなかった映画が殆どであるが、1990年代以降の映画についてはあまり詳しくないと言っていた相手の弱点を突いて、ゲームに熱中していたのだった。私は、ジョディー・フォスター主演の『コンタクト』、ベルナルド・ベルトルッチの『ドリーマーズ』(2003)、ニコール・キッドマン出演の『ムーラン・ルージュ』、ラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』(1996)を相手よりも早く言い当てることができたのだった。

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